Solar Car Archaeorogy Research Institute
English

ソーラーカーの歴史 第三巻

日本のソーラーレーシングチーム

The History of the Solar Car Volume 3
Japanese Famous Solar Racing Teams Section 3

プライベータ

ハマ零
パンダサン
ミノファミリー
ソフィックス
ラフィングサン
シバタファミリー・ソーラーカーチーム/チーム・オータス/チーム・アスカ
ジョナサン
ZDP
ソーラーGIGA
再輝
キョンシー
栢会
プロミネンス

■■■ プライベータ ■■■


ハマ零 (山脇一氏)


  先駆者達の章「WSC87参加チーム」の項 参照

=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=


パンダサン(細川信明氏)


 パンダサンチーム代表の細川信明氏は日本のアマチュア・ソーラーレーサーの草分けであり、WSC1990参加者の一人である。元は、ヒマラヤ遠征経験もある登山家、本業は大手の光学機器メーカーC社のエンジニア。 1989年に発刊された斉藤敬氏の著書「ソーラーパワーが翔んだ−第1回ワールドソーラーカーレース」を読み(1990年の正月 *1))、冒険心と技術力の両方を満喫できる豪州縦断WSCに魅入られてしまったという。 *1)*37)

1990年
 会社の同僚(当時は福島市に勤務)と「たぬきさんチーム」を結成し、一号車「流星号」を製作、'90朝日ソーラーカーラリーin神戸に参加後、豪州縦断に挑戦した。

「流星号」 Shooting Star 神戸 version
 車体サイズ 4500L×1990W×1200H(mm) *35)
 車輪数  前1輪、後2輪 *34) *35)
 最高速  60km/hr(公式プログラム) *35) 
 太陽電池  単結晶シリコン(シャープ製 効率15.5% *37)) 出力800w *34)
  単位セルをシリコーンシーラントで板に貼り付け、手作業で配線してモジュール化。*37)
  全モジュールにバイパスダイオード付加
 MPPT 無し *34)
 バッテリー GSバッテリー 鉛 960Wh *34)
 モーター 山洋電機製 DCブラシモーター 84v、800w *34)
 前輪ベルト駆動。*37)

「流星号」 Shooting Star Australia version
 車体サイズ 4000程度L×1990W×1200H(mm) *34)
 車輪数  前1輪、後2輪 *34) *35)
 最高速  34km/hr(WSC車検公式記録)
 太陽電池  単結晶シリコン(シャープ製 効率15.5% *37)) 出力800w *34)
  単位セルをシリコーンシーラントで板に貼り付け、手作業で配線してモジュール化。*37)
  全モジュールにバイパスダイオード付加
 MPPT 無し *34)
 バッテリー  豪州持ち込み時:12volt4AH×2個 + 12volt3.5AH×5個
 レース参加時 :12volt8AH×4個 *37)
 モーター 山洋電機製 DCブラシモーター 84v、800w *34)
 左後輪一輪駆動 *37)
 ブレーキ 自転車用 *37)

 ソネットシステムズ誌 No.57 と1990朝日ソーラーカーラリーの公式プログラムに流星号の貴重な画像を見ることができる。流星号は、むきだしのアングルで組まれた前1輪、後2輪の3輪自転車風の車体にアーチ状の太陽電池屋根を被せた構造。朝日ソーラーカーラリーでは車体前部にカウルが設けられ、フロントウインドウの前と、座席の両脇にも太陽電池が搭載されている。フロントノーズはかなり長く丸形のステアリングで前一輪を操舵するためのメカが組み込まれていた物と推定される。WSC時にはカウルは取り外され、操舵系はバーハンドルで直接前輪の向きを変える二輪車式となっており、全長が切りつめられている。 *34) *35)

 ソーラーカーに触発されたきっかけは、斉藤敬氏の著書に掲載されていたマナラ号のフォルム。「ああいう感じのを作りたい」と思ったそうだ。流星号のフォルムとはずいぶん隔たりがあるが、ハワイの大富豪と比べるのは申し訳ない。
 車体はL型(5cm幅)のアルミアングルに孔を開け、ネジ止めで接合して組み上げられた。モーターコントローラは自作だが、FETがしょっちゅうパンク、発火してFRP製の収納ケースごと焼損したことすらあった。

 主目的のWSCに参加するため朝日ソーラーカーラリーの3週間後に船積みをしなければならなかったが、そのままの大きさでは輸送費がかかるため、やむなく分解して部品レベルで豪州に搬入し、現地で再組み立てることとした。フロント部分は大きすぎたので、自転車の前半分がそのまま流用された。

 豪州持ち込み当時に装備していたバッテリーはいずれもオートバイ用。12volt×7直列84voltにて使用、容量違いの2個はライト用に24voltを引き出すための措置であった。銀亜鉛電池を搭載した有力チームと比べるまでもなく、オートバイ用の鉛バッテリーは非力。あまりにバッテリー容量が小さすぎると見かねた、GSバッテリー社(大会スポンサー)の担当者が、12volt8AH×4個を細川氏に譲与。レースではそちらのバッテリーを4直48voltにして使うことにした。自作コントローラが余りに不調なため、ハマ零の山脇氏の意見に従い、急遽、発進時には2直2並列24volt、スピードが出たら4直48voltに切り替える方式に変更。WSC参加時の写真にはコクピット脇に切り替えのためのナイフスイッチが見える。変速機構は無く、ギア比は固定 *37) 電源電圧がモーター定格の約半分しかないためトルクが出ずに坂道が上れなかった。
 結果は途中リタイヤで( 記述は資料により分かれる:二日間走行で60km *1)、120km走って坂道が上れずリタイヤ *2)、112km走ってバッテリーを使い切り3日目にアデレードリバーでリタイヤ*29))平均走行速度3km/hrと記録された。*4)*38) これは、相当に悔しい経験となったようで、これ以後、彼の生活の全てはソーラーカーに捧げられることとなる。この時細川氏は、レース後に車両と太陽電池を寄付する約束を交わしていたドリプストン高校が引き取りに来るのをアデレードリバーで3日間待ったと伝えられている。*34)

 車両保管場所から、予選を兼ねたスタビリティテスト、最高速、ブレーキテストが行われるヒドンバレー・モータースポーツ・コンプレックスまでは自走にて移動。加速能力が乏しく、ブレーキテストに必要な時速30kmが出ないため、何度もやり直しを強いられた結果、バッテリーは空になり、帰路は牽引されての移動。牽引フックは装備されていなかったため、コクピットに乗り込んだ細川氏自身が牽引ロープを握った。*37)

 予選終了後は、そのままバッテリーごと車両保管に入るため、翌朝のスタート時にはバッテリーはほぼ空っぽ。なんとかスタートしたものの坂道でストップし、その場所で4時間ほど充電。走れるようになった時点でそろそろとスタートし、停まれば再び充電、というサイクルを繰り返し3日目にアデレードリバー(スチュアートハイウエイに宿場風に設けられたサービスエリア的な施設、ガソリンスタンド、ホテル、飲食店のセット。ダーウインからの距離112km)に達し、そこでリタイヤを決めた。これを時間平均すると「時速3.2km」になる。*37)

 帰国の運送の当てが無く困っている、という話を聞きつけた朝日新聞記者が地元関係者にかけあい、ドリプストン高校に車両ごと寄付する話をまとめた。3日目リタイアの報を聞いた顧問の教師が4日目にトラックでアデレードリバーまでソーラーカーを受け取りに来たとのこと。 太陽電池はシーラントで貼り付けられていたためリユースは難しかったようだが、WSC'93に参加した同高校のソーラーカーにはアルミアングルなどが再利用されていた。ソーラーカー引き渡し後は車でアデレードまで移動した。*37)

 # 以上が「平均時速3km」と、異説が多い「流星号の余生」に関して御本人が語った事の真相である。

1991-1993年
 大分市に転勤。 当地で知り合った大分大学メンバーと「みらい」(二人乗りの三輪車)を製作し、ソーラーカーラリーin能登(1992)に参加。*5)

 一方で生活費を削って資金を貯め、新に独自の2号車「HOSOKAWA-GO」を製作。*1)*4)*6)*7) ソーラーカーレース鈴鹿1993には友人との二人で「HOSOKAWA-Sunチーム」としてTomorrowクラスに出場。トラブルにて10周、総合38位。
 翌月には車両を船積みし、チーム名を「パンダサン」に改めて、再度豪州縦断に挑戦。結果、10日目、84:15時間で26位、世界のワークスチームが参加する中、個人参加のチームとして堂々の完走を果たした。側面の太陽電池の日照側は走行電力するための電力に、反対側面のからの電力はバッテリーの冷却ファンに使うという凝ったオペレートを行い、レース中は、ほぼノートラブルであったとのことである。*34)  日本出国時には、ニッケル亜鉛バッテリー24個を準備していたが、現地で一個を壊してしまい、結果として容量減で運転せざるを得なくなった点が惜しまれる。

 完走で区切りをつけ、登山家に戻るという心づもりだったようだが、この時はすでにソーラーカーの魔物に魅入られてしまった後だったようだ。この時のチームメンバーには次回1996年のWSCで完走することになる横浜国立大チームの立脇修氏が参加していた。*29)


細川号/ホソカワ号(HOSOKAWA-GO)
World Solar Challenge 完走車だけが持つ圧倒的な存在感
WSC出場時は側面にもソーラーパネルを配置していた
(1994年03月05日大分大学にて撮影 サンレイク書庫)

「細川号」
 車体サイズ 5750L×1888W×1022H(mm) *36)
 車輪数  前2輪、後1輪 *35)*36)*37)
 最高速  63km/hr
 太陽電池  ホクサン(HSC50)400watt、シャープ(NT3432)800watt
 上面1108watt、側面100watt *37)
 出力1250w *34)
 MPPT Solectria社製昇圧型 *37)
 バッテリー ニッケル・亜鉛 2.85kwh *34)
13.6volt×7AH×16個 *37)
 モーター Solectria製 DCブラシレス 4.0kw、最高7.0kw *34)
 Solectria製 DCブラシレス BRLS11型 5.0kw、重量12kg *37)

1994-1996年
 1994年には、朝日ソーラーカーレースinTIサーキット英田と、ソーラーカーレース鈴鹿のTodayクラス(現在のChallengeクラスに相当)に参戦した。バラバラに分解した車両をワゴン車に積み込み、レース会場で再度組み立てるという苦肉の運営はWSC参加時からの伝統となった。鈴鹿での結果はクラス5位。太陽電池パネルの損傷に気が付かず、実力的には480watt程度であったことが後に判明。*37) この年の鈴鹿のTodayクラスは2位と3位は一周差、さらに3〜6位までが同一周回数という接戦であり、非常に惜しまれる結果であった。


細川SUNチーム 「HOSOKAWA-GO 786」   拡大
1994朝日ソーラーカーレースinTIサーキット英田にて (画像提供:柴田茂壽氏)


 8月初旬、北海道釧路市で開催されたイベントには夏休みを利用して参加。競技内容は周回コースを回る時間の正確さを競う公園ラリー形式。二日間に渡って行われたラリーの初日は首位であったが、二日目に時計の読み違いにより一挙に順位を落としてしまったとのこと。大会自体は華やかで楽しいイベントであったと後に語っている。*37)

 1995年、前年の釧路イベント時にパネル損傷に気が付いたため、1995年の鈴鹿にはパネルを吟味して臨んだが、バッテリー容量が少なく、惜しくも一周差の4位と表彰台を逃した。*37) 車両名のアルペン・ゼファー(山岳の風)は前年の釧路イベント参加時に利用したフェリーにヒントを得たとのこと。 *37) 後に「湖上の風」と名付けられたソーラーカーにも繋がっていそうなエピソードである。

 同年の秋田には、ソーラーカーではなく第1回WEM(World Econo Move)のオープンクラスに出場、60チーム中31位という記録が残されている。ここでの小型省エネ車両での経験が、後の小型ソーラーカーによるWSC挑戦への伏線になっているものと想像する。

 # なお1995年の英田イベント時のスナップ写真に、細川氏の受賞シーンが
 # 残されている。残念ながら、資料が散逸しており詳細は不明である。
 # (資料お持ちの方、是非ご一報を)


「HOSOKAWA-GO 786」と「Ebara EcoTech」
1994朝日ソーラーカーレースinTIサーキット英田にて (画像提供:柴田茂壽氏)

 1996年 鈴鹿には、昨年、一昨年の反省に基づき、太陽電池パネル全部を点検してホクサン製800wattに集約、鉛バッテリーもほぼレギュレーション一杯の78kgを搭載し満を満たして挑んだ。「フィナーレ」という車両名に、その強い思いを感じる。結果はTodayクラス2位、総合でも9位に食い込み、初の表彰台獲得となった。*8)

 「このころは失敗ばかりしていた。」と御本人は語るが、その失敗を翌年のさらなる一歩に確実に結びつける研究熱心さを見習わなければならない。


左から Solar Wing, URANUS VII(Hosokawa), Dream90,コスモカップ・ソーラーカーレース鈴鹿'94


 WSC1996秋には、現地で「子持ちシシャモ」と渾名された440wattのミニソーラーカー「MERCURY 440W」にて参加。*4)*9)*10)*11) 車両サイズは全長3.3m、幅1.4m、空車重量は公証50kg(実測は60kg超)、776Whのニッケル亜鉛電池(推定重量は9kg程度)を搭載。ドイツのヘリオデットチームと同様に、分解したソーラーカーの部品を手荷物として持ち込み、現地で組み立てる(しかも野外の駐車場で!)というローコストな手法は、ダーウインの灼熱の太陽に対する、気力、体力の持続戦でもあったと思われる。チームメンバーには神戸市立工業高校の卒業生2名に長崎県立の工業高校の教師2名、さらに現地でのボランティアとしてアデレードに留学中の日本人2名とダーウイン在住の調理師氏が参加した。同じ大会に参加したハマ零チームの「一美号」よりさらに一回り小さい車両での果敢なる挑戦であったが、仕上がったソーラーカーは明らかにパワー不足で穏やかな起伏のにも手こずっていたとのことであった。初日の走行距離は約200kmで平均時速は22km/hr。今回のレースから総平均速度が40km/hr以上であること、という規定が加えられていたため、細川氏は初日の夜に無念のリタイヤを決断した。*29)

 細川氏と同様、小型ソーラーカーで参加したハマ零チームも健闘したが不慮の事故によりペースを乱し、2467kmにてリタイヤを選んだ。この2チームが提起した議論は、6×2mというWSCフルサイズの是非を問うものとなり、ISFによる新規格:ISF5000、ISF4000提唱への下地となった。小型ソーラーカーにより完走を目指すというスピリッツはTeam Junk Yard のガメラ号に受け継がれた。*29)


これ以後、細川氏の新たな目標は「鈴鹿」に向かうこととなった。


手前 URANUS VII(Hosokawa), Sunlake, コスモカップ・ソーラーカーレース鈴鹿'94


1997-2003年
 1997年のソーラーカーレース鈴鹿ではTomorrowクラス(現ドリームクラス)に参戦。総合8位という好成績を記録した。*8)*13)

 車体を分解してピットに持ち込み、そこで組み立てるという苦しいスタイルは、手間暇がかかると同時に、不慮のトラブルの温床でもあった。川崎市に転勤して迎えた1998年の鈴鹿はパンクに泣いた。 1999年には、ラリー経験を有する冨高朗氏を相方ドライバーに迎え新車で臨んだが、トラブルにて10周。 「初心に帰って頑張ります。」とコメントした2000年には総合14位。 2001年にはユニーク社のモーターを採用するが、走行中のチェーン外れにて無念のコースアウト。*8)*14)*15)*16)*17) 2002年にはNGMを採用し、総合2位(88周)に躍り出たが、翌2003年は、まさにそのNGMのコントローラ不調により第一ヒート零周に終わるという不運に見舞われた。*18)*19)

 なお、1999年にはキレンジャクチームのサポートメンバーとしてWSC1999に参加している。


フォレスト・ウォーカー
ドリームカップソーラーカーレース鈴鹿2002 第2ヒートゴール直後



 山谷は大きいが、残された成績を冷静に見れば、一歩一歩と、まさに山を登るがごとく周回数と順位を上げてゆくその工夫と努力、研究熱心さには頭が下がる。


ドリームカップソーラーカーレース鈴鹿2002 総合2位入賞時の仮表彰式 シャンパンファイト



2004年 ソーラーカーレース鈴鹿 総合優勝
 前年の鈴鹿第2ヒート、前日は零周に終わっているのでバッテリーはフル充電状態。にもかかわらず全力で走って47周しか回れなかった(一位の芦屋大学TIGAは1H 49周+2H 49周、4位チームまでが2H49周を記録)。*2)*12) この冷静な分析に基づく地道な改良が翌2004年、台風直撃という最悪の天候の中、組織力、資金力共に上回る強豪チームを抑え、真のプライベータによる総合優勝という快挙につながった。レース終盤、スピンしながらも自力で体勢を立て直し、チェッカー寸前にコントロールラインを通過して2位の芦屋大学TIGAに1Lap差を付けた神業的なドライビングは名コンビの相方ドライバー冨高氏によるものである。*20)*21)*22)*23)


パンダサン 「トライアシック・ダンディ」
ドリームカップ・ソーラーカーレース鈴鹿 2004
強風と豪雨の中、2位に1Lap差を付けてチェッカーを受けた直後

 2004年、アテネオリンピックのプレイベントであったソーラーカーラリー「Phaethon2004」にチーム・サンレイクが出場するに際し、細川氏にエキストラメンバーとして参加頂く予定だったが、*30)*31) 細川氏御多忙のため実現されなかった。細川氏とのギリシャ道中を楽しみにしていたメンバー一同は大変残念がったが、レース中のアクシデントを思い起こすと、細川氏にとっては幸運だったのかもしれない。*32)*33)

 # 後日、「オリーブオイルは身体が受け付けない。」というお話しを聞き、その感を強くした。
 # (ギリシャではあらゆる食材にオリーブオイルがかけられている。)

2005年
 2005年鈴鹿では芦屋大TIGA、Aurora101の二台がGaAs太陽電池を搭載、大阪産業大学もサンパワー社のタンデム太陽電池を搭載し、上位3台が100周超を記録するハイペースのレースの中で、ノーマルなシャープ社製単結晶シリコン太陽電池を使っての94周、総合4位。御本人が最も不満なのは太陽電池パネルのスペック差ではなく、自らが改善しようと手を入れたフロントサスペンションの溶接位地がずれてジオメトリーが狂い、高速走行時の安定性が損なわれてしまった点だという。*25)

2006年
 2006年鈴鹿では芦屋大学 Ashiya Sky Ace TIGA 107周、大阪産業大学 OSUmodel S' 102周に次ぐ3位に入賞(94周)。


「トライアシック・ダンディ」 ドリームカップ・ソーラーカーレース鈴鹿2006

2007年
 2007年鈴鹿、仕事の都合とのことでEnjoyクラスに出場。44周を回りクラス2位。なおEnjoyクラスはトップ3台が同じ44周を回った。1位と2位の差は59秒であった。


「テクノ・ラプトル "GUI" 」 ドリームカップ・ソーラーカーレース鈴鹿2007


*****************************************************

 「名は体を表す」を地でいく人でもある。とにかく細い。鈴鹿ではドライバー体重をバラストにて70kgに合わせなければならないのだが、細川氏のバラストは20kgを超えている。一個にまとめると、あまりに重く乗り降りに支障が出るので二個に分けてはいるものの、毎度ドライバー交代時には苦労している様子である。彼の体重がもう10kgほど重ければ、ロス時間を30秒近く短縮することができるだろう。WSCではドライバー体重は80kg、すなわち彼は30kgものバラストを積み込んで走っていたのである。*25)

*****************************************************

 日本の現役最長老ソーラードライバーである柴田茂壽氏が細川氏を「先生」と呼ぶ。1992年の朝日ソーラーカーラリーin神戸を観戦し、ソーラーカーを作ってみようと考えた柴田氏は、まずは細川氏が講師を務めるソーラーカー製作講習会を受講したという。*24) 御自身の経験から得た貴重なノウハウを新規参入チームには惜しみなく公開し、きめ細かく指導するその姿にひかれ、彼を慕う人は絶えない。 最近でも細川氏御自身の提言で実現された鈴鹿サーキット主催の初心者向け第一回の講習会の講師を務めるなど、細川氏の活動はレース参加のみにとどまらず、ソーラーカー普及への啓蒙活動とボトムアップのための教育活動にも及ぶ。*26*27)*28)
 スポンサーに頼ることなく、常に中立的な立場で発言する彼には、ソーラーカーレース主催者も一目置く。正にアマチュアソーラーレーサーのオピニョンリーダーでもある細川氏を、私たちのチームでは「ソーラーカーの伝道師」と呼んでいる。

*****************************************************

    足跡

イベント名クラスチーム名車両名結果
'90朝日SRin神戸たぬきさんチーム(福島市)流星号
WSC1990Nobuaki HosokawaRyusei Goリタイヤ、平均速度 3km/hr
SRin能登1992IIたぬきさん&
大分大学○ビチーム
みらい不明
'93鈴鹿TomorrowHOSOKAWA-SunチームHOSOKAWA-GO10周 総合38
'93朝日SRin横浜PANDA-SAN(大分)HOSOKAWA-GOエントリーしたが出場せず
WSC1993PANDA-SANHosokawa Go26位,84:15hr,
平均速度37.7km/hr
'94英田VI細川SUNチームHOSOKAWA-GO 786 総合 8位
 クラス6位
'94鈴鹿TodayたぬきさんチームURANUS VII56周 総合13位
Todayクラス5位
'94釧路 たぬきさんチームURANUS VII 
'95英田    
'95鈴鹿TodayPANDA SANALPINE ZEPHER60周 総合10位
Todayクラス4位
'95 WEM秋田OpenパンダさんチームポニーのBちゃん号31位
'96英田IPANDA SAN '96Finale480 総合 5位
 クラス2位
'96鈴鹿TodayPANDA SAN '96Finale66周 総合9位
Todayクラス 2位
WSC1996 Panda-SanMERCURY 440wwithdrawn
'97鈴鹿TomorrowPANDA SANFinale68周 総合8位
'98鈴鹿DreamPANDA SANFINALE43周 総合30位
'99鈴鹿Dream夢見る地球人ALPINE ZEPHER10周 総合36位
WSC1999キレンジャクキレンジャク
2000鈴鹿DreamPANDA SAN高原の風60周 総合14位
湖東2000
12時間耐久
F ClassPanda SunALPINE ZEPHER240周 総合10位
Fクラス4位
2001鈴鹿Dreamパンダサンフォレストウォーカー40周 総合24位
2002鈴鹿Dreamパンダサンフォレストウォーカー88周 総合2位
2003鈴鹿Dreamパンダサンフォレストウォーカー47周 総合21位
2004鈴鹿Dreamパンダサンチームトライアシックダンディー63周 総合優勝
2005鈴鹿Dreamパンダサンチームトライアシックダンディー94周 総合4位
2006鈴鹿Dreamパンダサンチームトライアシックダンディー94周 総合3位
2007鈴鹿EnjoyパンダサンチームTechno Raptol "GUI"44周 クラス2位

資料

*1) 中部博,「光の国のグランプリ」,p.161-, 集英社,1994.08.24.
*2) ドリームカップ鈴鹿2005トピックス-1(2005/4/18)http://event.yomiuri.co.jp/2005/solarcar/topics/topics_031.htm
*3) ドリームカップ鈴鹿2005トピックス-2(2005/4/18)http://event.yomiuri.co.jp/2005/solarcar/topics/topics_032.htm
*4) http://www.me.ntu.edu.tw/~ifplab/solar/team.htm
*5) ソーラーカーラリーin能登 公式プログラム
*6) '93朝日ソーラーカーラリーin横浜 エントリーリスト
*7) '93朝日ソーラーカーラリーin横浜 公式結果 
*8) 歴代成績 http://event.yomiuri.co.jp/2006/solarcar/results.htm
*9) http://www.zdp.co.jp/inf/wsc96/zdprpt/oct23_j.html
*10) http://www.zdp.co.jp/inf/wsc96/zdprpt/oct24_j.html
*11) http://www.zdp.co.jp/inf/wsc96/zdprpt/grid_j.html
*12) http://www.zdp.co.jp/2003/2003suzuka2.html
*13) コスモカップ鈴鹿ソーラーカーレース'97 公式プログラム
*14) ドリームカップ鈴鹿ソーラーカーレース'98 公式プログラム
*15) ドリームカップ鈴鹿ソーラーカーレース'99 公式プログラム
*16) ドリームカップ鈴鹿ソーラーカーレース 2000 公式プログラム
*17) ドリームカップ鈴鹿ソーラーカーレース 2001 公式プログラム
*18) ドリームカップ鈴鹿ソーラーカーレース 2002 公式プログラム
*19) http://www.spacelan.ne.jp/~y-susumu/page045.html
*20) http://www.zdp.co.jp/2004/2004suzuka5.html
*21) http://www.yomiuri.co.jp/hochi/car/2004/news/08/2004news_08.htm
*22) 三文楽士の休日 2004夏の嵐編 http://solar.inkm.net/suzuka2004.htm
*23) 一畳メンの野遊び日記 http://black.ap.teacup.com/noriaki/58.html
*24) 柴田茂壽氏インタビュー 
*25) 細川信明氏インタビュー(2006.02.26.鈴鹿サーキット製作講習会)
*26) chubu.yomiuri.co.jp/news_kan/kan060131_2.htm
*27) www.zdp.co.jp/2005/1227/suzuka2006-workshop.pdf
*28) event.yomiuri.co.jp/2006/solarcar/news/news_012.htm
*29) 沼崎英夫,「Panda-San 小型ソーラーカーの挑戦」,ソーラーシステムズ,PP43-44,1996.12.25.
*30) http://www.phaethon2004.org/
*31) http://www.phaethon2004.org/en/participants/part03.html
*32) http://solar.inkm.net/index_phaethon.html
*33) http://www.toyobo.co.jp/mirai/sunlake/rep/jp/r_04.htm
*34) 沼崎英夫,「1993WSC特集」,ソネットシステムズ,No.57,p.73-75,1994.3.30.
*35) '90朝日ソーラーカーラリーin神戸 公式プログラム、1990.10.07-10.
*36) ソーラーカーレース鈴鹿’93公式プログラム,1993.08.07-08.
*37) 細川信明氏インタビュー(2006.10.06〜2006.10.22)
*38) 1990 World Solar Challenge Technical Report


第一稿 2006.02.01.
第二稿 2006.03.19.
加筆  2006.09.18.
加筆  2006.10.10.
加筆  2006.10.25.
加筆  2007.08.14.
加筆  2007.11.09.

=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=


ミノファミリー


エコラン時代から「スーパー・アマチュア」と呼ばれた美濃氏のファミリーチーム。

ミノ・ソーラー・スペシャル・パート1 ソーラーカーレース鈴鹿1992(太田龍男氏撮影)


ミノ 朝日ソーラーカーラリーin横浜1993(太田龍男氏撮影)


ミノ・ソーラー・スペシャル・III ソーラーカーレース鈴鹿1995(サンレイク所蔵)



ミノ・ソーラー・ミニ 朝日ソーラーカーラリーin神戸1995(サンレイク所蔵)



1998 朝日ソーラーカーラリーin神戸


資料
カーグラフィック
http://www2.ocn.ne.jp/~ikuho/index3.html
http://www2.ocn.ne.jp/~ikuho/mino01.html
http://www2.ocn.ne.jp/~ikuho/mino02.html

第一稿 画像収集 20061010



=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=


ソフィックス


1989年 ソーラーカーデザインGP'89 アイデア賞


初代SOFIX ソーラーカーデザインGP'89 (画像提供 江口倫郎氏)

1989年 '89朝日ソーラーカーラリーin神戸
1990年 '90朝日ソーラーカーラリーin神戸 SOFIX II
1990年 WSC1990
1992年 ソーラーカーレース鈴鹿
1992年 Tour de Sol
1993年 WSC1993
1995年 American Toue de Sol に日産マーチ改造EVにて出場。Discovery Channel Commuter Category 5位。*1)

*1) 1995 アメリカン・ツール・ド・ソル,Solar Systems No62,p77,ソーラーシステム研究所,1995.09.05.


ソフィックス II ソーラーカーレース鈴鹿1992試走会(太田龍男氏撮影)





=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=


ラフィング・サン



ソーラーカーレース鈴鹿1992にて (画像提供:太田龍男氏)




ソーラーカーレース鈴鹿1993にて (画像提供:太田龍男氏)






ソーラーカーレース鈴鹿1994にて



ソーラーカーレース鈴鹿1995にて



=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=

*****************************************************



シバタ・ファミリー・ソーラーカーチーム / チーム オータス / チーム・アスカ

Shibata Family Solar Car Team / Team Otus / Team Asuka


シバタ・ファミリ−・ソーラーカー・チーム 初代ソーラーカー「33−I号」


1991年 秋 熟年コンビ結成

 神戸市立農業公園で開催されていた朝日ソーラーカーラリーin神戸の観客の一人に、チョビ髭を生やし弁髪風に伸ばした髪を後ろで結った初老の紳士がいた。2006年現在、現役最高齢のソーラーカードライバー、柴田茂壽氏である。*1)*2)

 柴田氏は、1940年の戦中生まれ、大手広告代理店の社員として戦後日本の復興と続く高度経済成長を支えてきた世代である。人生半世紀を過ぎ51才を迎えたときに感じた心の空白を埋めるために「何かをやりたいと痛烈に思った」そうだ。たまたま観戦に出かけたソーラーカーラリーで「これなら自分にも出来そうだ」と「錯覚」し、大阪で開かれた講習会(講師は細川信明氏)に参加して製作に関するノウハウと資料を手に入れた柴田氏は、小〜中学校の同級生だった太田龍男氏が経営する鉄工所を訪ねた。*1)*3)*4)
「ほう、確かに面白そうやのう。
 ところでお前(WSCに出るようなチームに)勝つ気か?
 勝つ気なら、なんぼカネがあっても足らへんぞ。 」
「いや、勝とうという気はない。楽しめて走れれば十分や。」
「わかった。それならやろう。」
 かくして、二人の年齢を合わせて102才(当時)という最年長チーム「シバタファミリー・ソーラーカーチーム」が結成された。「ファミリー」には家族ではなく「仲間」という意味を込めたという。

1992年 33−I号 デビュー

 「キャノピー? 真夏の鈴鹿で、そんな窮屈な物、被って走っていられるか!」 *1)
 太田氏の一言で、基本デザインは Tour de Sol 1985 にて優勝したダイムラーベンツ・チームの「シルバーアロー号」に倣った船型胴体と平板パネルを持つフルオープンカーに決定された。熟年コンビの挑戦は各方面からの注目を集め、NTV(日本テレビ)、新聞各社らマスメディアが二人を取材に湖国栗東の太田鉄工所を訪れた。


33−I号
GM「サンレイサー」やホンダ「DREAM」に倣ったゴキブリ型や
翼型ソーラーカーが多い中、無駄をそぎ落としたクラシックな外観。

 私費をつぎ込んで完成した一号車:鮮やかな青に塗られた鉄製フレームを持つ「33−I」号は、1992年に開かれた第1回ソーラーカーレース鈴鹿に出場。予選こそ最下位枠での通過であったが、決勝ではホンダ「ドリーム」や日産「サンフェイバー」などのワークスチーム、WSC出場経験のある猛者達に混じって見事に完走し、周回数42、総合24位、クラス13位という成績をあげた。柴田氏の錯覚は現実となったのである。
 鈴鹿の魔物に取り憑かれるのに年齢は関係ない。33−I号は、鈴鹿サーキットから太田鉄工所の車庫に戻ってきたかと思うと即座に解体されてしまった。納得がいくまでトコトン、メカニックの細部を追い込まなければ気が済まない太田龍男氏の性癖が目覚めたのであった。 *2)

1993年 33−II号

 第2回目となったソーラーカーレース鈴鹿には、新に一から作り直された二号車「33−II」にて出場した。レース自体は豪雨により中断され、欲求不満の残る結果となってしまったが、それはどのチームも同じであった。秋には朝日ソーラーカーラリーin横浜に参加。

33−II号
基本スタイルは33−I号と同じフルオープンの平板パネル式であるが、
ボディが密閉され、軽やかなカラーリングに変更されている。

「天気がどうしたって? 雨が怖くてオープンカー乗れるかい!」

1994年 琵琶湖ソーラーカーフェスティバル

 地元滋賀県で開催された独立イベントには県下からの5チームを含む、全22台のソーラーカーが参加した。この時に東京ヴィジョン社により、シバタファミリーチームを主役にした番組製作が行われた。番組自体はスカイパーフェクトに売り込まれたが採用されず、最終的には香港の放送会社に買われて衛星TVで放送されたとのこと。残念ながら日本国内では放送されなかったようだが、ひょっとすると2000年から香港で開かれているソーラーカートイベントの動機付けに少しは役立っているのかもしれない。 *1)
他、朝日ソーラーカーレースinTIサーキット英田、ソーラーカーレース鈴鹿、朝日ソーラーカーラリーin神戸に出場。

1995年

 ソーラーカーレース鈴鹿、朝日ソーラーカーラリーin神戸に出場。

1996年 33-III号、Otus S-EVen デビュー

 FRP製フロントカウルとアルミフレームシャーシを持つ3号車「33-III号」デビュー。


33-III号初期型

 この年、ファミリーから新しいソーラーカーがデビューした。その名は Otus S-EVen。マニアがニヤリとしそうなネーミングを持つその車は、耐久レース用ソーラーカーとは異なり、短距離のコーナリング性能競技に特化したコンセプトのソーラーカーであった。制作主任は太田龍男氏御子息の太田有彦氏である。柴田氏が太田鉄工所を訪ねた時には高校生だった有彦氏もこのころには父親譲りの腕利きアイアンワーカーとして腕をふるっていたのであった。設計コンセプトを絞り込んだ作戦は当たり、公園ラリーイベントにおける総合成績は常に33号より高い。


Solar Electric Vehicle "Otus S-EVen"

 さらに1996年の暮れには「若さと情熱はあれど、カネも車体もパネルも無し」状態であった立命館大学ソーラーカーサークルのメンバーが太田鉄工所の門を叩いた。学生メンバーの相談を受けた自動車部品会社の社長が「ソーラーカーなら」ということでシバタファミリーチームを彼らに紹介したのであった。非公認団体であるが故に学内に活動場所を持てない彼らに太田氏は快く場所と道具を提供し、さらにソーラーカー製作のノウハウと、製作に必要となる機械加工技術を彼らに教え込んだ。昔ながらの職人気質である太田龍男氏の厳しい指導に耐えてソーラーカー「Nandeyanen」を作り上げた彼らの奮闘の詳細については、
こちら(大学チームの章「立命館大学」)をご参照頂きたい。以後、彼らはシバタファミリーチームを支える若いチカラとなっていった。


33-III号初期型 コスモカップ・ソーラーカーレース鈴鹿1996

1997年

 前述の立命館大学ソーラーカーサークル「Nandeyanen」が朝日ソーラーカーラリーin幕張のシャープ学生クラスに出場し、見事クラス優勝を勝ち取った。この時に同じく学生クラスでデビューし、隣どうしのピットになった山口大学チームとの交流が4年後のドラマの伏線になろうとは誰も予想だにしていない。

 年々優勝車の周回数が上がって行く鈴鹿ソーラーカーレースにおいて、33号の成績は必ずしも芳しいとは云えない。スピードが上がり、空力性能が上がってくるとフルオープン+平板パネルというクラシックなスタイルは圧倒的に不利である。しかしながら柴田氏と太田氏にとってそんなことはどうでもよい。サーキットを吹き抜ける風を感じることが出来ないソーラーカーなど彼らには意味を持たないのである。


ソーラーカーレース鈴鹿1997 フィニッシュ。
親子?ソーラーカー「33-III号」と「Nandeyanen」おそろいでチェッカー


EV-ZERO 1 と Otus SEVen 鈴鹿1997試走会にて


1998年

 朝日ソーラーカーレースinTIサーキット英田
   クラスII にて3位。初の入賞となった。

 緑に囲まれた山間の小さな谷と盆地の地形を利用したTIサーキット英田(現:岡山国際サーキット)が柴田氏の最もお気に入りのレース会場であった。ガソリンエンジンの臭いが残る鈴鹿サーキットとは異なり、ここでは山間の木々の間を吹き抜ける風がソーラーカーを包む。まさにフルオープンのソーラーカーで走るために存在するがごときサーキットなのであるが、なぜか英田イベント参加時の写真の半数はレースシーンではなく、常宿での夕食膳の写真だったりする。

1999年 クラス優勝

 朝日ソーラーカーラリーin神戸
    念願のCクラス優勝
 単純なスピード勝負では有利とは云えないが、周回時間の正確さを競う公園ラリーでは経験を積み重ねた老練な技術が物を云う。

2000年 還暦、そして新たな舞台(ステージ)へ

 柴田氏の言葉によれば「心に決めたラストシーズン」を迎えた。この年、熟年コンビは揃って還暦を迎えるのである。 *3)

 柴田氏お気に入り、岡山県のTIサーキット英田でのソーラーカーレースは前年に幕を閉じていたが、その代替イベントともいえる新しいソーラーカーイベントが湖国で産声をあげた。世界で初めての試みとなった連続12時間耐久レースをメインとする「湖国ソーラーカー・EVカーフェスタ」である。この過酷なレースにてシバタファミリーの33-III号は、クラス3位、総合12位という好成績。ソーラーカーレース鈴鹿では Challengeクラス11位、 総合21位。周回数52は自己最高記録であった。さらに朝日ソーラーカーラリーin神戸ではCクラス3位入賞という成績を残し、有終の美を飾った。

 秋には、次年度に予定された「第2回 湖国ソーラーカー・EVカーフェスタ」の実行委員会が結成され、柴田茂壽氏が副実行委員長に就任。元大手広告代理店勤務の手腕を存分に発揮し、イベントを滋賀県の湖国21世紀記念事業に採用してもらうための働きかけ、県知事へのプレゼン、関係者との調整、イベントアピールのための取材に応じるなど、柴田氏の活動範囲は、一チームの代表という枠を超える物となっていった。


Otus SEVen '2000 朝日ソーラーカーラリーin神戸

2001年 世代交代

 6月 WSCC2001 in Malaysia チーム・サンレイクのマレーシア遠征に太田有彦氏が参加。立命館大学ソーラーカーサークル Nandeyanen もエントリーしていたので、21世紀最初の国際大会に湖国から3チームの関係者が参加したということになる。レースの顛末については両チームとも散々であったが、得た物は共に優勝チームより遙かに多かっただろう。有彦氏は初日に大トラブルに見舞われたSunlake号とNandeyanen号の修理に大活躍であった。*5)

 ソーラーカーレース鈴鹿。合わせて122才となった熟年コンビはドライバーを若い世代に譲り、ピットから見守る役割に移った。二人の代わりにステアリングを握るのは龍男氏の御子息:太田有彦氏と立命館大学ソーラーカーサークルOBの下村潤氏。NTVがチームを主役にした番組製作のための取材に張り付く。このような配役と舞台装置が揃ったところで、鈴鹿の魔物はファミリーのために、極上のドラマを用意してくれた。

 有彦氏がステアリングを握る予選走行中に33-III号がコース上で突然止まった。モーターからの反応が全くなくなってしまったという。細かなトラブルには慣れっこの熟年ピットは余裕の対応だが、牽引されてピットに戻ってきた33-III号を診断した龍男氏も、この時ばかりは流石に青ざめた。なんとモーターコントローラの故障!。メカニックなトラブルや電気接続系の問題であれば、お手の物だが、電子回路そのものが逝かれてしまっていては代替部品がなければ手の施しようが無い。万事窮す。

 第1回から続いている連続決勝出場が途絶えるかもしれない。暗く沈んだシバタファミリーピット。そこに現れた山口大学OBの平山道夫氏が事情を聞いて叫んだ。

 「同じコントローラが部室にあるはずだ。」

 立命館大学ソーラーカー同好会「Nandeyanen」を通じてシバタファミリーと親交のあった山口大学チームは33号を参考にして同じ駆動系機器を購入し予備部品として保管していたのだ。

 平山氏の緊急電話に応えたのは山口大学ソーラーカーチームの在校生メンバーであった浦氏。たまたま部室近くにいた彼は、コントローラを手に取ると、その足で山陽新幹線に飛び乗り、名古屋から近鉄特急を乗り継いで鈴鹿サーキット最寄りである近鉄白子駅まで運んできたのであった。

 # 鉄道マニアでもあった彼は「新幹線と近鉄に乗れる」ことしか眼中に無く、
 # 白子駅で出迎えた柴田氏と平山氏に改札越しにコントローラーを手渡し、
 # そのまま改札から出ずにUターンして帰ろうとした。

 初日、第一ヒートは零周と記録されたものの、翌第二ヒート、はるばる山口県から運ばれたコントローラーは快調に動作。復活した33-III号は26周を周りクラス15位、総合28位にまで食い込んだ。仲間達に助けられ、出走にこぎ着けることができた柴田氏が、感極まって軍手で目頭を押さえる光景はいまでも語りぐさになっている。 柴田氏が「ファミリー」に込めた思いは皆に伝わっていたのであった。 *1)*2)*4)

 # さらには、レース終了後の重要な検査であるバッテリーチェックを
 # 後回しにさせてインタビューしようとしたNTVのディレクター氏が、
 # 龍男氏に「TVカメラ持っていたら、何でもまかり通ると思うな!」
 # と一喝されて泣き出したというおまけまで付いた。 *1)

 8月末、Otus S-EVenが四国EVラリーフェスティバルに出場。世界一厳しい日本の道路交通法に則って公道を走れることが条件であるこのイベントに挑戦した有彦氏は、ねばり強く役所と交渉し見事に登録ナンバーをGet、Otus S-EVen は湖国唯一、全国でも数少ない公道走行が可能なソーラーカーとなった。 *2)*6)


香川県の公道を走行中の Otus S-EVen
EVカーとして参加しているので後部ウイングのソーラーパネルは外されている。


同、ナンバープレート部拡大


 秋には「第2回 湖国ソーラーカー・EVカーフェスタin湖東」が開催された。副会長の柴田氏を初めとする関係者の昨年末からの活動が実り、滋賀県の湖国21世紀記念事業と位置付けられたこのイベントでは23台のソーラーカーによる連続12時間耐久レースの他、ソーラーバイシクル、エコノムーブも併催され、「エコカーフェスタ」の原型が確立された。
 開会式の挨拶に立った柴田氏は、天候と(ソーラーカーの世界に飛び込んで10年、ずいぶんと変わってしまった)御自身のヘアスタイルを結びつけた名スピーチを残した。イベントの裏方であるオフィシャル要員として大会を支えたのは立命館大学ソーラーカーサークル「Nandeyanen」の面々であった。
 「どうして参加者として出場しなかったの?」との問いに
 「柴田さんに「頼む」って云われたら、断れないでしょう。」
親子以上に年齢の離れた若者の、この言葉にも柴田氏の人徳が忍ばれるのである。
 また、第一日目の夜には(株)ツーアンドフォーの岡波勉代表の発案による「全国エコイベント主催者会議」が開催され、柴田氏が湖国ソーラーカー・EVカーフェスタを代表者として参加した。

2002年

 第1回(1992年〜)から連続出場を続けたソーラーカーレース鈴鹿から、この年を最後に引退。

  2002年時点にて、第1回目からの連続決勝出場記録「11」は、鈴鹿高専チーム、H.A.T.レーシング(荏原製作所)チームとならぶ文句なしの第一位。総合24位という成績は奇しくも第1回出場時と同じであった。

  # 蛇足ながら、鈴鹿の連続決勝出場記録は単にエントリーし続ければ達成できるという物ではない。
  # ドリーム、チャレンジクラスの8時間耐久とエンジョイクラスの4時間耐久が
  # 分離される前は、予選にて決勝出場45台の枠を100台近いチームが争ったのである。
  # あの名車ENAXでさえ一度は予選落ちしているという事実を御認識いただきたい。

 なお、この回、太田龍男氏はフリー走行中にシケインで破断したサンレイク号後輪の下側Aアームを、鈴鹿から滋賀県栗東まで飛んで帰って再溶接し、第一ヒート出走までに応急修理を完了させるという離れ業を披露。
 「だから、あれは『もたん』と云うたやろ。」
 金属材料の限界点と鈴鹿サーキットで車体に加わる負荷の両方を知り尽くした龍男氏には全てお見通しだったようだ。第一ヒート終了後に再び変形していたAアームは、太田氏の手により、翌朝には、まったく新しい頑丈な部品に作り替えられていた。以来、チームサンレイクは太田鉄工所に足を向けて寝ることはできないのである。*8)

 この年から、ソーラーカーレース鈴鹿の技術規則において補機(方向指示器、ブレーキランプ)用バッテリーの使用が許可された。従来の技術規則においては、表示灯の電源も主電源系統から取ることが求められていた。この場合、電力を使い切ってしまうと全てのランプが点灯しなくなり、安全装備であるはずのハザードランプでさえ動作しなくなってしまう。前年度の参加者向け説明会は、この問題をめぐって紛糾。安全装備のための独立したバッテリーの必要性を主張する参加者側と、ソーラーカーの原理原則(すべてのエネルギーをソーラーで賄うべき)という理想論を説く主催者側。両者の主張は平行線を辿って膠着していた。
「遅い車や、止まってしまった車は、どうなっても良いと云うことか?」
均衡を破りレギュレーション改定の方向に議論を導いたのは、会場に響いた太田龍男氏のドスのきいたこの一言であった。 *10)*11)

 結果的には最後の回となってしまった2002年秋の朝日ソーラーカーラリーin神戸。シバタファミリーの原点であったこのイベントにおいて、
    33-III号 は クラス2位、総合13位
    Otus S-EVen は クラス優勝、総合 9位
と好成績を残した。

 同大会において、竹原が駆るサンレイク号が最高速ブレーキテストにおいて操舵操作を誤り蛇行。急ブレーキにより事故には至らなかったが停止時のGにて前輪サスペンションの下側Aアーム付け根が曲がってしまった。 この時も例によって太田龍男氏の助けにより、翌朝までに修理を完了し、ラリー競技に出走することが出来たのであった。

2003年

 朝日ソーラーカーラリーin神戸、シバタファミリーは例年通りエントリーしていたが、イベント自体が、初日の最高速ブレーキテスト時に起こった観客を巻き込んだ人身事故により中断されてしまった。

 本来は車両の性能検査であるべき最高速ブレーキテスト、その主旨から逸脱し、停止指示を無視して、いたずらに最高速を誇示するチームに眉をひそめる柴田氏と太田氏は、かねてから、
  「同じ競わせるなら、最高速ではなく、制動性を競わせるべきだ。」
と主張し、安全面からの警鐘を鳴らし続けてきた。
 大きな事故を起こせば、イベント自体を継続することが出来なくなる。ソーラーカーを愛する多くのチームの発表の場と目標が失われてしまう。残念なことに彼らの危惧は現実になってしまった。


2004年

 5月 Phaethon2004 チームサンレイクのギリシャ遠征に太田有彦氏が参加。サンレイク号はマレーシア遠征時よりさらに酷いトラブルに遭遇。彼のアイアンワーク技術が無かったら、サンレイク号はギリシャの粗大ゴミと化していたかもしれない。 *7)

2005年

 ドリームカップソーラーカーレース鈴鹿2005、先輩達と同じように太田鉄工所の技術指導を受けて完成した立命館大学のα-fierld号の鈴鹿デビューである。神戸空港予定地にて開催されたエコカーフェスタでシェイクダウンし、自信満々で臨んだ鈴鹿であったが、α-field号は、第1ヒート数周回ったところで原因不明の自損事故を起こし、サスペンションを取りつける溶接箇所に致命的なダメージを負った。ルール上、競技中はピットから車両を持ち出すことが出来ない。メンバーは溶接修理に支障を来す電装系を取り外し、競技時間が終わるやいなや、ピットに応援に来ていた太田氏、柴田氏とともに車両を搬出、滋賀県の太田鉄工所にて夜を徹して修理。翌日の第2ヒート出走に間に合わせた。 *9)

 「ほんまに世話のかかる奴らやのう。」

 相変わらずの辛口とは裏腹に、若い「ファミリー」を見守る二人の目は限りなく優しい。

2006年

 4月1〜2日に行われたエコカーフェスタ2006(湖国ソーラーカー・EVカーフェスタ)。前々日にはなんと積雪!。春、未だ来ずというコンディションの中で行われた二日間に渡る8時間耐久レースは、雨により二日目が2時間に短縮されるという波乱の展開になった。時期が時期だけに学校関係のチームは少々参加しにくかったようで、ソーラーカーの参加は8台と寂しかった。開催地湖国を代表して参加したシバタファミリーチームとチームOtusには全国からNandeyanenOBメンバーが参集し、代わる代わるにステアリングを握った。結果、33-III号 8(6)時間耐久レース 総合3位、ジムカーナ競技、ソーラーカーの部3位。 Otus S-EVen、ジムカーナ競技 ソーラーカーの部1位であった。


エコカーフェスタ2006 湖東


 8月、ドリームカップソーラーカーレース鈴鹿2006。 33-III号が鈴鹿サーキットの国際コースを走ることは無くなったが、立命館大学チームとサンレイクピットの後方にはまたピクニックテーブルが置かれ、柴田氏と太田氏が陣取った。5日には午前中のフリー走行、予選時に破損した石川県立小松工業高等学校チームの車両パーツを、午後に滋賀県栗東の太田鉄工所まで運び、修理。小松工業高校チームの車両は、他チームのオジサンメンバー達も加わって夜半まで修理が続けられ、無事翌朝のエンジョイクラス4時間耐久レースへの出走にこぎ着けた。また一つ、太田鉄工所に足向けできないソーラーカーチームが増えた。*12)*13) 大先輩方を半化石魚に例えるような失敬な輩には、彼らの渋熟さを理解することなどできないだろう。


ドリームカップ・ソーラーカーレース鈴鹿2006 立命館大学チームと


 ところで、4月に開催されたエコカーフェスタ2006でのEVクラスは参加台数が少なく不成立ということになっていた。原因は、レギュレーションで規定されたバッテリー搭載容量が現実離れしていたところにあった。参加するためには、既存のEVカーのほとんどに大幅な仕様変更が必要となり、皆が二の足を踏んでしまったのである。

 「いったい、どういうつもりだったのだ?」と詰め寄る龍男氏に、主催者のO氏が「EVカーを作って持ってきてくれれば、レギュレーションをそれに合わせる。」と応えたところから、新しいEVバイク「Otus Fujio」が生まれ、第1回エコノ・ソーラーバイクレースin浜松にてデビューを飾った。*14)*15)


EVバイク製作中 2006.10.22. 太田鉄工所にて



Otus Fujio 2006.11.19. Econo Solar Bike Race in HAMAMATSU 2006


2007年

 第2回ソーラーバイクレースin浜松 「Otus Fujio」出場。
 エコカーフェスタ2007in泉大津フェニックス 「Team Asuka」、「Team Otus」出場。

イベントクラスチーム名車両名結果
1992 鈴鹿Todayシバタファミリー 33−I号 クラス13位 総合24位 周回数42
1993 鈴鹿Todayシバタファミリー 33−II号 クラス20位 総合31位 周回数14
 朝日SCRy横浜 Cシバタファミリー 33−II号  クラス7位  総合16位
1994 朝日SCRc英田 IIシバタファミリー 33−II号  クラス2位  総合9位
 琵琶湖
 SCフェスティバル 
VIIIシバタファミリー 33−II号  クラス4位 総合8位
 鈴鹿 Todayシバタファミリー 33−II号  クラス20位  総合31位 周回数42
 朝日SCRy神戸 Aシバタファミリー 33−II号  クラス5位 総合17位
1995 鈴鹿Todayシバタファミリー 33−II号  クラス15位 総合32位 周回数39
 朝日SCRy神戸 Bシバタファミリー 33−II号  クラス8位 総合17位
1996 朝日SCRc英田 IIシバタファミリー 33-III号  クラス5位  総合13位
 鈴鹿Todayシバタファミリー 33-III号  クラス12位 総合27位 周回数48
 朝日SCRy神戸Cシバタファミリー 33-III号  クラス8位 総合26位
BTeam Otus Otus S-EVen クラス7位 総合16位
1997 朝日SCRc英田 IIシバタファミリー 33-III号  クラス6位 総合12位
Team Otus Otus S-EVen クラス9位 総合21位
 鈴鹿Todayシバタファミリー 33-III号  クラス15位 総合34位 周回数45
 朝日SCRy神戸Cシバタファミリー 33-III号  クラス6位 総合30位
BTeam Otus Otus S-EVen クラス10位 総合14位
1998 朝日SCRc英田 IIシバタファミリー 33-III号  クラス3位 総合9位
Team Otus Otus クラス9位 総合19位
 鈴鹿Challengeシバタファミリー 33-III号  クラス12位 総合34位 周回数39
 朝日SCRy神戸Cシバタファミリー 33-III号  クラス2位 総合21位
BTeam Otus Otus S-EVen クラス10位 総合16位
1999 SCRc英田 IIシバタファミリー 33-III号  クラス3位 総合6位
 鈴鹿Challengeシバタファミリー 33-III号  クラス11位 総合21位 周回数50
 朝日SCRy神戸Cシバタファミリー 33-III号  クラス優勝 総合18位
DTeam Otus Otus S-EVen クラス優勝 総合7位
2000湖国SC・EVカーフェスタシバタファミリー 33-III号  クラス3位 総合19位
 鈴鹿Challengeシバタファミリー 33-III号  クラス11位 総合21位 周回数52
 朝日SCRy神戸Cシバタファミリー 33-III号  クラス3位 総合14位
2001 WSCC2001
 Malaysia
-Sunlake 太田有彦氏がTeam Sunlake に
 エキストラメンバーとして参加。総合8位
 鈴鹿Challengeシバタファミリー 33-III号  クラス15位 総合28位 周回数26
 四国EVラリー
 フェスティバル
-Team Otus Otus S-EVen クラス2位 − 
湖国SC・EVカーフェスタEシバタファミリー 33-III号  クラス4位 総合5位
 朝日SCRy神戸BTeam Otus Otus S-EVen クラス20位 総合41位
2002 鈴鹿Challengeシバタファミリー 33-III号  クラス12位 総合24位 周回数44
 朝日SCRy神戸Cシバタファミリー 33-III号  クラス2位 総合13位
DTeam Otus Otus S-EVen クラス優勝 総合9位
2003 朝日SCRy神戸---
中止
2004エコカーフェスタ 湖東Cシバタファミリー 33-III号 資料無し 資料無し
DTeam Otus Otus S-EVen 資料無し 資料無し
 Phaethon2004
 Greece
-Sunlake 太田有彦氏がTeam Sunlake に
 エキストラメンバーとして参加。総合11位
2005エコカーフェスタ
  神戸空港
Cシバタファミリー 33-III号  ラリー  クラス3位
 ポイント クラス4位
 ラリー  総合4位
 ポイント 総合9位
C立命館大学OB Otus S-EVenクラス3位 総合5位
2006湖国SC・EVカーフェスタ-シバタファミリー 33-III号 8(6)時間耐久レース 総合3位
-シバタファミリー 33-III号 ジムカーナ ソーラーカーの部3位
-Team Otus Otus S-EVenジムカーナ ソーラーカーの部1位
エコノ・ソーラー
バイクレースin浜松
-Team Otus
Sunlake Vintage
 Fujio 6時間耐久レース
フリースタイル
 総合5位
 フリースタイル2位
-Team Otus
Sunlake Sprout
 Hana 6時間耐久レース
フリースタイル
 
 フリースタイル3位
2007ソーラーバイクレースin浜松-Team Otus Sunlake Fujio 6時間耐久レース
フリースタイル
 総合13位
 
エコカーフェスタin泉大津-Team Asuka 33-III号ラリー クラス2位
-Team Otus Otus S-EvenEVジムカーナ クラス1位

資料

*1) 柴田茂壽氏、太田龍男氏 インタビュー
*2) 太田有彦氏 インタビュー
*3) Salut! interview file「ソーラーカーレーサー柴田茂寿」,Salut!, 草津シネマハウス, 2000.06.
*4) 日本テレビ「ドリームカップ鈴鹿ソーラーカーレース2001」,2001.08放送
*5) World Solar Car Championship in Malaysia 2001
  http://solar.inkm.net/WSCC.htm
  http://www.toyobo.co.jp/mirai/sunlake/rep/jp/r_01m1.htm
  http://www007.upp.so-net.ne.jp/tantony/topic/malaysia/wscc1.htm
  http://www.jonasun.com/~hiroweb/russianj-nikki-6-10.html
*6) 2001四国EVラリー公式プログラム
*7) phaethon2004
  http://www.toyobo.co.jp/mirai/sunlake/rep/jp/r_04_p1.htm
  http://solar.inkm.net/index_phaethon.html
*8) http://www.toyobo.co.jp/mirai/sunlake/rep/jp/r_02s.htm
*9) http://yaplog.jp/ruls/archive/178
*10) 関係者インタビュー
*11) 技術規則(補機用電源の項), Supplementary Regulations FIA Electro-solar Cup Dream Cup ソーラーカーレース鈴鹿2002,p28, 2002.
*12) http://solar.inkm.net/suzuka2006/index.htm
*13) http://izw-23.ddo.jp/bakabonz/
*14) http://motor.geocities.jp/ecobikehamamatsu/
*15) http://solar.inkm.net/hamamatsu2006/index.htm


Otus Fujio & Green Moss 2006.11.18. Econo Solar Bike Race in HAMAMATSU 2006


第二稿 2006.05.29.
追記  2006.09.10.
追記  2007.01.03.
画像追加  2007.04.10.


=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=


ジョナサン


 モードスタジオQ代表、クリーンエナジーアライアンス、WSRやWEM実行委員会の重鎮でもある山本久博氏が率いる老舗チーム。
 
 ハサミ一本で渡米して腕を磨き、築きあげたモードスタジオQ
 大潟村村長を口説いてWSR開催、ソーラースポーツライン開設
 自らチームを率いての WSC1999 プライベートクラス 準優勝
 ユーラシア大陸縦走
武勇伝は数知れない


(十勝大好きフェスティバル'97にて (画像提供 北海道自動車短期大学 山崎信行氏)


資料

http://www.jonasun.com/~hiroweb/russianj-index.html

http://www.jonasun.com/~hiroweb/index.html
http://www.jonasun.com/~hiroweb/lapita-1.html
http://www.jonasun.com/~hiroweb/lapita-2.html
http://www.jonasun.com/~hiroweb/lapita-3.html

http://www.jonasun.com/~hiroweb/super-jonasun-nikki-title.html

http://solarcar.jonasun.com/index.shtml
http://wsc99.jonasun.com/1027_1.html

着稿 20070103
=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=


ZDP:Zero to Dawin Project



Be−PAL ソーラーカーレース鈴鹿1994にて (TeamSunlake所蔵)



Be−PAL ソーラーカーレース鈴鹿1996にて (TeamSunlake所蔵)


link to "Zero to Darwin Project"

着稿 20070103

=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=


ソーラーGIGA




拡大


1996 朝日ソーラーカーレースinTIサーキット英田にて (Team Sunlake 収蔵)

2002 ドリームカップソーラーカーレース鈴鹿にて (Team Sunlake 収蔵)


着稿 20070429

=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=


再輝



FA和興(再輝) ソーラーカーレース鈴鹿'94



FA和興(再輝) ソーラーカーレース鈴鹿'94 試走会



ソーラーカーレース鈴鹿'95



ソーラーカーレース鈴鹿'96



ソーラーカーレース鈴鹿'99


More Pictures
附属博物館 展示室「SAIKI ENAX」へ

展示室公開 20060712
画像追加  20060830
画像追加  20060903
=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=


キョンシー



ソーラーカーレース鈴鹿'92



ソーラーカーレース鈴鹿'95



ソーラーカーレース鈴鹿 2005


=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=


栢会




WSCC 2001 Malaysia



ソーラーカーレース鈴鹿 2002



ソーラーカーレース鈴鹿 2003



ソーラーカーレース鈴鹿 2004



ソーラーカーレース鈴鹿 2005



ソーラーカーレース鈴鹿 2006



=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=


プロミネンス



 


 


 


=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=

◆◆◆ 高等学校チームの章 ◆◆◆

太陽能車考古学研究所トップ


Copyright Satoshi Maeda@Solar Car Archaeolgy Research Institute
太陽能車考古学研究所 2006.01.01