Solar Car Archaeorogy Research Institute
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ソーラーカーの歴史 第三巻

日本のソーラーレーシングチーム

The History of the Solar Car Volume 3
Japanese Famous Solar Racing Teams

先駆者達

    東京電機大学 藤中研究室
    真砂工業

WSC1987参加チーム

    ハマ零
    ほくさん
    半導体エネルギー研究所
    ソーラージャパン

■■■ 先駆者達 ■■■


1.東京電機大学 Tokyo Denki University


1977 ? 〜
  藤中正治研究室による電気自動車〜ソーラーカーの研究 *1)*2*3)*4)
  オイルショック以後に研究着手。
    第1号車 自転車を改造。
    第2号車 自転車を横に並べて四輪車に
    第3号車 バイクを二台並べ
    第4号車? 〜軽自動車車両を利用
  一部の写真を成書に見ることができる。正確な製作年月はいずれの資料にも記載されていないが、引用されている新聞記事の日付等から判断するに第1号車〜第2号車は1978-1980頃であろうと推定される。少なくとも1〜3号車までは、写真から判断するに、車体本体に太陽電池パネルを搭載した一体型ではなく、車体とは別に太陽電池を置き、駐車時に充電するセパレート型であったようである。*2)


1985 第26回 東京モーターショー
    東京晴海国際展示場(日本電動車両協会)
    藤中研究室で開発されたソーラーカーのデモ走行、試乗会
    13日間(内、晴天は6日間)に150km走行 
    ソーラーパネル(1kw)と車体が別、車庫停車時に充電
    一日の充電で40km走行可能。 *1)

1987 第27回 東京モーターショー 1987 東京晴海国際展示場
    藤中研究室 アモルファス太陽電池(カネカ)70wを搭載した
    ソーラーカー「そうら87」の展示
    市販車改造 二人乗り 重量800kg *1)

1989 第28回 東京モーターショー 1989 千葉幕張メッセ
    藤中研究室 単結晶シリコン太陽電池搭載ソーラーカーの展示
    市販車改造  *1)


 藤中教授は、公道走行による電気自動車の実用性研究に重点を置いている。保安基準を満たすために重くなる車体を、車体に搭載された太陽電池だけでまかなうことは現実的ではなく、一貫してセパレート型を基本にしたソーラーカー開発を続けている。また実際の走行試験時には、夜間駐車中に夜間電力によりバッテリーを充電している。



1992 埼玉大学との合同:「テクノプラズマ レーシング チーム」が
    ソーラーカーレース鈴鹿1992とソーラーカーラリーin能登に出場しているが、
    藤中研究室直接の関係はない模様。

1994 軽自動車ホンダ「トゥデイ」を改造したソーラーEVにて日本一周。*3)
1995 軽自動車スズキ「セルボ」を改造したソーラーEVにて、
    北米大陸ニューヨーク−シアトル横断コースを往復。*3)
1997 トヨタ「スターレット」を改造したソーラーEVにて欧州アルプス越え、
    さらに北米大陸のニューヨーク、コロンバス、ロスアンゼルスと横断。*3)
2000 バッテリーをニッケル水素に交換した「スターレット」改造ソーラーEV
    「ソーラーバード」にて世界一周:中国、モンゴルからロシア、ヨーロッパを
    経由した後、北米を横断(走行距離 18000km)*3)*5)*6)


*1) 藤中正治(Masaharu Fujinaka),「地球にやさしいソーラーカー(ハイテク選書ワイド)」  ,東京電機大学出版局,(1991.03.30)
*2) 藤中正治, 「ソーラー電気自動車のおはなし」, 日本規格協会, p99-101, 1994.08.05.
*3) 藤中正治, 「エレクトリックエンジンカー」, 東京電機大学出版局, p162, 2003.11.10.
*4) ぷりずむ「太陽電池自転車」, 朝日新聞(東京本社版), 1980.09.27(孫引き)
*5) http://www.dendai.ac.jp/d1_topics/d1_0-past9909.html
*6) http://www.dendai.ac.jp/d1_topics/d1_0-past0103.html


  

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2.真砂工業株式会社 MASAGO Industry


1991以前   遊園地用遊具(コインカー)ソーラーボーイを開発。*1)p71
    屋根にパネルをのせた背の高いカート型
    推定 パネル面積1m2程度
    モーター出力200w程度 時速2km/hr

 恐らく世界最初期の商用ソーラーカーであると思われる。真砂工業は1975年から遊園地遊具に参入、ジェットコースターなどを製作していた。2001年に倒産したため、詳細の追跡調査は困難。*2)



*1) 藤中正治(Masaharu Fujinaka),「地球にやさしいソーラーカー(ハイテク選書ワイド)」  ,東京電機大学出版局,(1991.03.30)
*2) "Game Machine",Amusement Press Inc.,2001.11.01
  http://www.ampress.co.jp/backnumber/bn2001.11.01.htm

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■■■ WSC1987参加チーム ■■■

    ハマ零
    ほくさん
    半導体エネルギー研究所
    ソーラージャパン

1.ハマ零 HAMAZERO

 山脇一氏率いる有名なプライベートチーム。本拠地は浜松市。山脇氏は日産自動車宇宙航空部実験課でロケットの制御技術の開発の傍ら、プライベートでエコノミーラン(マイレッジ・レース)に参加していた。

1982年
 シェル社主催のマイレッジマラソンに、ハイブリッドエコランカー「サンシャイン号」にて参加。太陽電池を搭載し、得られた電力でエンジン始動用のスターターモーターが駆動された。さらにレース終了後の10月、サンシャイン号のエンジン付属のダイナモ部分がモーターに改造され、駆動系がガソリン/電気のハイブリッド構成となった「サンシャイン号改」による試走が行われた。試走の様子は中日新聞とモノマガジンにて紹介されたという。発進、加速時にガソリンエンジンを用い、定速巡航時にはソーラー電力によるモーター駆動で走るという、現在の市販ハイブリッドカーとは正反対の発想であり、山脇氏の先進性と発想の独自性を見ることが出来る。*28)

1983年(推定)
 家庭の事情で日産自動車を退社。*29) 何でも開発会社「ハマ零」設立。

1985年
 鈴鹿サーキットにて開催されたマイレッジマラソンに、 自らが設計し京セラに特注して製作されたセラミックエンジンとソーラーを搭載したエコランカーにて参加。ソーラー電力は室内換気用のベンチレーターに使用された。なおマイレッジマラソンの車両規定上、車両の駆動に関係ない部分では他のエネルギーの使用が可能である。*28)

 前後するが、本格的なソーラーカーの開発に着手したきっかけは1984年に読んだ、1982-83年にかけてのハンスソルストラップ氏の豪州大陸横断記事に感銘したところにあった。独自に私費をつぎ込んでソーラーカー開発に着手し、当初は借金取りから家族を守るために離縁状まで用意したというが、やがて京セラと矢崎総業からのスポンサードを受け、車体製作にはGHクラフトの協力が得られることとなった。*25)*26)


1987年
 第一回WSCに出場した「ゼロファイター」は、未来的な外観と多少なりともドライバーを強い日照から守る工夫が凝らされた他のソーラーカーと異なり、「異様なルック」と評された。 そのフルオープンカータイプのスタイルは、まさに零戦を彷彿とさせた。*16) レース中には記録的な大雨に遭遇して、配線を濡らし、パネル配線張替えのために大きく時間をロスした。*5)*16) 途中バッテリー交換をしたため(オーガナイザー承認)、公式記録ではリタイヤとなったが、実際には17日間かけてアデレードに到着、意地の「完走」を果たした。*1)p138-139 *4)


1989年
 その後、解体すれば手荷物として持ち込めるサイズの小型ソーラーカー「ソーラーマウス」を開発し1989年8月*2)(1990年8月との記載もあり*5))カナダで行われたカナディアンカップ・ソーラーカーレース(トロントを出て、モントリオール経由でオタワまでの公道約500kmを5日間かけて走るラリー競技)に参加、MITチームと競り合い、クラス1位、総合2位。最後の4kmは故障したソーラーマウス号をドライバーであった山脇氏自らがロープで牽引して走ってのゴールであった。*2)*5)*27)*28)  平行して"Ninjya"を開発、1989年9月、第一回朝日ソーラーカーラリーにはソーラーマウスとNinjyaの二台でエントリーした。*3)

1990年
 WSC1990には東京電力の出資を受けて新に製作した忍者(Ninjya)号にて参加。山脇氏は車両設計とドライバー、チーム総指揮は植田吉樹氏、総勢8名のチームであった。曇天の初日、スタート後、約1時間にてバッテリー切れでストップ。2日目の夜には翌日午前二時までかけて走行系の大改修を行い、砂漠の闇にカナノコやハンマーの音を響かせた。3日目には竜巻の直撃を受けてアッパーカウルを吹き飛ばされるという災難に遭遇した。*44) 「1500km走ったところでマシントラブルによりリタイヤ *5)」との記載もあるが、12日めに公式にレースが終了した後も走り続け、チームの意志を尊重した主催者配慮で公式記録員も行動を共にした。アデレードまで230kmに迫った14日目、当日中にゴールできると誰もが信じたが、アデレードまで70kmの地点で、追い越そうとした一般車がスピードを出しすぎてスピンし、忍者号に乗り上げるという大アクシデントに巻き込まれて車両が大破した。幸いドライバーの山脇氏に怪我はなく、割れた太陽電池をつなぎ合わせ、歪んだ後輪駆動系を応急修理して2時間後の16時過ぎに走行再開した。満身創痍の姿で、主催者ハンス・ソルストラップ氏が出迎えるゴールに到着したのは翌15日目の9時頃であった。山脇氏のWSC完走に向けての不屈の執念は映像記録に残されている。*44) 


WSC参加時のスポンサーの一社であった東京電力が発行した」テレフォンカード


 

ハマ零「Ninjya」(三代目?)(ハマ零ガレージにて)
忍者号は3台存在し、写真の車両はWSCに参加したのとは別の車両。
この車両も追突事故に遭遇している。左後部、事故の傷跡が痛々しい。
(車体外装は珍しいアルミ板製)


1991年
 ソーラーチャレンジin北海道1991。北見市で行われた、公道を使用した国内初のラリーレースには「ソーラーマウス」にて参加。詳細不明 *15) 以後、隔年に開催された当レース(1995年はレース自体が中止)には2003年まで皆勤であった。*8)

1992年
 1992ソーラーカーレース鈴鹿には「忍者II夢果号」にて参加。Todayクラス21位、総合34位(27周)6m×2mのフルサイズに近い車体であったがパネル自体は800w級であったことが解る。
 同年のソーラーカーラリーin能登には800wパネルの夢果号にてカテゴリーII(二人乗り)に出場。とことんチャレンジャブルであると同時に、他チームと同じことはやらない、という山脇氏の性分が見て取れる。チームメンバーには早稲田大学永田研を卒業し、ハマ零と同じく浜松に本拠地を置くヤマハ発動機に入社した池上敦哉氏の名前がある。*17)


1992ソーラーカーレース鈴鹿 試走会(1992.06.15 太田龍男氏撮影)

1993年
 1993ソーラーカーレース鈴鹿での車両名は「夢果号」。雨にて中断に近いレースであったが24周を回り、Todayクラス8位、総合15位に入った。*6) ソーラーチャレンジin北海道1993にも「夢果号」にて参加。結果不明。*18)
 1993年のWSCには、「夢果号(Yumeka)」で参加。DCブラシレスモーターのチューンアップが裏目に出て破損、予備の3台も次々壊れ、無念のリタイヤ。*1)p140 リタイヤしてダーウインに引き返すときに、アモルファス太陽電池で苦戦していたルソレイユチームにグリッド通過用の板を譲ったエピソードが紹介されている。 *1)p141

1994年
 1994ソーラーカーレース鈴鹿 Tomorrowクラスに「ユメカ」にて出場し57周、総合10位。Todayクラス昇格は太陽電池パネル面積を増やしたためか、鉛バッテリー以外の蓄電池を用いたためかは手元に資料が無く定かではない。*6)*19)
 '94朝日ソーラーカーラリーin神戸にて、エコランカーと見間違えるような超小型ソーラーカー「莢(サヤカ)」がデビュー。Aクラス(480w以下)10位、総合31位。


ハマ零「夢果(ユメカ)」,ソーラーカーレース鈴鹿'94 (鈴鹿サーキット)


1995年
 1995年、阪神淡路大震災に見舞われた神戸の街に、ソーラーシステムを搭載したソーラーカー運搬用トラックで乗り込み、避難中の人びとにシャワーを提供したエピソードが残されている。
 コスモ石油カップソーラーカーレース鈴鹿’95、カナダを走った往年の名車:ソーラーマウスにて出場したが予選不通過に終わった。
 この年に開催された第1回WEM(World Econo Move)、所謂電気のエコランレースに莢(サヤカ)が出場、60台中12位。*24)

1996年
 1996年第四回目となったWSC1996には400wクラスの小型ソーラーカー「一美(ヒトミ)」にて参加した。エコラン出身である山脇氏の原点回帰とも云える。なお同大会には、細川氏のパンダサンチームも440wの小型ソーラーカーで参加し、大型ボディの大面積太陽電池のパワーに頼る車両作りに向かっていた他チームの動向に対し一石を投じた。(この思想の結実にはZDP「ガメラ」の登場を待たねばならない)
 山脇氏の御長女と同じ名前を持つ「一美」号は、全長3.5m、幅1.71m、前輪2輪、後輪一輪、前後輪間2.35m、前輪幅1m、モノコックで美しく仕上げられた流線型のボディに平板ソーラーパネルを纏い、空車重量はなんと60kgという超軽量車両である。御家芸とも云えるチューンナップモータ(市販品の巻き線を自力巻き替え)を搭載、動力用ソーラーパネルは昭和シェルの単結晶シリコン360w、制御系とモーターを強制空冷ファン用にはアモルファス太陽電池による別系統の電源系60wを有する。補助バッテリーであるニッケル亜鉛バッテリーは8.7kg。あえて、ソーラーパネルを平板化することでMPPTを省略。通常、太陽電池の封止に使うEVAさえ軽量化のために使わなかったという。正真正銘の軽量化の極致、以後とことん小型軽量に拘る山脇氏の姿勢は不変である。
 「一美」号は、平均時速40km程度にて順調に走行を続け、7日目に中間点であるアリススプリングを通過したが、その直後に対向車が跳ねた飛び石の直撃を受け、太陽電池パネルの一部が損傷、集電用のケーブルも断裂した。運悪く天候が崩れはじめ、修理作業は雨の中。さらに軽量化のために太陽電池の封止樹脂を省いたことが裏目に出てセルに水分が進入して結露し、集電効率はさらに低下した。そのようなコンディションの中、8〜9日目にも走行を続けたが、規定時間内での完走が絶望的となった10日目、アデレードまで500余kmを残し、全員協議の結果、無念のリタイヤを選択した。走りきることは可能なコンディションであったということだが、ハマ零所有のトランスポーターにて、すでにゴールしていた育英高専チームのソーラーカーを船積みする期日が迫っていたことが理由の一つであった。*5)*7)
 なおハマ零チームはWSCに先立つ1996WSRのSクラスに「一美」にて出場、総合65位。*20)


ハマ零「莢(さやか)」,朝日ソーラーカーラリーin神戸'94 (画像提供:太田龍男氏)


1997年
 1997年 WSR(ワールドソーラーカーラリーin秋田)Sクラスに一美号にて出場、総合26位。*21) 同じくSクラスに一休(ひとやすみ)号にて出場。総合76位。こちらの車両については詳細不明
 同年のソーラーチャレンジin北海道'97に莢(さやか)にて出場。1時間耐久レース、Aクラス5位、総合10位、最高速度部門優勝、デザイン部門にてメカニック賞を受賞。*22)
 '97朝日ソーラーカーラリーin幕張には一美号にて出場、Cクラス2位、総合2位に入賞した。*23)

1998年
 ソーラーカーレース鈴鹿。コスモ石油がスポンサーから降りたため、冠名が「ドリームカップ」に変更され、2ヒート制8時間耐久レースになった最初の大会である。ハマ零チームは超軽量「一美」号により3年ぶりの参加となった。この時点でも電池込みの車両重量65kgとの記載があり、1996WSC以後も一美号のコンセプトが維持されていることが解る。しかも、ここでの電池(バッテリー)WSCとは異なり鉛バッテリーである。一美号は予選のタイムトライアルにてモーター焼損。参加全68台から決勝レースに進めるのは55台(エンジョイクラスが4時間耐久として別枠レースになるのは翌1999年から)であるため多少の無理はやむを得ない。本戦にはモーターを交換してなんとか出走したが、レース中にチェーンが外れストップ。ドライバーが自力で応急修理してピットに戻ったがチェーン交換に時間を取られトータル43周に終わった(エンジョイトップは堺市立第二工業高校の「M-SUN3」の58周)。 *9)


ハマ零「一美」,WSCC 2001 Malaysia (Sepang International Circuit)


1999年
 ソーラーチャレンジin北海道'99には一美号、莢号の二台にて、ともにソーラーパネル出力200w以下となるAクラスに出場。一美号がAクラス優勝、莢号が同2位に入賞した。

2000年
 湖国ソーラーカー・EVカーフェスタin湖東2000。一美号にて滋賀県東部のクレフィール湖東の教習コースを使い。夜明けから日没までノンストップで走り続ける12時間耐久レースに参加。結果は268周にてCクラス(鈴鹿エンジョイクラスの一般参加に相当)優勝、総合でも8位と健闘した。

 同年夏、前年のソーラーチャレンジin北海道のプレイベントであったソーラーキャラバン(福岡県柳川市から北海道北見市までをソーラーカーで走破)に応える形で、北海道北見市から福岡県柳川市までを、今度はソーラーバイクで走破し、最後は柳川ソーラーボート大会に合流するというプロジェクトが計画された。見事、17日間で日本列島縦断を果たしたソーラーバイクは、ハマ零チームの「隼号」であった。 *30)*31)*32)

2001年
 2001年6月、21世紀最初のソーラーカーレースとなったワールドソーラーカーチャンピオンシップinマレーシア、には一美号にLiイオン電池を搭載し、さらなる軽量化をはかっての参加。*10) レース初日、起伏の多いシャーアラム市街地の周回コース(約8.2km/周)走行中、5周を回ったところでモーター焼損トラブル。度重なるモータートラブルにもかかわらず、頑固なまでに小型モーターに拘る姿に、山脇氏の「一切のマージン、安全率を排して極限を追求せざるにはいられない」美学と哲学を見る。トラブルを抱えつつも二日目のセパン国際サーキット、三日目のプトラジャヤ市街地コースをこなし13位完走。*10)*11)*12)*13) Best Design賞が授与された。

 2001年7月、ソーラーチャレンジin北海道2001には前回同様、一美号、莢号の二台にて参加、順位は逆転し莢号はAクラス優勝、一美号が同2位。
 同年9月、湖国ソーラーカー・EVカーフェスタin湖東2001。12時間耐久レースに一美号にて参加。隣同士のピットになったバカボンズ「湖上の風」とCクラス(鈴鹿のエンジョイクラス相当、一般参加)のトップ争いを演じた。一周1.2km程度の狭いコースをの周回数を競うレースであるため、小型軽量で小回りの効く車両のほうが有利な展開であったが、コース全体が傾斜地にあるため、想定以上にモーターに負荷がかかったようで、またも駆動系トラブルに悩まされた。修理しながらの走行を続けたが15時時点で走行を中断。127周にてクラス3位、総合19位。

 同年10月、2001朝日ソーラーカーラリーin神戸には「カットビSUN」にて出場し、Bクラス1位、総合2位に入賞。


ハマ零「一美」,湖国ソーラーカー・EVフェスタin湖東 2001 (クレフィール湖東)


2002年
 朝日ソーラーカーラリーin神戸2002に「カットビSUN」にて出場。Bクラス2位、総合4位。

2002年
 2002年10月に浜松オートレース場を会場に開催された浜松市の労福協主催の秋のイベント「労福協まつり」に併催する形にて、オートレース場の第1回ファン感謝デーが開催され、さらにその中のサブイベントとして第1回エコバイクレースが開催された。競技は、ソーラー電力により充電された小型電動バイク8台を用い、二人一組となって一周毎にライダーが交代するという形式での追い抜きレースで、参加者は当日公募した一般客である。競技に用いられた電動バイクは地元の城北工業高等学校の卒業生で組織され、山脇氏ももちろんメンバーである「城北会」の手によりハンドメイドされた特製バイク。バッテリーの充電にはピットに設けられたソーラー充電スタンドが用いられた。当初は全10レース160人の参加が計画されたが、実際には参加希望者多数で12レースまで行われた。 *33)*34)

2003年
 2003年3月、大阪舞洲にて開催されたエコカーフェスタ2003には、ソーラーカー部門に一美号が出場し、Bクラス2位、総合7位。 莢号はソーラーバイシクル部門に出場。第一回の開催となったツイントライアル(二台並んで所定の坂道から発進し、200m先のコントロールラインを先に通過した方が勝ち。トーナメント方式による勝ち抜き戦)に「CYPHA」にて出場。
 2003年9月、ソーラーチャレンジin北海道2003には3台のソーラーカーにて参加。1.5時間耐久レースにて一美号が総合優勝(Bクラス首位)し、この年限りでソーラーカー競技部門が休止されることになった大会の最後の優勝チームとなった。莢号もAクラス優勝、総合6位、側車付きソーラーバイク「タマちゃん」はAクラス5位、総合16位。

 2003年10月、浜松オートレース場での労福協まつり/第2回ファン感謝デーに、前年と同様、一般参加車によるエコバイクレースが開催され、さらにこの回にはソーラーカー、ソーラーバイシクル、ソーラーバイク、エコノムーブ等によるデモ走行が行われた。もちろんハマ零チームは総出演であった。 *35)*36)*37)

 

ハマ零「タマチャン」(画像提供:山脇一氏)

2004年
 2004年エコカーフェスタ(湖東)にはCクラスに莢号が参加。

 2004年、浜松オートレース場、労福協まつり/第3回ファン感謝デーでは、新調された電動バイクによる一般参加者向けのレースに並び、レーシング用車両による20分耐久手作りEV&ソーラーバイクレースが開催された。ハマ零チームからは「タマチャン」と「隼号」が参加した。 *38)+39)*40)

2005年
 2005年神戸空港予定地で開催されたエコカーフェスタ2005にはBクラスに莢号が参加(クラス優勝、総合2位)、EV部門にEVポケバイ(隼号)が参加した。

 2005年10月、浜松オートレース場、労福協まつり/第4回ファン感謝デーでは、ソーラー小型車両による耐久レースに加えて、ポスト間を往復するスピードレースが新に種目に加えられた。ハマ零チームも参加していると思われるが、詳細不明。 *41)

2006年
 2006年4月 エコカーフェスタ2006 湖東
 参加予定であったが、柳川ソーラーボート大会の企画会議と日程が重なり参加断念

 2006年7月 エコカーフェスタ2006 備北岡山 参加

 2006年11月 ソーラーバイクレースin浜松2006に出場。なお、今年より、労福協まつり/ファン感謝デーからエコバイクレースが切り離なされ、独立イベントとして浜松オートレース場にて開催される。主催は山脇氏が事務局長を務める日本ソーラービークル協会と浜松市から浜松オートレース場の管理運営を包括委託されている東日本小型自動車競走会プロジェクトチームによる実行委員会である。*42)

2007年


隼号 (画像提供:山脇一氏)


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 山脇氏は福岡県柳川市にて1996年から開催されている柳川ソーラーボート大会の実行委員でもあり、日程が重なるソーラーカーレース鈴鹿になかなか出場できないと嘆いておられた。


 御本人によるウエッブサイトでの情報発信は皆無、チームメンバーによるものも極僅かスポット的なものが散見されるに過ぎないためハマ零情報を得るにはソーラーイベント会場に出向くしかない。会場で山脇氏を見つけるのはさほど難しくないだろう。豪快な笑い声が聞こえてきたら、きっとそこがハマ零チームのピットだ。


資料
*1) 中部博,「光の国のグランプリ ワールドソーラーチャレンジ」,集英社,1994.08.24.
*2) Tadao Takimoto,"The Arts of Management",表紙カバーと本文p15-16, East Press, 1999.11.30.
*3) 後藤公司,「ソーラーカー」,p141,日刊工業新聞社,1992.02.29
*4) 斉藤敬,「ソーラーパワーが翔んだ 第一回ワールドソーラーカーレース」,文藝春秋,1989.01.15.
*5) 沼崎英夫,「1996W.S.C.特集」,ソーラーシステム,pp40-42,(株)ソーラーシステム研究所,1996.12.25.
*6) ソーラーカーレース鈴鹿 歴代成績  http://www.dream-cup.com/
  http://event.yomiuri.co.jp/2006/solarcar/results.htm
*7) http://www.me.utu.edu.tw/~ifplab/solar
*8) http://www.city.kitami.lg.jp/540-01/540-08-200308.htm
*9) 中村洋のWeb-Site:http://www1.ocn.ne.jp/~al-ocean/news.html
*10) WSCC MARAYSIA 2001 SOUVENIR PROGRAM BOOK,2001.06.10.
*11) http://www.jonasun.com/~hiroweb/russianj-nikki-6-10.html
*12) http://www.jonasun.com/~hiroweb/russianj-nikki-6-11.html
*13) http://solar.inkm.net/WSCC.htm
*14) http://izw-23.ddo.jp/bakabonz/01kokoku/01kokoku.html
*15) 後藤公司,「ソーラーカー」,pp156-162,日刊工業新聞社,1992.12.29.
*16) 中島祥和,「車と心に太陽を!」,カースタイリング63,pp84-85,三栄書房,1988.03.31.
*17) ソーラーカーラリーin能登 公式プログラム,1992.08.30.
*18) http://www.haec.ac.jp/Solarcar/solar93.htm
*19) FIA Cup Solar Car Race SUZUKA'94 (1994.08.06-07)REPORT
*20) http://www2.ogata.or.jp/wsr/96wsr/96wsr.htm
*21) http://www2.ogata.or.jp/wsr/97wsr/97wsr.htm
*22) ソーラーチャレンジin北海道'97実施報告書,オホーツクソーラーエネルギー開発推進機構,1997.(立命館大学ソーラーカープロジェクト提供)
*23) '97朝日ソーラーカーラリーin幕張公式資料(立命館大学EV-Racing「我楽多連」提供)
*24) http://www2.ogata.or.jp/wem/95wem/95acc.htm
*25) 中島祥和,「最新のテクノロジーを駆使したGMサンレイサー号と日本組参加者の実力は?」,Motor Fan,pp271-272, 1988.02.
*26) 高木正人,江口倫郎,山脇一,「座談会 ソーラーレースを夢見る男達」,新エネルギープラザ, Vol5.No.1, 財団法人新エネルギー財団(New Energy Foundation),pp10-17, 1989.
*27) 沼崎英夫, 1993WSC特集, Sonet Systems No.57.pp77-78,1994.03.30.
*28) 山脇一氏インタビュー(2006.10.06.)掲載紙誌捜索中
*29) 電気自動車の時代,pp194-196,読売新聞社,1991.12.21.
*30) http://www.yazaki-group.com/j/YazakiNews/200008/224.htm
*31) http://prweb.org/data/02973.htm
*32) http://www.geocities.co.jp/MusicHall/2623/html/ecocat/ecoman.html
*33) http://yaramaika.hp.infoseek.co.jp/2002/10_19rou.html
*34) http://yaramaika.hp.infoseek.co.jp/2002/10_20rou2.html
*35) http://yaramaika.hp.infoseek.co.jp/2003/10_18rou.html
*36) http://yaramaika.hp.infoseek.co.jp/2003/10_19rouA.html
*37) http://yaramaika.hp.infoseek.co.jp/2003/10_19rouB.html
*38) http://yaramaika.hp.infoseek.co.jp/2004/10_16.html
*39) http://yaramaika.hp.infoseek.co.jp/2004/10_17rouA.html
*40) http://yaramaika.hp.infoseek.co.jp/2004/10_17rouB.html
*41) http://yaramaika.hp.infoseek.co.jp/2005/10_16.html
*42) http://motor.geocities.jp/ecobikehamamatsu/index.html
*43) http://yaramaika.hp.infoseek.co.jp/2006/11_18eco.html
   http://yaramaika.hp.infoseek.co.jp/2006/11_18ecoB.html
   http://yaramaika.hp.infoseek.co.jp/2006/11_18ecoC.html
*44) 高橋敏昭、玉井文人, "太陽で走れ〜オーストラリア縦断ソーラーカーレース〜", NHK,1991年放送

第一稿 2006.01.10.
第二稿 2006.03.19.
追記  2006.06.18.
エコラン追記 2006.10.14.
ソーラーバイク追記 2006.10.27.
WSC1990追記 2007.02.03.
鈴鹿1995、WSR1997追記、画像追加 2007.02.17.
画像追加 (Tequenitune Corp.) 2007.07.01.
テレフォンカード画像追加 2007.10.25.

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2.ほくさん HOXAN Corporation


Hoxan Phoebus III Telephone card)


 前身は北海道のガス関連企業である(ほくさん:北海道−酸素)。 太陽電池事業に参入し、ソーラーカーレース参加による宣伝効果を狙っていた物と推察する。

 PheobusI号に関する記録は見あたらず、ソーラーカー開発開始時期は不明。

 1987年の第一回WSCにHoxan Phoebus II にて出場した。車両は日産自動車の子会社であるAutech Japan Inc.の桜井慎一郎氏、古平勝氏によって設計・製作された。*5) ちなみに桜井氏は名車「日産スカイライン」の開発者である。日産自動車追浜工場のテストコースで行われた試走では時速85km/hrを記録したと伝えられる。*5) 搭載された太陽電池はもちろん自社開発の単結晶セルで総発電量は1700wに達する。チーム監督は八木橋慎一氏。レース中はTBSの密着取材を受けた。公式にはリタイヤ扱いだがハマ零と同じ日に17日かけてアデレードに到着、太陽エネルギーだけで走りきった。*1)*6)


Hoxan Phoebus II 日本自動車博物館にて(画像提供 高橋佑輔氏)

 1990WSCには Pheobus III にて参加。開会式には、社長が渡豪して列席した。*8) 3000kmの距離を実質所要時間57.3時間(平均速度52km/h)で走破した(40台中の4位。日本勢ではホンダの2位に次ぐ快記録)。変換効率18〜19%の自社開発単結晶シリコン太陽電池と、同じく自社開発した小型軽量のモーターを搭載。一時は3位にまで追い上げたが、コントローラーのトラブルにて40分間ロスし、4位に後退した。*2) 3位のミシガン大チームとの差はわずか6分であった。*9)  精悍なステルス型戦闘機を想わせる車体(カーボンモノコックボディをあえて塗装していない *7))は PhoebusIIと同じくAutech Japan Inc.にて製作された。*3) 搭載した太陽電池はホンダ「ドリーム」と同じ、他の装備もスペック上は大差ない。しかもホンダがWSC初挑戦であるのに対して、こちらは二度目。ビール工科大チームを逆転する見込みが無くなったホンダチーム、最後は自動車メーカーの意地にかけて「ほくさん」に抜かれないように必死だったとのことである。*8)

 1991年の第1回ソーラーチャレンジin北海道では Phoebus III がエキビジョン走行した。*10)


Hoxan Phoebus III 日本自動車博物館にて(画像提供 高橋佑輔氏)

 1993年のWSCには参加せず、WSC自体のメインスポンサーとなった。

 1993年 「株式会社ほくさん」は「大同酸素株式会社」と合併し「大同ほくさん株式会社」に、さらに2000年大同ほくさん株式会社と共同酸素株式会社が合併し「エア・ウォーター株式会社」が発足した。大同ほくさんの太陽電池事業部門は松下精工に売却され、2000年以後は産業統計に表れていない。*4)  Pheobus II号、III号は現在、石川県の自動車博物館に展示されている。


Hoxan Phoebus III 第1回ソーラーチャレンジin北海道にて
(1991.09.22.撮影 北海道自動車短期大学 山崎信行氏)


More Pictures
附属博物館 展示室「HOXAN」へ


*1) 斉藤敬,「ソーラーパワーが翔んだ 第一回ワールドソーラーカーレース」,文藝春秋,1989.01.15.
*2) 読売新聞社編,読売科学選書47「電気自動車の時代」,p.191, 読売新聞社,1991.12.24.
*3) Autec Japan Inc. http://www.autech.co.jp/HISTORY-WV/S0RW01/
*4) NEDO http://www.nedo.go.jp/nedata/16fy/01/f/0001f002.html
*5) 中島祥和,「最新のテクノロジーを駆使したGMサンレイサー号と日本組参加者の実力は?」,Motor Fan,pp271-272, 1988.02.
*6) 佐藤信太郎,「近未来自動車の実験場 オーストラリア縦断ソーラーカーレース」,OMNI,pp110-115,1987.12.
*7) 江口倫郎,「ソーラーカー製作ガイド3」,Sonet Systems No.50,p.61,ソーラーシステム研究所,1992.06.00.
*8) 細川信明氏インタビュー(2006.1006)
*9) Richard and Melissa King, Sunracing, p79,Human Risource Development Press Inc.,Publishers, 1993.
*10) 北海道自動車短期大学 山崎信行氏インタビュー (2007.09.15)

第一稿 2006.01.10.
追記 2006.06.18.
追記 2006.10.11.
追記 2007.01.08.
画像追加 2007.09.11.
日本自動車博物館所蔵画像追加、本文訂正 2009.01.01.

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3.半導体エネルギー研究所
  SEL : Semiconductor Energy Laboratory Co., Ltd.


 東京都町田市にあるヴェンチャー企業。当時、アモルファスシリコン太陽電池では高い技術を保有していた。WSC参加は、社長が夫人からWSC開催の話を聞いたのがきっかけだという(社長夫人はいったいどこからこの話を聞きつけたのか?)。アモルファスとはいえ、太陽電池セルからすべて手作りしたソーラーカーは滅多にない。社長からの勅命を受けた5人の社員が、5ヶ月間の突貫工事で「Southern Cross」を完成し、豪州縦断レースに挑むことになった。
 変換効率の低いアモルファス太陽電池を搭載した車重300kgの重量級車体による豪州大陸縦断(3000km)には、実に32日間を要したが、彼らは一切のごまかしをせず太陽エネルギーだけで走りきった。*1)*2) もちろん大会本部はとっくに閉鎖されていたわけではあるが、続行意志のあるチームには無制限走行を認めるという主催者判断により、途中でバッテリー交換を行なわなかった彼らも公式に「完走」と認定された。*4) 彼らの粘り強さはオーストラリアの市民を仰天させ、いくつもの新聞が彼らの奮闘ぶりを報道し、ゴールのアデレード市の市民は、暖かい祝福の拍手で彼らを迎えたと伝えられている。

 満足に走れない車をわざわざオーストラリアに「置き」に行って、何の意味があるのか?と評した人がいた。評者はモータースポーツ界では著名なジャーナリストだ。*3) 彼は確かに1987年にトップチームを追いかけてスチュアートハイウエイを一緒に走り、それだけで、参加者とともにレースを体験したつもりになっているのだろう。しかし、自分で図面を書き、金属パイプを溶接し、樹脂を練り、カーボンを張り合わせ、細心の注意を持って太陽電池を車体に貼り付ける、その作業をこなした者にしか解らないことがある。なにかに挫折しそうになったとき、私はSELの物語を読み返すことにしている。

 1990年の第二回WSCにはマツダの協力を得、カーデザイナーによりアモルファス太陽電池のフレキシビリティを活かした美しい曲面を持つ Southern Cross II にて出場したが、制限時間切れで11日後、1996km地点でリタイヤした。*4)*5)

 Southern Cross 1号車、2号車のカラー画像は、藤中正治氏の著書の扉絵に掲載されている。*6)

○薄膜太陽電池の系譜

 アモルファス太陽電池によるWSC挑戦は鐘淵化学(現:カネカ)製アモルファスシリコン太陽電池を用いた本田技研の社内有志チーム「ル・ソレイユ」(後に「ジャパニーズ・クレステッド・アイビス」に改名)に受け継がれた。 国内ではキャノン社の社内有志によるチーム「バカボンズ」が2004年まで自社製のアモルファス太陽電池を用いたソーラーカーでソーラーカーレース鈴鹿を初めとする主に関西地方でのイベントに参戦を続けていた。

 2005年現在、純粋なアモルファスシリコン太陽電池を工業生産している企業は国内に存在しない。一時は夢の素材ともてはやされたアモルファスシリコン太陽電池は、多結晶シリコンとの多層化、あるいは他素材との組み合わせという形で命脈を保っているに過ぎない。光劣化問題が完全に克服できていない点、結晶系シリコン太陽電池の価格低下により相対的にコストメリットが下がってしまった点などが、その原因とされている。
 アモルファスシリコンの系譜を、広く薄膜系太陽電池と捉えた場合、その系譜はCIS(CIGS)系太陽電池に引き継がれていくと予想される。近い将来CIS系太陽電池を搭載したソーラーカーがスチュアートハイウエイを走る姿を見ることが出来るだろう。


*1) 斉藤敬,「ソーラーパワーが翔んだ 第1回ワールドソーラーカーレース」,文藝春秋,1989.01.15.
*2)「ソーラーカーの思い出」(読売新聞1987年12月5日より転載)
  http://www.sel.co.jp/sel_p02.htm
*3) 中島祥和,車と心に太陽を!,「カースタイリング63」,三栄書房,1988.03.31
*4) 沼崎英夫,「アモルファスで挑戦の灯は消えず」,ソネットシステムズ,No.55,P.80, 1993.
*5) 沼崎英夫,ソネットシステムズ,No.67,p38,1996.12.25.
*6) 藤中正治,「地球にやさしいソーラーカー」,東京電機大学出版局,1991.03.30.

第一稿 20060110
第二稿 20060525
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4.ソーラージャパン Team SOLAR JAPAN (江口倫郎氏)


1985年 ソーラーカーとの出会い

 1985年11月22日、当時、三菱自動車工業の社員であったデザイナー江口倫郎(Michiro Eguchi)氏は、たまたま香港行きの飛行機で隣り合わせになった東京映像社代表の大滝勝氏からWSCの計画を聞いたという。*1)*5)
 太陽の力だけで豪州大陸を縦断する。若き自動車デザイナーは、その壮大な計画に感銘すると同時に、ソーラーカーという先例のない乗り物の造形にカーデザインのフロンティアを見た。

 東京映像社は1971年に大滝氏が中心になり、アドベンチャーカメラマンらにより設立された番組製作会社。パリ・ダカールラリーを初めとする海外モータースポーツの取材に多くの実績を持っている。豪州で開催されたウインズ・サファリ・ラリーを通じて親交があったハンス・ソルストラップ氏から豪州縦断ソーラーカーレース大会WSC(World Solar Challenge)開催計画を聞いた大滝氏は、WSCをサポートするための日本窓口を引き受け、スポンサー探しを行うと共に、イベントを盛り上げるために自らがチーム・ソーラージャパンを結成してWSCに参加することを決意していた。*1)*13)*27)*28)

 WSCのレギュレーションブックの表紙には江口氏の最初のスケッチが採用され、GMを本気にさせたと噂された。*5)



1986年 プロトタイプ:SJM ver.1   *1)*6)*7)

 海外のモータースポーツイベント参加を通じて東京映像社と関係が深かった三菱自動車、横浜ゴムの他、鐘淵化学、日本鉱業からのスポンサードを得、全体マネジメントを大滝氏が、実際のソーラーカーの開発製作を江口氏が中心になって進めるという形でチーム・ソーラージャパンはスタートした。

 江口氏は、まずマイレッジカー経験者でもあり、ショーカーの開発で一緒に仕事をした熊谷直武氏(当時:三菱自動車工業株式会社、自動車技術センター電子開発課長)に声をかけプロトタイプ:SJM−1 ver.1. の開発に着手した。*13)(SJM:Solar Japan MMC)
 SJM−1 ver.1. は、鈴木板金社製のシャーシに、あり合わせのカウルを被せた物で、江口氏は格好悪かったと書いておられるが、手作りソーラーカーを見慣れた私には十分に格好良く見える。全体のスタイルは、平板上のソーラーパネルを有する所謂パラソル型のソーラーカーであるが、パネルを前後二段に分けることによりコンパクトさが演出されている。見た目だけでなくパネルを二段にして、後部を低い位置に持ってくるのは、重心を下げる意味と(当時のソーラーパネルは重かった)、太陽を背に受けて走るWSCでの日照方向を考えると合理的である。江口氏のデザインにしばしば登場するところの運転席をソーラーパネルで覆うスタイルには、パネル面積を稼ごうという合理性と同時に、直射日光からドライバーを守ろうというデザイナーの優しさを感じることができる。
 なお、江口氏、熊谷氏共にチームスポンサー三菱自動車工業の社員ではあったが、チーム・ソーラージャパンへの参加はあくまでもプライベートでの活動であった。

 SJM−1 ver.1. '87三菱アイデアグランプリに出品され、銀賞を受賞した。なお、この時には同時に江口氏デザインによるソーラースケーター(電動のローラースケートを太陽電池で駆動!)も参考出品されている。

 # なお文献1には夏木洋介の台詞の形で、
 # 江口氏がソーラーカー着手以前からソーラースケートを手がけていた
 # と思わせる記述がある。(p24)



1987年 SJM−1 ver.2.、SJM−2 WSC1987への挑戦 *2)*4)

 手作りのイメージカーであったSJM−1 ver.1. を元に、展示会向けとして、SJM−1 ver.2. が制作された。車両製作は童夢に委託されたが、実際の製作は下請けした紫紋にて行われた。後に「ソーラーカーの貴婦人」と呼ばれた「Simon902」や「ソラえもん」号を製作することになるファクトリー紫紋の代表、安井照雄氏は、この時にソーラーカーの基礎研究を十分に行うことが出来、大変勉強になったと述べている。*1)*5)*31)

 ワンオフのFPR製ボディとなったSJM−1 ver.2.では屋根型のパネルは廃止され、基本構造は、'85 Tour de Sol で優勝したダイムラーベンツ社のシルバーアロー号に似た4輪のムササビ型となった。
SJM−1 ver.2. 諸元
車両寸法 全長4.7m、 全幅2.0m、 全高0.9m、
車両構造 後輪駆動の4輪車、ムササビ型
空車重量 180kg
太陽電池 単結晶シリコンの丸形セル。パネル総出力432w
駆動系  ナショナルSDG−22C(DC直巻モーター)24V、0.55kw
最高速度 30km/hr
 SJM−1 ver.2. は’88三菱アイデアGPに参考出品され各方面の注目を集めた。使用されたソーラーセルは汎用の5mm厚のガラス基板に貼り付けられたタイプ(5.2kg/モジュール)であり、とてつもなく重かったようだ。(もちろん当時はソーラーカー用パネルなど市販されていなかった。)

SJM−2(NTVレイトンハウス号)  *3)*4)

 三菱アイデアGPで好成績を修めたソーラーカーは各方面から注目を集め、日本テレビやレイトンハウスといった大口スポンサーが付き、部品供給を申し出る協力企業もあつまるようになった。チーム・ソーラージャパンは当初の目的であったWSC参戦にむけて、ショーカーではない実戦的レーシングソーラーカー「SJM−2」の製作に着手した。

 SJM−2のソーラーパネルはドライバー席を覆う形に戻された。前後二段にするデザインは廃され、受光量を最大化できるようにメインパネル全体が左右に角度可変とされ、さらにメインパネルの両サイドに可動式のサイドパネル部分が設けられ、走行中の、車幅規定の中で最大限のパネル面積を稼ぎ、同時に停車中にはパネルを広げ受光面積を最大化できるように工夫が凝らされた。デザインはもちろん江口氏、車両製作の全体コーディネートは自動車用開発部品の設計製作を行っているマトリックスコーポレーションの横川啓二氏(パリ・ダカールラリーに自ら出場した経験を持つ)が担当した。*32)

 ボディカウルの製作は童夢、*1)*5)*6)、駆動系、制動系は熊谷氏ルートにて電動フォークリフト製造販売に実績のあるニチユ(日本輸送機)が担当、*15) 日本鉱業からはチタン部品(ホイールと変速ギア)の供給を受け *1)、最終組み立てはチームリーダーの横川氏が所属するマトリックスコーポレーションにて行われた。*32)
SJM−2(NTVレイトンハウス号)諸元
車両寸法 全長5.8m、 全幅2.0m、 全高1.1m、
車両構造 後輪駆動の4輪車
空車重量 360kg*4)、390kg*6)
太陽電池 メインパネル:NT187単結晶シリコン(シャープ)
 サイドパネル:アモルファスシリコン(鐘淵化学) 合計960w
駆動系  ニチユDTA-1.2P-3500(DC直巻モーター)34V、1.2kw
最高速度 65km/hr
 太陽電池については、当時の太陽電池研究の第一人者であった大阪大学の濱川圭弘氏、高倉秀幸氏のアドバイスを受け、メインパネルには江口氏が工業デザイナー人脈を通じて打診したシャープから供給された単結晶シリコン太陽電池、サイドパネルにはスポンサーである鐘淵化学製のアモルファスシリコン太陽電池が採用された。濱川氏らからは「勝つつもりならNASDAからの委託で三菱電機が開発している宇宙用ガリウム砒素太陽電池を使わねばならないだろう。ただし2億円ほど必要になる」とのやりとりがあった伝えられている。*24) 
 裏側からの冷却を狙って1.2mm厚のアルミ板に搭載されたパネルは2.3kg/モジュール×24モジュール。SJM−1に使われたガラス基板タイプに比べれば大幅に軽量化されているが、フィルムラミネートタイプが常識になった昨今の状況と比べるとまだまだ十分に重い。渡豪直前に競輪場を借りて行った走行テスト中にはパネルが自重で割れるというアクシデントが生じ、大あわてで修理するという一幕もあった。*24)

 # ちなみに、先の三菱電機製ガリウム砒素太陽電池は、GM(General Motors)が購入し、
 # WSCにてぶっちぎりの一位となる「サンレイサー」号に搭載されることになった。

 一方、東京映像社(大滝氏)も、WSCのメインスポンサーとしてペンタックス(日本光学)を獲得、さらにシチズン時計からは計時システム提供を取りつけるなど精力的にWSCのサポートを行っていた。GM、フォードなど大手自動車メーカーの他、世界各国から参加表明によりイベント規模が大きくなったことと、公平性の面から、東京映像社はWSCサポートに徹し、チームソーラージャパンのマネージメントから撤退することとなった。WSC参戦のためのチーム・ソーラージャパンは、
   当初から参加していた東京映像社ルートの出資企業関係者と4人のドライバー、
   個人として参加し、実質的に車両の開発を総括している江口氏、熊谷氏、
   車両製作、部品、資材の提供を行った企業から職務として参加している人達
 からなる共同事業体となった。
チーム・ソーラージャパン(1987)組織 *6)
 担当 メンバー(敬称略) 所属
 チームリーダー 横川啓二 マトリクスコーポレーション 
 ドライバー 夏木洋介、山本郁二、岩崎好子、バリーロイド
 相談役、顧問 浜川圭弘、高倉秀行    大阪大学
 デザイン 江口倫郎 三菱自動車工業 デザイン部
 車両製作、メカニック 田中、円乗 童夢
 電装 熊谷直武、堅本寛 三菱自動車工業 電子開発課 
 西原、岡田 ニチユ(日本輸送機)
 太陽電池     単結晶シリコン:シャープ 
 浅岡 アモルファス:カネカ(鐘淵化学) 
 タイヤ     横浜ゴム
 バッテリー     GS日本電池
 チタン部品     日本鉱業、東邦チタニウム 
 WSC1987ではスポンサーであるNTV:日本テレビが取材に張り付き、また著名なラリードライバー夏木洋介がチームに参加した *1) が、390kgという車重は参加車両中最も重く、ドライビングテクニック云々以前の問題だったようだ。結果に関する記述は分かれている。

   ・13日目にゴール *1)、
   ・日本テレビの「ソーラー・ジャパン」は千三百二十三キロ走って七日リタイア *8)

 実際の所は、レース終了時点(1位チーム到着の120時間後)ではゴールできていなかったので公式にはその時点でリタイヤ。SELチームと同様、メンバーの多くは派遣元企業の業務として参加しており、NTVの取材が入っている都合もあり途中で止めるわけに行かず、アデレードまで13日かけて到着した、ということで自己申告上「非公式完走」ということになる。

 江口氏御自身は個人資格での参加故に、スタートの2日後に有給休暇を使い果たして帰国せざるを得ず、たいへん残念な思いであったものと察する。

1988年 SJM−3 「ポチのひなたぼっこ」、「ソーラ雪姫」

 東京映像社(大滝氏)がチームマネージメントから撤退した後、「ソーラージャパン」の名前は江口倫郎氏に引き継がれた。

 当初よりレースでの勝敗よりソーラーエネルギーのプロモーションそのものを重要視していた江口氏は、レース用ソーラーカーばかりが注目されると、ソーラーカー=特殊な車両と思われかねないと考え、ソーラーカーの実用性をアピールしようと一人乗りコミューターカー「ぽちのひなたぼっこ」を製作し'88年の三菱アイデアGPに出品した。。
SJM−3(ぽちのひなたぼっこ)諸元
車両寸法 全長2.5m、 全幅1.2m、 全高1.4m、
車両構造 パラソル型(推定)前1輪、後ろ2輪の後輪駆動の3輪車
空車重量 80kg
太陽電池 NT187単結晶シリコン(シャープ) 出力160w
 パネル全体が出力最大点を求めて前後左右に自動的にチルトする。
駆動系  不明
最高速度 15km/hr
 SJM−3は、三菱アイデアGPにてフューチャー賞を受賞。岡崎市発明工夫展では発明協会長賞を受賞した。またソーラーカーデザインGP'89にも参考出品され、会場の雰囲気を盛り上げた。太陽電池パネルが最適点を求めて自動的にチルトするアイデアは、同年6月3日に江口氏を筆頭発明者として出願された実用新案出願公開公報に詳しく記述されている。説明図面に記されたイラストはSJM−3そのものである。*29)

 同じく江口氏の企画製作にて'88年三菱アイデアGPに出品された「ソーラ雪姫」は、深めのお椀を伏せたような形態の不思議な乗り物。立姿の腰の高さであるお椀は、ドアを開けて人が乗り込むとフレアスカートに見立てられ、足でスイッチを操作することにより前進/後退、回転する。エネルギー元は、お椀の表面に装飾的に埋め込まれた単結晶シリコンの丸形セルであり、(ソーラーカーと呼ぶには抵抗があるが)間違いなくソーラーヴィーグルの範疇に入る乗り物であるといえる。*6)
 いずれもデザイン展では利便性や遊技性を前面に出した形でまとめられていたが、ほぼ、そのままの形で福祉目的に使うことも可能でありソーラーカーの多面性を示したという意味で大変意義深い。

 10月、日本インダストリアルデザイナー協会 関西事業支部が主催したセミナー「ハイテクパフォーマンス『ソーラーカー物語』」が大阪市の国際交流会館で開催され、江口氏が熱弁を振るった。このセミナーには昼/夜二部制で延べ230人が参加した。*6)*9)*10) 聴講席には紫紋の安井照雄氏、大阪産業大学の藤田和久氏の姿もあった。*38) さらに名古屋デザイン会議(名古屋デザイン博)の事業委員会にて先のセミナーの反響が報告され、翌年7月に開催されるソーラーカーデザインGP開催への提案がなされた。

1989年 ソーラーカーデザインGP、朝日ソーラーカーラリー、東京モーターショー *10)*11)*12)

 江口氏の年末年始はソーラーカーデザインGPの企画書作りで潰れた。デザインGPは紆余曲折の末、最終的には日本インダストリアルデザイナー協会本体の主催事業として開催されることとなり、江口氏は事業委員として大会運営を主導した。ソーラージャパンMMCからは、三菱自動車デザイン部勤務の土屋理氏(江口氏の後輩にあたる)が中心となって製作されたSJM−4(初代)太陽虫が出品され、実行委員長賞を受賞した。
SJM−4 (初代)太陽虫 諸元
車両寸法 全長5.8m、 全幅2.0m、 全高1.6m、
車両構造 ムササビ型 後輪双駆動4輪車
空車重量 300kg
太陽電池 NT187単結晶シリコン(シャープ) 出力972w
駆動系  DCマグネットモーター0.75kw×2
最高速度 70km/hr
 デザインGP'89審査当日にはメカ系の仕上げ調整が間に合わず、試走できることと云う条件を満たせなかったため低い評価しか得られなかったようだ。 太陽虫はのデザインGPの車両製作は三重県のファーストモールディング。触覚をイメージしたバックミラーを有する車両デザインとネーミングは後にチーム「太陽虫」に引き継がれることとなった。

 ソーラーカーデザインGPでは、日本国内で初めて、市販車改造ではない最初からソーラーカーとしてデザインされた奇抜斬新な姿のソーラーカー複数台が、衆人の見守る中で連なって実際に走る姿が披露された。その様子は多数のメディアにもとり上げられ、一般の人びとへ「ソーラーカー」の存在を強くアピールした。デザイン公募時、および東京と金沢で開催された説明会の会場では前年に開催されたセミナー「ソーラーカー物語」の資料が配られ*13)、ソーラージャパンチームのソーラーカー製作ノウハウが広く発信された。

 # 日本国内での、最初のソーラーカー展示、デモ走行は
 # '85年の東京モーターショーにおける東京電機大学藤中研究室による。
 # ただし、この時の展示は市販車改造、セパレートタイプであった。

 ザインGP'89では不本意な結果に終わった太陽虫であったが、秋に開かれた第1回朝日ソーラーカーラリーin神戸では、先に掲げたように後輪を各々独立したモーターで双駆動するという方式により、アップダウンの多い会場を力走し、見事グランプリを獲得した。WSC87の僅か2年後にプロトタイプから数えて既に5台ものソーラーカーを製作したノウハウを有するチームは他に無く、本領が発揮された物と云えよう。
 朝日ソーラーカーラリーでのグランプリ獲得という話題性により、太陽虫は東京モーターショーの日本電動車両協会パビリオンにて展示された。*30) 「三菱のソーラーカー」というチラシ*4) はこの時に配布されたものである。

1990年 エリプスガイド設立 WSC1990

 江口氏は1990年に18年間勤務した三菱自動車工業を退社して独立し、有限会社エリプスガイドを設立した。*5)*10) 第2回のWSCには、都合で参加できなくなった前回のチームリーダーに代わり、江口氏自らがチーム代表となり新車「SJM−5 ソーラージャパン号」にて参加した。手厚いスポンサーが付いた前回とは様変わりで、経済的には非常に苦しい状況であったという。二ヶ月の突貫工事で製作された「ソーラージャパン号」のデザインはさらに自己主張の強い物になった。車体は、前1輪、後1輪の二輪車の両サイドに補助輪的に車輪が配された変形4輪車。ドライバーシートは前方に突き出した平板パネルと、車両後半を覆う湾曲したアーチ型パネルの陰になり、アーチパネルの裾に後輪が位置する。江口氏のソーラーカー形態分類にて天狗型とされたマナラ号の超変形版とも解釈できる。*21)*22) 車両製作は太陽虫とおなじファーストモールディング。モーターはビール券と引き替えに貰った詳細不明の中古のDC24V直巻モーターであったという。*13)



ソーラージャパン号(SJM−5) 1993ソーラーカーレース鈴鹿にて(太田龍男氏撮影)

 結果は、総合30位、所要時間は96.83時間、公式には時間切れリタイヤなので非公式完走であった。口約束だったスポンサーからは結局協力が得られず、帰国後は参加費用の借入金返済に追われた。脱サラして、新会社を設立した直後でもあり、大変な御苦労があったものと想像するが、時のソーラーカーブームの後押しもあり、地方巡業(?)、各種イベントでの子供試乗用ソーラーカーの製作販売等でなんとか3年程で返済しおわったとのことである。*10)

 WSCに先立ち、日本各地で開催されるようになってきていたソーラーイベント用に、ということで、ファーストモールディングとエリプスガイドで共同で開発されたのが子供用ソーラーカー「ソーラーキッド」である。これ以前にも遊園地用のコインカーという位置づけの「ソーラーボーイ」(真砂工業)が存在していたが、(真砂工業さんには失礼な言い方になるが、)レーシングカー風の外観のソーラーキッドとは比べるべくもない。安藤氏自身がウレタン型を削りだしたというソーラーキッドは、ファーストモールディング用に2台、シャープに1台、エリプスガイド用に2台、全5台が作られ、各地のソーラーカーイベントにリースするという形で活躍した。記録が残されている限りにおいては、少ないながらも量産され、さらにリース事業という形で商用ベースに乗った日本初(おそらく世界初)のソーラーカーであったと位置付けられるだろう。

 WSCが迫った1990朝日ソーラーカーラリーには「シャープソーラージャパン」と、三菱自動車在籍メンバーにより初代「太陽虫」が出場した。*13)*14)*15) 江口氏の退社によりMMC社内での活動主体が無くなったため、この後、熊谷直武氏と土屋理氏はプライベートにファーストモールディングの「太陽虫」チームに参画してゆく。

1991年

 1991朝日ソーラーカーラリー、神戸会場と東京会場(立川市の国営昭和記念公園)に「シャープ・ソーラージャパン」出場した。 *16) 

 昨年に引き続き、子供用のソーラーカー「ソーラーキッドII」、「ソーラーボーイ」を開発。ソーラーキッドIIはシャープに納入。「ソーラーボーイ」は翌年、中国電力に15台が納入された。おそらくソーラーカーの最多量産台数記録である。
1992年

 1992朝日ソーラーカーラリーに「ソーラージャパン号」にて、横浜、名古屋、神戸の3会場すべてに出場。*17)
 ソーラーカーラリーin能登 「ソーラージャパン」号 カテゴリーI、フリークラスIに出場。
 駿台自動車学校OBによるソーラージャパンJr.チームより「シャープキッド II(ソーラーキッド改)」がカテゴリーI、限定クラスに出場。

1993年 ソーラージャパン毎日号 WSC1993

 WSC93参加に向けて、二人乗りのSJM−8(規定上、二人乗りは一人乗りの1.5倍の太陽電池の搭載が許される)がデザインされたが、実現にはいたらなかった。*21)

 この年、ソーラージャパンは競技色の強い3つのイベント:
   ・朝日ソーラーカーレースinTIサーキット英田 クラス3優勝 総合4位 *25)*26)
   ・ソーラーカーレース鈴鹿1993 Todayクラス16位、総合28位 *19)
   ・1993WSR(World Solar Car Rallye in AKITA) Sクラス5位、総合21位 *20)
   ・1993WSR秋田テクノポリス機構デザインコンペ、デザイン賞受賞

に参加し競技勘を磨いた。正体不明のDCモーターはUNIQ社の最新のブラシレスDCモーターに交換され、ソーラージャパン号の運動性能は2倍近くも改良された。

 WSC1993には毎日新聞のスポンサードを得て「ソーラージャパン・毎日号」(UNIQ使用、SJM−5 Ver.3) として参加した。*21)*22))、所要時間は前回を大幅に下回ったが、レース自体がホンダとビール工科大の一騎打ちという形のハイペースの展開となったため、今回も残念ながら完走ならず。終了時点で停止してアデレードに回送しパレードに参加した。 *36) 総合34位(80:10時間)。

 3年前と同様、WSCの車両輸送期間と会期が近い1993朝日ソーラーカーラリーin神戸には、江口氏からの車両「シャープキッド(ソーラーキッドII改)貸与を受けた甲府の駿台自動車学校(江口氏が講師を務めていた)がソーラージャパンJr.名にて出場した。*18) 結果:Aクラス2位、総合3位、名古屋市長賞。

 ソーラージャパン・毎日号はWSC1993を最後にレースから引退、実に8000kmという走行距離は1993年時点のソーラーカーでは世界屈指の記録(おそらく当時の最長記録)であったと思う。ソーラージャパン・毎日号は東京竹橋の科学技術館に2003年まで展示され、訪れる子供達に夢を語り続けた。

1994年

 1994クラシックカーフェスティバル筑波ミーティング&ソーラー/電気自動車レース
 日本ではじめてのエレクトリックカーレース SHARP KID(ソーラーキッドII改) 予選1位 決勝2位 *33)*34)*35)

 鈴鹿EVデモンストレーションランにて「 EE−GO−0 →」試走

 ソーラーコミューターカーとして「ビークワイエット」が自主開発され、  '94朝日ソーラーカーラリーin神戸  BEE QUIET Aクラス11位 総合36位 人気投票1位
 '94朝日ソーラーカーラリーin名古屋 BEE QUIET Aクラス5位  総合11位 人気投票1位

 神戸会場には遅刻して午後からの参加となったということだが、人気投票ではダントツの一位。勝負にならないので人気投票は翌年からは廃止されてしまったらしい。

なお、朝日ソーラーカーラリーに出場した BEE QUIET は、実は二代目とのことで、初代は、名古屋ライオンズクラブ経由で名古屋市環境課に納入され、現在名古屋市科学館の交通科学フロアにて「小型ソーラーカー友愛号」として展示されている。*39)*40)

1995年

 '95朝日ソーラーカーラリーin幕張  BEE QUIET Cクラス出場 結果不明
 '95朝日ソーラーカーラリーin神戸  BEE QUIET Aクラスエントリー、出走せず

1996年

 1996ソーラーカーラリーin能登 BEE-QUIET オープンの部23位 *23)


 以後のレースイベントに出場した記録は見いだせていない。太陽エネルギーを使って走る行為そのものに意義を求める氏にとっては、昨今のスピード順位至上主義に偏ったレースイベントは魅力を感じる対象では無くなってしまったようである。
1998年

 子供用ソーラーカー「ソーラーチヴィー」(Solar Chivy)開発

2000年

 ソーラーチヴィー、MESH環境デザイン大賞・中部経済新聞社賞受賞

 EE−GO−1 SOLAR VERSION 開発


2006年

 この年、チームソーラージャパンは結成20周年を迎えた。エリプスガイドのサイトでは、江口氏の筆によるソーラーカー黎明期の熱い物語が語り始められた。*37) 決して懐古ではなく温故である。なぜなら、物語は現在進行形だからだ。曲がり角にさしかかったといわれるソーラーカーレース、その流れを変えるための一石を投げる人が、読者の中から現れることを期待したい。




BEE-QUIET '94 朝日ソーラーカーラリーin神戸にて(太田龍男氏撮影)
鹿児島情報高校の西郷どんもBEE-QUIETが気に入ったようだ。


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資料・文献

*1) 斉藤敬,「ソーラーパワーが翔んだ 第一回ワールドソーラーカーレース」,文藝春秋,1989.01.15.
*2) エリプスガイド Ellipse Guide http://www.e-guide.ne.jp/1999/solar/sjm_1.html
*3) エリプスガイド Ellipse Guide http://www.e-guide.ne.jp/1999/solar/sjm_2.html
*4) 「三菱のソーラーカー」,三菱自動車,1989東京モーターショー,
*5) 江口倫郎,ソーラーチャレンジャー NTV-レイトンハウス号はこうして開発された,「カースタイリング63」,三栄書房,1988.03.31.
*6) 江口倫郎, ハイテク・パフォーマンス「ソーラーカー物語」,
   JIDAセミナー資料, 社団法人日本インダストリアルデザイナー協会, 1988.00.00.
*7) INTAN MOTOR(インドネシアの自動車雑誌),表紙,No.03,1987
*8) 「ソーラーカーの思い出」(読売新聞1987年12月5日より転載)
  http://www.sel.co.jp/sel_p02.htm
*9) 南武, 「1991年の蒸気機関車」,収録詳細不明(JIDA関係の出版物), pp16-17,1992頃.
*10) 江口倫郎, 「特集1 ソーラーカーの21世紀」, JIDC NEWS HOT LINE+Vol.02, pp01-04,
   JIDA:日本インダストリアルデザイナー協会, 1996.08.25.
*11) 江口倫郎,「ソーラーカー ラリーやコンペで普及促進、早期実用化に期待高まる」,
   にっけいでざいん,1989年11月号,pp74-77, 1989.11.00.
*12) 小倉正樹,「21世紀に向けてクリーンカー・デザインを模索する」, ル・ボラン, 立風書房(現学習研究社), 1989.10.
*13) 江口倫郎氏インタビュー
*14) 後藤公司,「ソーラーカー」,pp140-149,日刊工業新聞社,1992.02.29.
*15) '90朝日ソーラーカーラリー公式プログラム(江口倫郎氏提供)
*16) '91朝日ソーラーカーラリー公式プログラム(江口倫郎氏提供)
*17) '92朝日ソーラーカーラリー公式プログラム(堺市立工業高等学校科学部提供)
*18) '93朝日ソーラーカーラリー公式資料エントラントリスト(堺市立工業高等学校科学部提供)
*19) ソーラーカーレース鈴鹿 歴代成績
*20) http://www2.ogata.or.jp/wsr/results/93wsr.htm
*21) 江口倫郎,日本のソーラーカーデザイン「カースタイリング93」,三栄書房,1993.03.31.
*22) エリプスガイド Ellipse Guide http://www.e-guide.ne.jp/1999/solar/sjm_5.html
*23) ソーラーシステムズNo.66,p39,ソーラーシステム研究所,1996.09.16.
*24) 高倉秀行氏(現:立命館大学理工学部長)インタビュー
*25) '93朝日ソーラーカーレースinTIサーキット英田 公式資料
*26) Solar Japan News Vol.2,1993.05.06.
*27) 関連URL http://www.tokyo-eizo.co.jp/
*28) http://jin3.jp/kameiten3/tokyo-eizo.htm
*29) 公開実用新案公報 平1−176524(1988.06.03出願)
*30) 藤中正治(Masaharu Fujinaka),「地球にやさしいソーラーカー(ハイテク選書ワイド)」,
   東京電機大学出版局,(1991.03.30)
*31) 江口倫郎,「ソーラーカー製作ガイド」,Sonet Systems No.48,p.28,ソーラーシステム研究所,1991.12.00.
*32) 中島祥和,「冒険心とロマンを追って"ソーラーカー"作り,Motor Fan,pp268-270, 1988.02.
*33) 1994クラシックカーフェスティバル筑波ミーティング&ソーラー/電気自動車レース,公式プログラム,1994.03.05.(江口倫郎氏提供)
*34) 近田茂,「日本でもJAF公認の低公害車レースが始まった」,出展不明,
*35) 生方聡,「ついに上陸!電気自動車レース」,Car Graphic 94-05, p180,1994.05.00.
*36) 沼崎英夫,"1993WSC特集", Sonet Systems No.57,p.33,ソーラーシステム研究所,1994.03.30.
*37) http://e-guide.ne.jp/mt/ 現在進行形
*38) http://www.e-guide.ne.jp/mt/2006/09/32_1.html
*39) 江口倫郎氏私信
*40) 名古屋市科学館 http://www.ncsm.city.nagoya.jp/cgi-bin/exhibits/exhibit.cgi?no=2304

第一稿 2006.01.01.
追記  2006.03.21.
改訂  2006.06.18.
改訂  2006.09.15.
加筆  2006.10.27.
東京映像社画像追加  2007.03.20.
名古屋市科学館情報追記 2009.01.02.

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5.東京農工大学
  Tokyo University of Agriculture and Technology


1987第一回WSC出場に向けて準備を進めていたが、資金が集まらず断念。*1)*2) 私の後輩たちは先駆者の仲間入りをすることが出来なかった。

*1)斉藤敬,「ソーラーパワーが翔んだ 第一回ワールドソーラーカーレース」,文藝春秋,1989.01.15.
*2)中島祥和,車と心に太陽を!,「カースタイリング63」,三栄書房,1988.03.31.

第一稿 2006.01.01.

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太陽能車考古学研究所 2006.01.01