ところで、世界有数の産油国であり、エネルギーには全く困っていないはずのUAEが、なぜソーラーカーなのだろう?
背景には、石油枯渇後の国の将来を悩むアブダビ君主の深い憂いがある。まずは、アブダビとアラブ首長国連邦について知らねばならない。
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アラブ首長国連邦 UAE:United Arab Emirates
UAE:アラブ首長国連邦はアラビア半島の東側、ペルシャ湾に面した連邦国家である。名称から推察できるように7つ首長国のゆるやかな連合体である。主権は各首長国が持っており、石油収入も連邦ではなくまず各首長国に入る。UAEの中での知名度としてはドバイ首長国が有名だが、最も面積、人口、収入が大きいのがアブダビ首長国であり、アブダビ首長国の首都「アブダビ市」が連邦全体の首都でもある。経済的には貿易+観光立国に成功したドバイ以外はアブダビが支えている形である。政治的には絶対君主制、すなわち首長(王様)が直接全てを統治する独裁国家体制だ。
歴史
<黎明期〜中世>
地域の歴史は古く、紀元前2500年頃(日本の縄文時代後期)には、既に国家が成立していたことがメソポタミア時代に記録されている。アラビア半島の内陸部は乾燥地帯であるため、産業は遊牧か海岸沿いの漁業、農産物はナツメヤシくらいしかない。歴史的にはサラセン帝国やオスマン帝国の干渉や支配を受けつつ、同時にアラブの部族間の縄張り争いが近代まで続いていた。
<近世>
16世紀、日本では戦国時代。欧州とアジアの間には巨大なオスマントルコ帝国が存在した。そのため欧州各国は陸路でインドや東アジアに直接アクセスすることができず、海上航路を開発せざるを得なかった。これが大航海時代である。スエズ運河はまだ無いので、欧州各国はアフリカをぐるっと迂回し、中東湾岸を伝ってペルシャ、インド、さらに東アジアへと往来していたわけである。
アラブ商人とインド商人が担っていた当時のペルシャ湾岸の貿易秩序の中に欧州勢が次第に割り込んでいった。最初はポルトガル、続いてフランス、オランダ、英国である。欧州勢どうしの足の引っ張り合いで最後に残ったのがイギリス(東インド会社)であった。18世紀になると英国は、元々この地域の交易を担っていたアラブ商人達から貿易に関する権益を奪おうとしだした。アラブ商人達の中で最も大きな海上勢力は、現UAE地域のラス・アル・ハイマを治めていたカワーシム一族であった。英国はこの地に「海賊海岸」なる失礼な名前を付け、彼らをアラブ海賊と呼んだが、アラブ商人側は既得権益を守ろうとしただけである。一方でアラブ人達は、部族間での勢力争いや、オスマントルコ、ペルシャからの圧力にも対処しなければならなかったので一部の首長らは英国と組もうとした。ここに、英国に付け入れられる隙ができてしまったのだ。
ウォルト・ディズニー社制作の海賊映画は、もちろん荒唐無稽なフィクションだが、時代背景的にはこの頃のイメージだ。映画で東インド会社は悪者として描かれているが、根拠が無かった訳では無かったのだ。19世紀初頭、英国は湾岸地域の支配権を獲得するために得意の謀略を使った。現地の人たちの間で内戦を起こさせて、弱まったところで全体を支配してしまうという、当時欧州が植民地を拡大するためによく使ったやり方である。新大陸で先住民を追いやったり、後に東アジア地域で日本と露西亜を争わせた(日露戦争)のも、同じ構図である。東南アジアではオランダやフランスが似たような事をしている。
英国はアラビア半島のインド洋側に面した地域を支配していたオマーンに肩入れし、カワーシム一族の海上勢力と争わせた。ホルムズ海峡を挟んでペルシャ湾岸側とインド洋側の構図である。カワーシム一族側も激しく対抗し、一時は英国旗艦「ミネルヴァ」を拿捕してしまう程の抵抗を見せたが、最終的には勢力を増した英国艦隊に制圧されてしまった。英国側が書き残した歴史では「海賊退治」であるが、湾岸諸国側から見れば海賊退治を口実にされた侵略と既得権益の略奪に他ならない。地域の名前はトルーシャル(休戦)海岸になった。
ちなみに、「ミネルヴァ」は英国海軍旗艦の伝統的な名称で、この時のミネルヴァは4代目である。ミネルヴァは英国が奪い返して自ら焼却するのであるが、英国海軍のHPには、単に 「1805年10月26日に進水、1815年02月に破壊」とだけ記され、敵に拿捕されたという不名誉な記述は無い。日本は江戸時代の中期〜後期。伊能忠敬が蝦夷地を測量(1800年)、間宮林蔵の樺太探検(1808年)など、幕府が北方の露西亜を意識しだした頃に重なる。黒船来航(1853年)は、もう少し後だ。
<英国統治時代>
この地域の支配権を確立した英国は、さらに支配地域を拡大し、19世紀の終わりまでには当地域の全ての首長国が英国の保護下に入ることになった。「外国との交渉は英国が引き受けるから、内政は自分たちで上手いことやってくれ」というのが「保護」だ。日本では幕末、明治維新を経て、日清戦争前後の頃である。以後、現UAE地域では、1971年まで英国統治が継続することになる。英国は天然の港であったドバイを東インド会社の中継地と位置づけた。これが今日の貿易都市ドバイのルーツになった。
ペルシャ湾の奥、クウェートで石油が発見されたのは第一次大戦の頃であった。一体を支配していたオスマントルコはドイツ側であり、この大戦の負け組になってしまった。勝ち組の英国はフランスと密約を交わして旧オスマントルコ領の石油が出そうなところを分割して乗っ取り、結果、ペルシャ湾岸は、ほぼ英国の支配下に入ることになった。ただし、現UAE地区での石油発見は1960年前後であるため、当地区に石油の恩恵が及ぶのはまだ先である。
英国統治時代、この地の経済を担っていたのは中継貿易と天然真珠であった。ところが、スエズ運河の運用開始(1869年完成)により、ペルシャ湾側の地元の海運業は衰退、昭和に入ると御木本幸吉の養殖真珠によって天然真珠の採取業が大打撃を受けた。僕が育った土地の基幹産業が、遠くアラブの国の経済を脅かせていたのである。さらに第二次世界大戦前の世界不況が重なり、当地はかなりの経済苦境に陥った。
<石油発見、独立と著しい経済発展>
1939年、欧州で第二次世界大戦が始まった年、アブダビは大借金をして石油の試掘を開始するという大博打に出た。ちなみに、クウェート油田は1931年、サウジアラビアで油田が発見されたのは1938年だ。触発されたのは間違いない。しかし、アブダビで石油が発見されたのは試掘開始から19年後の1958年であった。次いで1966年、ドバイ沖海底油田が発見された。国土が小さいドバイの首長は、石油発見前から借金をしてドバイ港の浚渫整備を行って貿易立国を目指していた。そこを、先に石油を掘り当てたアブダビ首長が支援したのである。
1971年、英国の脱植民地政策に伴い、6首長国(翌年に7首長国)連邦を結成して英国から独立しアラブ首長国連邦が誕生した。独立前後から紆余曲折(英国は、カタール、バーレーンも加えて独立させるつもりだった)はあったが、アブダビ、ドバイの両首長が中心となって、石油から得られる富を元手に石油枯渇後を見据えた経済開発を進めた結果が現在の眩しいばかりのUAEの姿である。独立以来UAEの大統領はアブダビ首長が、首相(副大統領を兼務)はドバイ首長が担うことが慣例化している。ちなみに、冒頭の日航機ハイジャック事件で、犯人達と交渉したのは、当時ドバイ国防大臣であった現ムハンマド首長(UAE副大統領兼首相)である。
UAEの社会
独裁国家という響きにあまり良い印象は持っていないが、それは日本のご近所の某国家のイメージが強すぎるからだ。UAE為政者の先を見通した揺るがない政治姿勢は、是非ともどこぞの国の為政者にも見習って欲しいところである。UAEの最大の貿易相手国は、他ならぬ日本なのだから。
しかし、
50年前には椰子の葉で葺いた屋根の下で細々と暮らしていた人たちが、今は高層ビルが建ち並ぶ超近代都市で生活しているという、歴史上他に例のないスピードでの経済成長を経た社会に、なんらかの歪みが生じていない訳は無いだろう。
日本は国民の労働とその結果である税金によって国家運営されているわけだが、UAEの国家経済は首長家が利権を握る石油の富によって成り立っている。UAE独立後の経済発展と生活の向上は、首長を中心とする政府の運営がもたらしたものと国民が納得しているからか民主化を求める声はほとんど無いらしい。しかも、UAE全住民に占めるUAE国籍を持つ人の割合は13%に過ぎず、他のほとんどは近隣諸国からの出稼ぎ労働者である。UAE国籍を有する13%の人たちは揺り籠からお墓まで、政府の手厚い保護を受けて生活していると聞く。実働は全人口の87%を締める出稼ぎ外国人が担っているので、労働意欲が湧くわけはなかろう。あくせくと自国内で競争しなくとも、何も困らないのである。
常に紛争の中にあるようなイメージの、他のアラブ地域の国々とは、まるで様相が異なっている。
争いの元凶は、いつの世も、富の格差が作る貧困にある。
紛争が無いのは大変結構なことだが、競争が無い、というのは手放しで喜べる状態とは云えないだろう。石油が枯渇した将来、戦国時代のような世界経済の中に資源を失った彼らが放り込まれたとしたら、彼らは何を頼りに、どうやって競い合って生きていくのだろうか。
UAEの為政者は石油に代わる産業を、石油がある間に立ち上げようとしている。新たな産業を興こすことは可能だろう。しかし、その時に国民が世界の中で競い合う姿勢を失ってしまっていては国を支えることはできない。
すべては僕の想像に過ぎないが、この国の将来を憂いている君主一族の持つ一番深い悩みは、ここにあるのではないだろうか、と思うのだ。
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WFES:World Future Energy Summit
ADSCの全体像が次第に明らかになってくるにつれ、このソーラーカーレースが WFES(World Future Energy Summit)というイベント:世界最大級の代替エネルギー・環境に関する国際会議と展示会、のプレイベント的な扱いになっていることが解ってきた。
レースは、WSC式のように各チームがそれぞれのペースでゴール目指してひたすら走り続ける方式では無く、ASCやPhaethonのように、毎日、各チームとも同じ場所からスタートし、同じゴールまでを走行し、所要時間の積算で競うラリー方式だ。車検が3日間、予選が1日、オンロードの本戦が4日間というスケジュールだが、最終日は午前中で切り上げられ、午後に開催されるWFESの開会式に向けて、ソーラーカーパレードが行われるという演出である。*)
*)注 当初のスケジュール案
遡ってWFESに関する資料を掘り起こしてみると、UAE政府がソーラーカーを含む電気自動車に強い興味を示している事を読み取ることができる。
繰り返しになるが、WFESはアブダビのマスダール社が主催する世界最大の、代替エネルギー・環境関連の国際会議と展示会で、毎年1月にアブダビにて開催されている。
アブダビ政府が石油資源の枯渇に備えて進めている持続可能な社会の構築を目指す経済開発プログラムが「マスダール計画 Masdar Initiative」である。現在、そのほとんどを石油に依存している国家の存続を賭けた壮大な計画だ。
そのプログラムの実行主体としてアブダビ政府が2006年に$220億を出資して設立したのがアブダビ・フューチャー・エナジー社、通称マスダール社である。マスダール(Masdar)はアラビア語で「源」を意味している。
マスダール社が−世界中からエコ技術を集めて−建設を進めているマスダール・シティは、その具体的なアウトプットの一つであり、世界中からエコ技術をかき集めるために開催しているイベントがWFESである。
ドバイの夜景、2004年5月撮影
WFESとソーラーカー、電気自動車に関する話題をピックアップして整理してみると以下の様になる。
2008年(第1回)
WFESの第1回は2008年01月21日〜1月23日に開催された。出展者は 23ヵ国、214社(うち日本からは7社、2団体)。この時に慶応義塾大学が高速電気自動車「エリーカ」を展示している。
慶應義塾大学「Eliica」 2011年12月07日 東京モーターショー2011(於東京ビッグサイト)にて撮影
2009年(第2回)
出店社は359社(うち日本企業・団体は23社に増えた)
2010年(第3回)
リーマンショック(2008年09月)の影響が出たのか、web上に残された記録が心なし少ないが、全体として出店社は600社に達し、世界最大規模となった。
2011年(第4回)
前年からマスダール・シティにて運用されている Personal Rapid Transit(運転手無しで動く4人乗りの電気自動車)が披露された。またこの年に三菱自動車のEV「i-MiEV」がマスダール・シティに導入された。
2012年(第5回)
日本ブースに東海大学が2009年型ソーラーカー「Tokai Challenger」を出展。
なお東海大学は前年春にサウジアラビアのリヤドにてソーラーカーの展示、デモ走行を実施している。
2013年(第6回)
ソーラーカーの教育効果に関するパネルディカッションが開催され、パネラーとしてISF会長のハンス・ソルストラップ氏、ASC運営責任者のダン・エベレー氏、他、スペイン、米国のソーラー関係者が登壇した。
この年の4月にアブダビの石油資源大学(PI:Petroleum Institute、アブダビ国営石油開発公社の人材育成部門)にてソーラーカー開発プロジェクト計画段階が開始され、8月には教員と学生による開発チームが結成されている。
2014年(第7回)
東海大学がJPDCO:ジャパン石油開発株式会社ブースに東海大ソーラーカーを展示し、会期終了後にPIとMasdar Cityにて展示とデモ走行を実施した。
02月15日 PIと東海大がソーラーカーの共同開発に関する協定を締結。
02月25日 アブダビの皇太子殿下が東海大を訪問
PI/東海大との共同開発契約書への調印
エティハド航空と東海大学ソーラーカーチームとのスポンサー契約合意。
03月28日〜04月04日 PIの教員、学生8名が東海大に滞在、共同製作の準備開始。
まず、目に付くのは東海大学と地元のPI:石油資源大学との深い結びつきだ。東海大学チームが別格であるのは間違いない、PIのプロジェクトチームは2ヶ月日本に滞在し、東海大学を拠点にして実習しつつ、国内各地の有力大学チーム等を訪問して情報収集を続けていた。PI開発のソーラーカーのボディも、旧東海チャレンジャー(3輪タイプ)とほぼ同じ設計で、東レカーボンマジック(旧童夢)で成形され、東海大学で細部をトリミングした後にUAEに送付されている。PI現地での車両組み立てについても、常時東海大学の学生チームが現地に滞在して手伝っている。
しかし、注目すべきは2013年に行われたパネルディスカッションだ。壇上にはソーラーカー業界の世界的な重鎮に加えて、地元UAEの教育担当者らが居並んだ。
Mr. Hans Tholstrup President/International Solarcar Federation Australia Mr. Dan Eberle Formaer Director/North American Solar Challenge
Innovators Educational FoundationUSA Dr. Jose Manuel Paez Borrallo Vice-rector of International Relations Spain Dr. Sergio Vega Sanchez Project Manager of Solar Decathlon Europe
Universidad Politecnica de MadridSpain Ms. Clare Woodcraft Chief Executive Officer/
Emirates Foundation for Youth DevelopmentUAE Dr. Sami Ainane Dean, Student Affairs/The Petroleum Institute UAE Dr. Nabih E. Bedewi Managing Director/
Global Education Energy EnvironmentUSA
出展:http://globaleee.org/files/ADIREC_2013_Education_Session2.pdf
WSCの創始者であるハンス氏を知らない人はソーラーカー業界にはいない。ダン氏は米国の超老舗ソーラーカーチーム、クラウダーカレッジの出身、NASCの運営責任者を務め、現在もIEF(Innovators Educational Foundation)役員としてASCの運営に深く関わっており、さらに今回のADSCの競技長でもある。スペインのサンチェス氏は「Solar Decathlon Europe 欧州ソーラー十種競技(各チームが建てたソーラーハウスを10項目別に審査して総合得点を競う)」のプロジェクトマネージャー、米国のナビ氏は、ASCなどの省エネ競技を支援をしている団体の代表者だ。この内、ハンス氏、ダン氏、ナビ氏の3名はISF(International Solarcar Federation)メンバーである。
彼らは壇上でソーラーカーの教育効果を高らかに歌い上げただろう。
# 実際、アブダビに対してソーラーカーレース開催を強く推薦したのはGrobalEEEのナビ氏であった。
ソーラーカー作りとレース参戦は、物作りと競争の両方を同時に体験できる最高の組み合わせの一つである。それはソーラーカーに係わったことがある人には自明の真理だ。
大会のパトロンであり、この国の明日を背負わなければならないアブダビの皇太子殿下にも、そのメッセージは強く伝わっただろう。石油エネルギーに依存せずにスタンドアロンで走り続けることが出来るソーラーカーは、石油枯渇後も別の糧を得て力強く歩んでいく将来の自分の国の姿に重なったに違いないのだ。
ソーラーカーの持つ崇高な精神性を、最も強く感じている国がアブダビ、僕にはそう思えるのだ。
参考資料
・「イスラーム世界の二千年―文明の十字路 中東全史」, Bernard Lewis (原著), 白須 英子 (翻訳) , 草思社, 2001/7
・「アラブ海賊」という神話, Sheikh Dr. Sultan bin Muhammad Al Qasimi (原著), 町野 武 (翻訳) , リブロポート, 1992/5
・一般財団法人 中東協力センター JCCMEライブラリー
http://www.jccme.or.jp/japanese/index.html
http://www.jccme.or.jp/japanese/11/pdf/11-01/11-01-40.pdf 他
・フリー画像
http://free-photos.gatag.net/tag/%E3%83%89%E3%83%90%E3%82%A4
・フリー地図
http://d.hatena.ne.jp/freemap/20070302
・http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%96%E9%A6%96%E9%95%B7%E5%9B%BD%E9%80%A3%E9%82%A6
・http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/uae/data.html
・ガイドブック等
第1稿 2014.12.11.
予告編公開 2014.12.20.
追記修正 2014.12.26.
追記修正 2015.01.31.
改訂 2015.02.08.
Copyright Satoshi Maeda@Solar Car Archaeolgy Research Institute Copyright Satoshi Maeda@Team Sunlake
太陽能車考古学研究所
2006.01.01
The Place in the Sun