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ソーラーカーの歴史 第一巻 年代記

第1章 黎明期

The History of the Solar Car Volume 1 Section 1


1970年夏 大阪

 1970年 人類の進歩と調和をテーマに大阪にて開催された万国博覧会EXPO70は、第二次世界大戦後25年で復興した日本の姿を外国に誇示するための一大イベントであった。アポロ11号が持ち帰った月の石を見るために、人々は長蛇の列を作った。未来はまだ夢と期待を持って語られていた。太陽電池は科学技術の象徴である人工衛星のエネルギー源。それは遠く手の届かない魔法のパネルだった。
 大阪万博シンボルタワー「太陽の塔」をデザインした岡本太郎は、その後、第一回鈴鹿ソーラーカーレースのポスターデザインを手がけることになる。博覧会跡地の万博公園はエコエナジー大阪会場となり、やがてここに関西圏の工業高校のソーラーカーが集まることとなる。


1973年冬 鈴鹿

 1973年 オイルショックは日本経済に大きな打撃を与えた。大量生産大量消費を前提とした経済構造は根本から見直しを迫られた。
 電気工学を志し、鈴鹿市にある高等専門学校の入学試験を受けるために駅に降りた私が見た物は、ライトアップするための照明が落とされた鈴鹿サーキットの看板だった。  1974年 通産省主導によりサンシャイン計画(石油代替エネルギーの開発)、ムーンライト計画(省エネルギー技術の開発)が策定され、太陽エネルギー利用に関する研究が加速された。

 1976年 米国にてアモルファスシリコン太陽電池が開発され、日本では1978年からサンシャイン計画に取り入れられた。この時期、世界各地で太陽電池を使って得た電力にて車両を走らせようという試みが行われ始めた。日本においても東京電機大学の藤中研究室がセパレート型ソーラーカーの研究開発に着手している。

 1980年 NEDO(新エネルギー総合開発機構)設立。太陽電池を含む石油代替エネルギー利用に関する研究のさらなる促進がはかられた。太陽光発電の実証設備が作られ、身近な電卓にアモルファス太陽電池が搭載されるようになり、私たちは太陽電池が人工衛星だけでなく、自分たちの生活に必要な電力をまかなう目的にも使えることを知った。


1982年冬 東京

 Hans Tholstrup 氏が豪州大陸を横断するために奮闘していた1982年の年末から1983年かけて、私は修士論文の仕上げ実験を行うために毎夜、大学の研究室に泊まり込んで昼夜が逆転した生活を送っていた。私が彼の偉業を知るのは20年近くも後のことである。

1983年春 滋賀

 化学系企業に就職し、研究室に配属された私が最初に与えられた仕事は、アモルファスシリコン太陽電池表面の保護コート材の開発だった。小さい頃には手の届かなかった魔法の板が、単なる評価のための素材として実験台に積み上げられていた。残念ながら私の社会人としての最初の開発品は、製品として世に出ることなく終わり、当時出願した特許も見なし取り下げされている。

1985年 バブル景気 ツール・ド・ソル

 当時、ドル高による貿易赤字に悩んでいた米国は、1985年に市場にG5諸国と協調介入する旨の共同声明を発表した。所謂プラザ合意である。これにより急激な円高が進行し1ドル240円前後だった為替相場が1年後に1ドル120円台まで急伸した。急激な円高による輸出企業救済のため金融緩和が実施されたため、国内には過剰な流動性資産が発生し、それらが株や土地の売買に投入され異常な値上がりが始まった。いわゆるバブル景気である。

 筑波にて開催された科学万博EXPO85には科学技術好きの日本人が殺到した。

第1回「ツール・ド・ソル」

 カーグラフィック誌やカースタイリング誌にスイスで開催された世界最初のソーラーカー競技「Tour de Sol」に関する記事が掲載されたのはこのころだ。ローマンズホルンからジュネーブまでの山間の道を含む350kmの公道を太陽エネルギー、電力、人力(!)で5日間かけて走るこの競技には58台(一説に68台)の車両が参加し、ダイムラーベンツ社から参加したシルバーアロー号が平均速度37.5km/hrで走りきり優勝、二位には平均速度30.8km/hrを記録したビール工科大学が入った。

第26回東京モーターショー

 日本でも、東京モーターショーの日本電動車両協会のパビリオンにて東京電機大学のソーラー電気自動車の展示・試乗会が行われた。華やかな一般車の展示に比べ、電動車両協会の展示場所は、パビリオンとは名ばかりの常設展示館の脇に設けられたテントに過ぎなかったようだ。展示された東京電機大学のソーラー電気自動車は市販車のエンジンをモーターに取り替えたた改造電気自動車と、自動車本体とは別に設けられた電力供給用の太陽電池パネルからなる、所謂セパレート型のソーラーカーシステムであった。しかしながら、この展示は、日本国内の公開の場で、太陽エネルギーを用いて、人の乗った自動車が、実際に走る姿を披露した 記念すべき最初のイベントなのであった。バブル景気が、多少なりとも日本のソーラーカーの萌芽を助けたのは間違いない。


1987年 第1回ワールド・ソーラー・チャレンジ

 豪州大陸を縦断する世界初のソーラーカーイベント第1回WSCには、企画段階から東京映像社が参画し、関係者の尽力により旭光学(ペンタックス)とシチズン時計がスポンサーに加わった。日本からのソーラーカー出場台数は次の4台であった。

  ゼロファイター(ハマ零 山脇一 氏)
  フィーバス(ホクサン)
  サザンクロス(SEL:半導体エネルギー研究所)
  NTV−レイトンハウス Solar Japan (ソーラージャパン 江口倫郎 氏)

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太陽能車考古学研究所 2006.01.01