三文楽士の休日

Phaethon2004

ギリシャ・ソーラーカーラリー道中記

 

 

 




*** 雨に見送られて ***




 

2004年 5月 20日 木曜日 00:25

 二日早く出発した先発隊(平澤夫妻、太田、森口)から無事到着したと連絡が入る。向こうは夕方の06:25である。エミレーツ航空の機内は相当寒いらしい。少々大げさかな?と思いながらも、冬物のジャンバーと使い捨てカイロを持ち込むことにする。アテネ近郊、なんと今回のイベントのベースキャンプになる旧国際空港の近くで爆弾騒ぎあったと、日本では大きく報じられた。少し不安。 

不安を煽るように 台風2号による雨と風が強くなる。 飛行機は大丈夫そうだが、風が強くなると空港への連絡橋が渡れなくなる可能性あり、なるべく早く空港に行くようにとの連絡が旅行会社から入る。

 07:30 朝、いつものように家を出て自動車で職場に向かう。

17:30 仕事を終え、駐車場の車で着替え、荷物を抱えて、バスに乗る。雨脚は次第に強くなり、風もきつい。 

21:20 関空着。外は土砂降り。後発隊は 下村監督一家4人、高橋一家3人に竹原、と私(前田)。 23:30(日本時間) 関空発 エミレーツ航空EK317便 予定通り離陸。


 




2004年 5月 21日 金曜日 03:00(ここからギリシャ夏時間)

  水平線がオレンジに染まる。時計の上では4時間弱しか過ぎていないが、6時間の時差があるので、関空を発ってから実際には10時間近くが過ぎている。機内は「ペンギンが住める」と予告されたとおり、本当に寒い。気が高ぶっているためか、ほとんど眠れなかった。

海岸線が明かりで見えてきた。ドバイはUAE:アラブ首長国連邦、アラビア半島を太めの長靴にたとえると、その爪先にあたるところにある。海岸線は油田なのか?幾何学的に光の点が並ぶ。少しずつ明るくなった頃、ぼんやりと地上が見えてくる。おそらく何も生えていないのだろう。

 

 ドバイ空港に予定通り到着。周囲はすでに明るく、着陸直前にドバイの街が見える。かなりの大都会。10時間超座りっぱなしのフライトは疲れる。肩はバリバリにこっている。乗り物に弱い人は飛行機酔いでしんどそう。

 

  中継点なので 空港の外に出ることはできない。ドバイの免税ショップ街は、世界屈指の規模とのこと。目がくらむような金細工のネックレスやジュエリー類が名物だが、ショウウインドウを見ても、個々には値段は表示されておらす、目方あたりの値段だけが示されている。量り売りのようである。値段の見当すらつかない。


ドバイのパームアイランド

 

 3時間の待ち時間をへて いよいよアテネ行きの飛行機EK105便に乗り込む。ドバイ時間08:35発の予定が実際には09:00頃にまで遅れた ギリシャ夏時間で朝の8時である。機は 長靴の爪先を出て、ペルシャ湾を横切り、クエートをかすめ、イラク/サウジアラビアの国境沿いにアラビア半島を横断する。アラビア半島のペルシャ湾側には 円形の農場(スプリンクラーで灌漑)が無数に見えたが、その後は、一面の砂漠、砂漠、砂漠。

 

  ヨルダンに近づくと、地上に表情が出てきた 枯れ川や、干上がった湖のような、ともかく水が流れた形跡が残っている。雲も少し出てきてその陰が地上に写っている。ただし、やはり緑はみえない。ヨルダンからシリアに入った。イスラエル上空は避けている様子。11:00頃、ようやく緑が見えた。山には雪が残る、と思ったら10分後には地中海上空。緑は西海岸側のほんのわずかなエリアにしか無い。大昔から土地を巡る争いが止まない理由が、少しわかったような気がした。

 

11:50  キプロスのLarnaca空港に着陸(そんなこと聞いてないよ)。7〜8割の人が降りてしまった。誰も乗ってこない。チケットがなかなか取れずに旅行社の方に苦労をおかけしたが、混んでいたのは この間だけだった。

 

12:40  離陸。トルコの南岸に沿うように飛ぶ。 島がたくさん見えるエーゲ海を渡って、あこがれのアテネへ。


キプロスのラナカ空港 機窓から見えるエーゲ海の島々




*** ギリシャの洗礼 ***




 

2004年 5月 21日 金曜日 14:00頃

  アテネ空港に着陸 荷物にトラブルもなく、入国審査はパスポート見るだけで会話なし。税関は、完全にフリーパス状態。こんなのでオリンピックのセキュリティは大丈夫なんだろうか?。14:30頃には空港から出てバスを探す。ここからは各自、大荷物を抱えているので大変。ホテルのある2ndグリファダまでバス代は2.9ユーロの均一料金、8歳以下の子供は無料。しかし、この選択は大失敗だった。バスは、我々含め観光客の大きな荷物ですし詰め、運転はかつての東京都営バスよりあらっぽく、アナウンスも行き先表示も、なんにもなし。せめてドアが完全に閉まってから発車しておくれ。バス停名はギリシャ文字で書かれていて短時間には読みとる事ができない。

 

 眠くてグロッキーな子供二人は、現地の女性がだっこしてくれたり、椅子からを落ちそうになるのをささえてくれたり。やさしい人たちだ。乗りあった人が あやしげな英語で、ここから四つ目だと教えてくれて、なんとか「次止まる」ボタンを押せた。満員で身動きが取れず、乗り口から降りたが、結局チケットはだれにも見せずじまい。アバウトな国である。道路は工事中だらけ、道路脇の建物も同様、作っているのだか壊しているのかわからない。オリンピックまでに全部の工事が終わるとはとうてい思えない。空気は恐ろしく乾燥していて、土埃がひどい。

 

 ホテルチェックインできたのは16:00頃。先発隊と合流し9人乗りの大型レンタカーで、今後のベースキャンプとなるソーラーカー格納庫と、サーキットレースコースがある旧国際空港跡へ。ホテルのすぐ裏手なのだが、なにせ空港跡、おそろしく広く、出入り口まではかなり遠回りをしなければならない。 日本で大きく報じられた爆弾騒ぎは、現地では全く問題になっておらず、先発隊も「なんのこと?そんなこと誰も云ってないよ」状態。オフィシャルに問い合わせても「心配するな」程度の回答しか帰ってこない理由がわかった。


旧国際空港跡の一角には解体を待つエンジンを外された大型飛行機が置かれている。

 

 サンレイク号を乗せたコンテナは無事到着しており、昨夜の間に、同じコンテナに積み込んだ東海翔洋ファルコンチームと協力して、すでに開包してコンテナから降ろしてくれてあった。心配していた荷崩れなどはナシ。すでに試走もすましたとのこと。 伴走車でサポートしながら、サーキットコースを再度試走。滑走路を利用したサーキットコースは毎日書き換えられて、まだ確定していないようだ。番組製作会社ダッシュさんが芦屋大を撮影中。レース用タイヤしか持ち込んでいないOSUチームは、わずか10周でパンクしたとのこと。丈夫なバイク用、それも世界一タフなスーパーカブ用タイヤを持ち込んだ我々は少しほくそ笑む。 他のチームもパンクがひどくて、タイヤを現地調達しに探し回っているらしい。 ブラジルチームは、トラック輸送中最後に止まる段になってトラックドライバーが急ハンドル、荷台で転げて壊れたとのこと。なんとも嘆かわしい。

 

ベースキャンプとなる旧国際空港跡の飛行機格納庫。 展示会などのイベントにも利用されている様子。

 

 今回の遠征には、たくさんの方から、ありがたいカンパを頂いた。せめてカンパを頂いた方のお名前とだけでも一緒にギリシャを走ろうと、飛行機の中で高橋が作製した名前入りテプラテープを車体に貼り付ける。

 

 日本で出発準備をしている最中から、取材を受けていた番組製作会社ダッシュさんから、車体に前方とドライバーの表情を写すTVカメラを取り付けたいとのリクエスト。前方用のカメラはキャノピーの角を刳り抜いて、ドライバー用のカメラはサイドミラーの陰に取り付けることにする。タイヤの平行度のチェックなど、細かい調整も同時平行して実施。ふと時計を見ると、夏時間にだまされていることに気が付いた。もう20時なのにまだ十分明るい。ホテルで21時から歓迎のレセプション。大急ぎで作業を終え、ホテルに戻る。

 

旧国際空港跡を利用したサーキットコースを試走するサンレイク号
通常はトルク優先で最高速は抑えてあるが、今回の特設サーキットは
直線が長いため、トルクを抑え、最高速時速120kmに調整。

 




2004年 5月 21日 金曜日 21:00   歓迎のレセプション

 時間になり 会場のドアは開いたが 特に開会のアナウンスや乾杯があるでもなく 会は自然に立食パーティ状態に。途中で主催者の挨拶と事務局メンバーの紹介があったが、マイクを使うでもなくBGMもかかったまま。明日の車検と展示についての説明は、口頭でも文書でも全くない。他のチームやオフィシャル(助監督)のパパゲリョー氏を捕まえて翌日の段取りを聞く。車検はアテネ中心の展示場ザピオンまでソーラーカーを運んで行うとのこと。車検と走行テストがあるなら、メンテナンスや手直しのための機材も一式持って行かなければならない。ギリシャは口コミ文化。情報は自ら取りに行かねば得ることはできないようだ。明日は家族移動用のレンタカーも借りに行かねばならず、かなり忙しい。パーティを抜け出し、ネット接続を試みるがうまく接続できない。24時頃、長旅の疲れにワインの酔いが重なってバタンと寝る。

 

 

 





*** その男 ゾルバ ***

 




Parthenon from Zappion

 

2004年 5月 22日 土曜日 車検と展示

 車検と展示は 車両保管場所ではなく、アテネ市内の中心部ザピオンで行われた。朝08:00、ソーラーカーのトランポへの積みこみ。第二サポートカーとなる家族用のレンタカーも借りなければならないので、二手に分かれる。トランポへの積みこみは、マレーシヤでのソーラーカーレース経験がある日本勢が早い。マレーシヤにてトランポの運転手と仲良くなった実績を買われ、私がトランポの助手席に乗り込む。やや丸顔の渋い顔の第一のゾルバ氏は、ある程度、英語が通じ、ソーラーカーは壊れやすいのでソフトに走ってくれ、というリクエストに応じ、道の凸凹にもそれなりに気を遣って走ってくれた。


トランポへの積みこみ作業。まずシャーシをしっかり荷台に固定してからボディを被せる。

 

 09:30頃ザピオン着。向かいの丘には大きな神殿が見える。そう、アクロポリスのパルテノン神殿だ。ようやくギリシャに来ているという実感が湧いてくる。ソーラーカーを降ろしたものの、待てど暮らせど何もアナウンスも指示もない。気が付かぬうちに、建物の陰、僕たちからは見えない場所で車検が始まっている。慌てて並んで2番目。試験官は少々頼りなく、手際もよろしくない。ギリシャで初めてのソーラーカーイベントなので、ある程度はしかたがない。車検とは云っても、ドリームカップ鈴鹿の車検とはずいぶん勝手が違う。検査というより健康診断?に近い。


車検に向かう。 左手の建物がザピオン。


 チェックは、車重、太陽電池パネル面積、車長と車幅、高さくらいのもの。計ったからと云って別段、だから、どうだ、という訳ではない。ドライバーの体重測定は日本で計っていったより2kg程軽く出るようで、他のチームも+2kgの追加ウエイトを探している。エミレーツ航空ではろくに動けない上に機内食責めだったので、多少増えているのでは?との予想だったのだが。ともあれ、サンレイクの車検は13:00頃に終了。我々が最も気にしていたウインカーの幅(空力重視で後尾部を絞っている形だと、規定幅を満たすにはボディの真横に付けなくてはならなくなる=後ろから見えずウインカーの意味をなさない)は、なんのお咎めもなし。



 午後はずらり並んだ他のチームの車検の様子を見る。16時までの予定の車検はとても終わりそうにない。観光モードに切り替わった我々は 歩いて5分ほどのゼウス神殿跡とスタジアムを見学。ゼウス神殿から見上げるアクロポリスのパルテノン神殿は圧巻。


ズラリと並んだ車検待ちの列 ゼウス神殿跡からパルテノン神殿を望む

ザピオンは100年以上前に立てられた会議場。中庭や壁、天井の装飾が美しい。内部は改装中なのか?奥の方は工事中みたいで入れない。周りは緑化された公園になっており、さしずめ明治神宮みたいなものか。あまりに退屈なのでカリンバを取り出してポロンポロン弾く。調子に乗ってオフィシャルの詰め所があるザピオンの玄関口で即席コンサート。最初は怪訝そうだったオフィシャルさんたちも最後は拍手。「これは日本の伝統楽器か?」 「いえいえ アフリカです。」 ギリシャの伝統楽器ブズーキが欲しければプラカに行けとの情報をget。

18:30頃からようやく走行テスト。フルスロットル加速して、フルブレーキで止まれと、と指示されるが、最高速がどれだけ以上とか、何mで止まれとかという規準があるわけでもない。エキビジョン的な様子。スラロームも同様。他のチームがソロソロとゆっくり慎重にカーブを切る中、平澤は、NGMモーター独特のうなり音を響かせ、ジムカーナ競技のようにスラロームを高速ですり抜け、注目を集めていた。


ザピオンからのゼウス神殿跡の眺め 走行テストに向かう。後ろは南台湾大のアポロ

 帰りは同様にトランポでの輸送、ピストン輸送の第二陣に入ってしまうと、何時にグリファダの格納庫に帰れるかわからないので我々の前に止まったトランポをつかまえる。運転手の第二のゾルバ氏は川谷拓三似。英語は一方通行で、ほとんど通じない。

 観光客相手の仕事をしている人以外は、基本的に英語は苦手な様子。特に年配の人には、まず通じない。ソーラーカーを運搬してくれるのはELPA(ギリシャ自動車連盟、日本のJAFに相当)の車両運搬専門のトラックである。残念ながら運転手のおじさん達とは身振り手振りでの意思疎通がやっと。名前も聞けないので、失礼ながらギリシャ男性の代名詞? 「ゾルバ」 と呼ばせていただくことにした。

思い起こせば、前日、下車するバス停を教えてくれた英語が話せる現地の人が、たまたまバスに乗り合わせていたのは結構ラッキーな出来事だったのかもしれない

 

 

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