Solar Car Archaeorogy Research Institute
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ソーラーカーの歴史 第一巻 年代記

第2章 ワークスの時代

The History of the Japanese Solar Car Volume 1 Section 2

年代記(1988-1992)

グランドソーラーチャレンジ
光と影(語られぬ歴史)


■■■ 年代記(1988-1992) ■■■

1988年

 WSC1987の模様は日本でも報道され、多くの人たちがソーラーカーの魅力にとりつかれた。パイオニアとなった4つのチームはその後もソーラーカーの改良、開発を継続し、引き続きWSC1990に参加している。*1)*2)

 この年の10月、日本インダストリアルデザイナー協会 関西事業支部が主催したセミナー「ハイテクパフォーマンス『ソーラーカー物語』」が大阪市の国際交流会館で開催され、WSC’87に参加した講師の江口倫郎氏が熱弁を振るった。このセミナーには昼/夜二部制で延べ230人が参加した。*19) *20)

 多結晶シリコン太陽電池がブレイクし、太陽電池メーカーとしての地位を固めつつあった京セラは早くからソーラーカーの開発に着手し、1987年には滋賀県八日市工場敷地内にてソーラーカーの試走にまでこぎ着けていた。京セラの当時の計画は、1997年にコミューター型の実用ソーラー電気自動車を市販することを目標とするものであった。また1988年からは平行して、北見工業大学とのレース用ソーラーカーの共同開発が開始された。*3)*4)*5)
  ホンダ技研は1988年よりソーラーカーの調査を開始した。*7)


1989年

 1989年7月、名古屋で開催された世界デザイン博に併催される形でソーラーカーデザインGP’89が行われた。日本インダストリアルデザイナー協会主催のこのイベントの一次審査には32チーム、最終審査には招待チームを含め8台のソーラーカーが出展された。また審査員の一人としてハンス・ソルストラップ氏が招待された。デザインGP'89は、市販改造車ではないオリジナルソーラーカーが一般の人びとの前で実際に走る姿を披露した日本初のイベントとして記念される。イベントの企画運営の中心を担ったのはチーム・ソーラージャパンの江口倫郎氏を初めとするインダストリアルデザイナー協会中部支部のメンバーであった。

 朝日新聞社は太陽エネルギー利用の啓蒙にソーラーカーを利用しようと考えた。朝日新聞はトヨタに依頼して開発したソーラーカーを、自社が主催する駅伝競技の先導に用いた。また1989年には神戸にて 朝日ソーラーカーラリーを主催した。名前こそラリーであるが内容的には展示会、試走会に近い物で、競技そのものよりソーラーカー愛好家の集いとしての側面が強調された。また会場を大都市近郊に選んだことから一般の人々への注目度も高い物となった。初回の参加台数は10台の半数は先のソーラーカーデザインGP'89参加車であった。1990年の第2回には15台、1991年の第3回目は東京、名古屋、神戸の三カ所で開催され全部で21台(22台?)のソーラーカーが参加した。*8)

 ソーラーカー熱は世界的な流行となっていた。欧州の元祖 Tour de Sol は1986年以後も引き続き開催されていた。米国ではこの年、大学チーム対抗の形で American Tour de Sol が開催され、上位3チームが豪州のWSC1990に参加権を得た。またカナダでは8月に、 Canadian Cup Solar Car Race が開催され、日本から参加したハマ零チームの小型ソーラーカー「Solar Mouse」がクラス1位、総合2位に入るという快挙を達成、その模様は朝日テレビのモーニングショーで一週間にわたって放映された。*11)


1990年

 このような助走期間を経て、WSC1990には全44台中、日本から11台のソーラーカーが参加した。

 ドリーム(ホンダ技研)
 フィーバスIII(ホクサン)
 ブルーイーグル(京セラ−北見工大)
 CSKシモン90(紫紋)
 SOFIX(SOFIX 大藪弘隆氏)
 早稲田大学(永田研究室)
 アイソール(アイシン精機)
 ニンジャ(ハマ零 山脇一氏)
 サザンクロスII(SEL:半導体エネルギー研究所)
 ソーラージャパン(ソーラージャパン 江口倫郎氏)
 
流星号(細川信明氏)
 WSC1990にてホンダは二位を獲得。このホンダ技研にとっての不満足な結果は、他のワークスチームには次のWSCで1位を狙えるチャンスと映り、トヨタ、日産、京セラなどが本格的にソーラーカーの開発に着手する契機となった。レースの模様は日本でもTV放送され、日本から参加したプライベータや学生チームが奮闘する様子は、多くの人々の心を揺さぶった。早稲田大学(永田研究室)チームには後の日本ソーラーカーを引っ張っていく人材が在籍していた。また、登山家からソーラーレーサーに転向した細川信明氏の功績を、本稿の読者氏に改めて説明する必要は無いだろう。

 米国では第一回WSCで優勝した General Motors社が主催する GM Sunrayce が開催され32の大学チームが参加した。*15)*16) またハワイ州では高等学校チームを対象に Kaahele La が開催され、6つのチームが参加。*17) いずれも上位入賞チームにはスポンサーからWSC参加のチャンスが与えられた。

電気事業法改正:代替エネルギーによる分散発電システム普及促進

 この年、日本では、地球環境保全に関する関係閣僚会議において「地球温暖化防止行動計画」が決定され、政府主導で二酸化炭素排出抑制に対する具体的な行動計画が推進されることとなった。エネルギー政策に関わる規制緩和は1986年頃から段階的に行われてきていたが、この年には、太陽光発電、風力発電の普及の足枷となっていた電気事業法がようやく改正され、「30ボルト以上の発電設備には設置許可と電気主任技術者の専任が必要」という珍妙な条項が削除された。この流れは1992年の電力会社による余剰電力買い取り制度に繋がって行く。  従来、太陽光発電、風力発電等の新規な分散型発電システムの存在は、電力会社にとっては競合と位置付けられており、電力事業法は電力業界(電力行政)が新規参入を阻むための盾でもあった。しかしながら、原子力発電所の新規設置が次第に困難となってきている上に地球温暖化防止行動計画の実行を迫られたとなっては、そうも云っていられなくなり、電力業界は、一転して分散型発電システムの普及促進に協力する姿勢を見せて行く。太陽光発電に関する物としては次のグランドソーラーチャレンジがある。

グランドソーラーチャレンジ:太陽光発電システム啓蒙

 1990〜1992年にかけて、通商産業省(当時)により地球環境問題、エネルギー問題についての啓蒙を目的としたキャンペーン「グランドソーラーチャレンジ」が行われた。実行部隊は1990年8月に結成された、電力、電機関係の業界団体と北陸三県などからなるグランドソーラーチャレンジ推進会議であった。1991年から1992年にかけて全国をキャラバンしての太陽エネルギー利用に関する展示会、フォーラム、国際会議などが行われ、その締めくくりとして1992年にソーラーカーラリーin能登'92が開催されることとなる。


1991年

 1985年から始まったバブル経済は1990年に崩壊し、1991年からは土地価格と株価は下落に転じた。土地を担保にしたマネーゲームは終わり、銀行や大手ゼネコンは大量の不良債権を抱え込み、以後10年以上に渡る冬の時代を迎えることになる。1989年末のベルリンの壁崩壊を契機とし生じた東欧の大きな社会的転換は1991年末のソビエト連邦解体にまで至り、経済的な混乱は、バブル崩壊を迎えた日本だけでなく全世界に及んだ。

俗に「失われた10年」などと揶揄されるバブル崩壊後の不景気であるが、庶民は閉塞感から抜け出したある種の安堵感を感じていたのではないかと思う。自分の手で物を作るという行為が経済活動に直接繋がる、という当たり前の時代が戻ってきたのだ。

 この年、北海道北見市において、市政施行50周年と「ふるさと」創生事業を兼ね、太陽エネルギ利用啓蒙を目的とした'91ソーラーフェスティバルインオホーツクが開催された。その中でソーラーカー大会「ソーラーチャレンジin北海道」が企画され22台のソーラーカーが参加し、日本初の公道を使った競技が行われた。開催にあたっては、オイルショック以前から太陽エネルギー利用について息長く研究を行ってきた北見工大の金山教授のグループの功績が大きい。*6)*8)

 前年末、米国カリフォルニア州にて、「カリフォルニア州低公害車・低公害燃料プログラム」が制定され、自動車メーカーに無公害車の販売が義務づけられた。当時はハイブリッド車や燃料電池車の技術が未確立であったため、「無公害車」は電気自動車とほぼ等しく解釈された。当時のカリフォルニア州内での日本車占有率は25%程度に達しており、国内メーカー各社も電気自動車開発に本腰を入れざるを得なくなった。カリフォルニアからの衝撃は、バブル経済崩壊後にもかかわらずワークス各社がソーラーカー開発を続けるための強い追い風となった。

 米国アリゾナ州で開催されたフェニックス国際レースウエイでのソーラーカー競技 Solar 300 は、おそらく世界で最初の常設サーキットコースを用いて開催されたソーラーカーレースであろう。大会には米国内だけでなくスイスからビール工科大、メキシコから Mauro Spa チームが参加した。*18)


1992年

 この年、F1も開催される鈴鹿サーキットにおいて、FIA代替エネルギー部門の公式レースとして読売新聞社、ホンダが主催し、JAF:日本自動車連盟が全面的にバックアップしたソーラーカーレース鈴鹿が開催された。結果は、*12)
 総合優勝  ホンダ技研  ドリーム 
 総合2位  日産ソーラーカーチーム  サンフェイバー 
 総合3位  北見工大−京セラB  ブルーイーグル 
いずれも Tomorrow Class (現在の Dream Classに相当)
と、上位はワークスチームの独壇場であった。本格的な自動車レース用コースを用いてのスピードレースには、エネルギーマネージメント技術だけでなく、レース車両としての基本的な性能に加えて、高いドライヴィングテクニックも要求される。ソーラーカーレース鈴鹿は、それまでの公道を使った持久走的な側面が強い海外のレース(World Solar Challenge や Tour de Sol 等)、会場の狭さや、公道使用の場合の道路交通法上の問題により規定競技のように中低速の一定速で走ることを求められる日本のラリー競技とは全く異なり、ソーラーカー競技のイメージを一新するものとなった。本イベントは、以後今日に至るまでFIA公認の常設のレーシングサーキットを用いて定期的に行われる世界で唯一のイベントとして受け継がれている。

 1990年から続いたグランドソーラーチャレンジの締めくくりとなるてソーラーカーラリーin能登'92 は、全102台のソーラーカーが参加する世界最大級のソーラーカーイベントとなった。海外からの参加が8台、GSC推進会議構成企業からの参加が25台、また、早くから活動を行っているチームは旧車両を引っ張り出して複数のソーラーカーで参加するなど、少々水増し気味な部分は否定できないが、これだけの台数が揃ったのは事実である。まさにこれ以前の数年間、水面下で育った芽が一気に花開いた感がある。またこのイベントは、日本で最初で最後の自動車専用道路を使ったレースとなった。

 朝日ソーラーカーラリーは4回目を迎え、横浜、名古屋(長久手)、神戸の三会場で行われた。神戸会場の大会においては「シャープクラス(学生クラス)」が創設された。書類選考で選ばれた10の学校にそれぞれ同じ480wソーラーパネル、コントローラ、モーター、バッテリーを支給し、学校側はそれらを用いて車両を製作して大会に参加する、というこの制度は、神戸会場にて第1996年まで、幕張会場で1997年から1998年まで続けられ、総計70の高等学校、大学の学生サークル等のチームがこの特典を利用してソーラーカーを製作して大会に参加した。ソーラーカーラリーin能登1992において、100台を超える出場車中、高等学校からの参加は僅か3台に過ぎなかったが、今日(2005年)国内の各種大会に参加するチームの半数近くは高等学校チームである。この日本特有の状況は「シャープ学生クラス」制度にあると云っても過言では無かろう。翌年から開催されるエコエナジー大阪においても同様の制度が設けられ、これらの制度に支えられてソーラーカーに触れた若者達が次世代の日本のソーラーカーを牽引していくこととなった。

 1991-1992年にかけてのイベントには電力会社などが出資し、童夢、紫紋、など有力なレーシングカーファクトリーで製作された、近未来的な外観のソーラーカーが数多く参加し、人々を魅了した。国内で開催されたイベントは、遠い南半球の国を走るソーラーカーを一気に手の届く所に近づけたのであった。学生チームやプライベータにより手作りされたソーラーカーの多くは、いずれもアイデアと工夫を凝らしたユニークな物で、あたかも先カンブリア紀の原始の海に生まれたバージェスモンスターのように奇抜な形をしたものが多く、お祭り気分を盛り上げた。

 一方、ホンダを頂点とするワークスチームにとっては、それらのイベントはWSC1993の前哨戦と位置づけられる高度な技術が火花を散らしあう熾烈な戦いの場なのであった。


*1) 斉藤敬,「ソーラーパワーが翔んだ 第1回ワールドソーラーカーレース」,文芸春秋,1989.01.15.
*2) 中島祥和,車と心に太陽を!,「カースタイリング63」,三栄書房,1988.03.31
*3) 読売新聞,「京セラ、八日市工場内でソーラーカーが快走」,(1987.09.07)
*4) Tadao Takimoto, "The Arts of Management", East Press, 1999.01.30.
*5) 金山公夫,「太陽エネルギーの研究」,月刊アイワード,1999年6月通巻216号
*6) 金山公夫,「ソーラーエネルギー利用技術」,森北出版,(2004.05.31)
*7) 中部博,「光の国のグランプリ」,集英社,1994.08.24.
*8) 後藤公司,「ソーラーカー」,日刊工業新聞社,1992.02.29.
*9) 橋口盛典,「図解 ソーラーカー」,p.11, 山海堂, 1993.05.30.
*10) http://www.mindspring.com/~noiresque/halloffame.html
*11) Tadao Takimoto, "The Arts of Management",pp.15-16, East Press, 1999.01.30.
*12) ソーラーカーレース鈴鹿 歴代成績
*13)'92朝日ソーラーカーラリー公式プログラム, 朝日新聞大阪本社宣伝部, 1992年10月,
  (資料提供:山田喜夫氏、吉田充男氏/堺市立工業高等学校)
*14) 笹田浩朗,「朝日ソーラーカーラリーの変遷」, Journal of JSES, Vol.24,No.5,1998.
*15) http://www.formulasun.org/history/sunrayce_90.htm
*16) http://www.rose-hulman.edu/Users/groups/SolarPhantom/HTML/gmsunrayce.html
*17) http://www-personal.umich.edu/~sdbest/solarcar/Kaahele.htm
*18) http://www.rose-hulman.edu/Users/groups/SolarPhantom/HTML/solar300.html
*19) 南武, 「1991年の蒸気機関車」,収録詳細不明(JIDA関係の出版物), pp16-17,1992頃.
*20) 江口倫郎, 「特集1 ソーラーカーの21世紀」, JIDC NEWS HOT LINE+Vol.02, pp01-04, JIDA:日本インダストリアルデザイナー協会, 1996.08.25.

第一稿   20060101
追記    20060603


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グランドソーラーチャレンジ*1)*2)


   1990年(平成2年)8月、通商産業省の指導により、地球環境問題、エネルギー問題についての啓蒙を目的とした「グランドソーラーチャレンジ推進会議(以下GSC推進会議)」が設立された。電機、電力関係の各種団体と北陸経済連合会、(財)北陸産業活性化センター、石川県、富山県、福井県などが設立賛同者となり、その活動は北陸地方を中心に展開された。活動内容は以下の通りである。

 ソーラーエネルギー国際フォーラム(全国各地6カ所)1991.09.23 - 1992.07.09
 ソーラーボートレースイン三方五湖(1992.08.23:福井県三方五湖)
 ソーラーフェスティバルイン金沢(1992.08.22:金沢市内)
 ソーラーカーラリーイン能登(1992.08.30:石川県能登半島)
 ソーラーエネルギーキャラバン
   ・ 前期(1991.08.20 - 1991.11.03:全国27カ所)
   ・ 後期(1992.04.11 - 1992.08.29:全国10カ所)
 ソーラーエネルギー国際シンポジウム(1992.09.05-06:金沢市内)

GSC推進会議は1993.01に解散。1994.11GSC事業継承委員会設立。
 グランドソーラーチャレンジ国際会議1995.10.07、千葉県幕張「シャープ幕張ビル」
 ソーラーカーラリーイン能登 '96 (開催支援)
GSC事業継承委員会1996.10に計画事業をすべて終え休眠中。
事務局は(財)北陸産業活性化センター


*1)財団法人北陸産業活性化センター
 http://www.hiac.or.jp/main_2.htm
 実施事業
 http://www.hiac.or.jp/works/index.htm
 プロジェクト支援事業 グランドソーラーチャレンジ
 http://www.hiac.or.jp/works/03_02/
*2)ソーラーカーラリーin能登 公式パンフレット

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光と影(語られぬ歴史)


 1993年のWSCにおいて、日本のワークスチームメンバーにより、他チームの車検時に立ち入り禁止区域に入り車体内部を盗撮するという恥ずべき行いがなされた。また、レース時には同じく日本のワークスチームが、追い抜こうとする早稲田大学チームの走行を妨害するという社会人としてあるまじき行為が行われ、審判員から連絡を受けた大会主催者のハンス・ソルストラップ氏自らがワークスチームの宿営地に出向き、妨害行為を止めるよう注意したという。 *1) レースに同行取材した中部博氏は、よほど腹に据えかねたのであろう、名指しこそ避けているが、年少者向けに書き改めた書物でも同じエピソードを紹介している。*2) 負けるわけにはいかないワークスチームの名という重圧を背負ってしまった人間の悲しい行為である。

 1990年代の終わりには、大手メーカーによるソーラーカー開発初期に行われた政府補助金の不正受給事件が公になり、国会の商工委員会にて取り上げられた。バブル期と重なったがゆえに推進されたという側面を持つ日本ソーラーカーの創成期を象徴する出来事でもある。*3)*4)

*1) 中部博,「光の国のグランプリ ワールドソーラーチャレンジ」,集英社,1994.08.24.
*2) 中部博,「走れソーラーカー」,集英社,1996.09.10.
*3) 衆議院 第147回国会 商工委員会 第2号(平成12年2月24日(木曜日))
  http://www.shugiin.go.jp/index.nsf/html/index_kaigiroku.htm
*4) Tadao Takimoto, "The Arts of Management", East Press, 1999.01.30.


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◆◆◆ 第3章 発展・普及期 ◆◆◆


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