琵琶湖周航の歌
Circumnavigation on the Lake Biwa

「琵琶湖周航の歌」歌詞の変遷



現在の「最大公約数的」歌詞
歌詞の変遷 一覧
各論
 1番 われは湖の子 さすらいの
 2番 松は緑に 砂白き
 3番 波のまにまに 漂えば
 4番 瑠璃の花園 珊瑚の宮
 5番 矢の根は深く 埋もれて
 6番 西国十番長命寺


現在の「最大公約数的」歌詞

琵琶湖周航の歌  作詞 小口 太郎

1. われは湖の子  さすらいの
旅にしあれば  しみじみと
のぼる狭霧や  さざなみの
志賀の都よ   いざさらば
        2. 松は緑に    砂白き
雄松が里の   乙女子は
赤い椿の    森蔭に
はかない恋に  泣くとかや
    
3. 波のまにまに  漂えば
赤い泊火    なつかしみ
行方定めぬ   浪枕
今日は今津か  長浜か
    4. 瑠璃の花園   珊瑚の宮
古い伝えの   竹生島
仏の御手に   いだかれて
ねむれ乙女子  やすらけく
    
5. 矢の根は    深く埋もれて
夏草しげき   堀のあと
古城にひとり  佇めば
比良も伊吹も  夢のごと
    6. 西国十番    長命寺
汚れの現世   遠く去りて
黄金の波に   いざ漕がん
語れ我が友   熱き心


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歌詞の変遷 一覧

 まずこちらの歌詞変遷表をご覧いただきたい。

歌詞変遷表

 この表は手元にある書物、資料、歌集、歌詞カードなどに、加えて琵琶湖岸、諏訪湖畔にある歌碑、琵琶湖周航の歌記念館のパネルなどを年代順に並べて整理した物であるが、琵琶湖周航の歌の歌詞が、如何に統一されていないかが解る。流石に最近は歌詞の文句そのものが代わることは無くなったが、漢字の使い方は、いまだにバラバラである。

 小口太郎の直筆歌詞は残されておらず、大正6年6月28日、今津の宿で、歌詞が何処まで出来上がっていたのかについても、確かなところは解っていない。大正期の歌詞がオリジナルに近いはずであるが、関係者の記憶に頼る部分が多く少々心許ない。

 三高歌集を辿ると、大きな改訂が大正末期〜昭和初期に行われたことがわかる。この改訂は、当時歌集の編集権を握っていた文芸部によるものであろう。三高歌集上では「改訂版」として昭和二年版に掲載されたものであり、今日、私たちが歌っている歌詞は、基本的には、この改訂版を現代仮名使いに改めたものである。(筆者は昭和二年版の実物を見たことはないが、昭和三年版に掲載された「改訂琵琶湖周航の歌」については原典を確認している。)

 改訂版前後の大きな変更点は
   旧歌詞      改訂(現)歌詞
1番 われは水の子 → われは湖の子
   けむる狭霧や → のぼる狭霧や
2番 小松の里の  → 雄松が里の
   少女子    → 乙女、ないし乙女子
   暗い椿の   → 赤い椿の
4番 眠れよ乙女  → 眠れ乙女子
6番 白金 ないし 白銀の波を → 黄金の波を
   白い銀波を   
である。この改訂は、水上部員には気に入らなかったようで、部内では再改訂して元に戻されたりしたようである。改訂版が出た昭和2年時点で、この歌は既に全国的にかなり広まっており、出版社が集まる東京に伝わった旧歌詞が、昭和になってから「歌集」などに転載・出版されため、新旧歌詞がかなりの長い間、混同することになった。

 その上さらには、戦後の混乱期に発行された三高歌集昭和22年版が、6番の歌詞の「語れ我が友」を、「語れ乙女子」と誤り、それが、別の歌集に転載されたりして、混乱がなお続くことになった。

 比較的最近では、三高歌集の改訂歌詞の仮名遣いと漢字を、当用漢字と現代仮名遣いに改めたものが最大公約数的な位置づけになってきているが、新旧漢字の使い方はまちまちで、さらに元が仮名だったところが漢字になっていたりして、結局、未だに決定稿と云うべき物が無い。



白髭神社の湖中大鳥居 大正時代には無かったので琵琶湖周航の歌には登場しない。
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琵琶湖周航の歌の歌碑

 昭和48年に周航80周年として、三高時代から伝わる三保ヶ崎の艇庫(現在は京都大学神陵ヨット倶楽部が管理)横に琵琶湖周航の歌の歌碑が建立された。以後、歌詞に詠まれた縁の地に歌碑が建立されていった。また作詞者小口太郎の出身地である長野県岡谷市にも江崎玲於奈氏の筆による全歌詞の歌碑が建てられている。

建立年月 場所・内容
昭和48年(1973年)5月 大津市三保ヶ崎の艇庫横に
 主碑「われは湖の子」と全歌詞の副碑
昭和60年(1985年)6月 今津港の航路灯(赤い泊火)軸に3番歌詞
昭和62年(1987年)5月 竹生島に4番歌詞
昭和63年(1988年)10月 長野県岡谷市湊 諏訪湖畔釜口水門河川公園に
 小口太郎銅像と全歌詞碑
平成元年(1989年)3月 近江舞子湖岸(雄松ヶ崎の近く)に2番の歌詞
平成6年(1994年)3月 再び今津港に全歌詞の碑
平成10年(1998年)4月 長命寺港に主碑6番の歌詞と全歌詞の副碑
平成17年(2005年)10月 彦根港に主碑5番の歌詞と全歌詞の副碑
設置年不明 琵琶湖周航の歌資料館から今津港に
 続く歩道の6基の街路灯に1番〜6番の歌詞

 いずれも、それぞれの場で活躍しておられる第三高等学校、京都大学の卒業生が中心になって順次、歌碑が建立されていった。それぞれの碑の歌詞は、三高OBや、縁の深い、錚々たる方々の筆によるのであるが、これまた綴り方がバラバラなのである。旧字体や送りがなを現代仮名遣いに改めるという要素が大きいが、同じ筆の中でも統一されていない場合もある。

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各論

 以下、琵琶湖周航の歌1番〜6番までの歌碑が設置された縁の地を巡りつつ歌詞変遷過程と、歌詞の解釈をめぐる議論を紹介する。




滋賀県大津市三保ヶ崎 琵琶湖周航の歌の歌碑

1番   われは(ウミ)の子 さすらひの
旅にしあれば しみじみと
昇る狭霧や さざなみの
滋賀の都よ いざさらば

われは

 印象的な冒頭部分、歌詞にも旋律的にも琵琶湖周航の歌のエッセンスが最も詰まったカ所であろうと思うのだが、まずここがバラバラである。出だしからして、われは、吾は、吾れは、我は、の4通りの書き方が存在する。

論語では、
 「吾」は自分自身が自分指して使う呼称。
 「我」は話者の相手の人のことを他人が言うときの呼称。
と使い分けられているらしい。漢文素養が全くない筆者が説くには難易度が高すぎるが、『荀子』脩身篇を例にすると
非我而當者吾師也  我を非として当(むか)う者は吾が師なり
是我而当者吾友也我を是として当る者は吾が友なり
諂諛我者吾賊也我に諂諛(てんゆ)する者は吾が賊なり
少々取っつきにくいので、もう少しファミリアな坂本龍馬の言葉
我が成すことは吾のみぞ知る。
で、いかがであろうか?。ここからすると、琵琶湖周航の歌の出だしを漢字で書くとすれば「吾は」だろう。

 ここでの主語は一人称単数である。二番には乙女子が登場するが「泣くとかや」と伝聞である。三番も(一人)波のまにまに漂う雰囲気である。四番の乙女子は仏の御手に抱かれているので、この世の人ではなく伝説である。五番で古城に佇むのも一人である。しかし最後の六番では「熱く語る我が友」が登場し、周航が友と共に完結することが示されるのである。



滋賀県大津市三保ヶ崎 琵琶湖周航の歌の歌碑

湖の子

 初期の歌詞では、なんと「水の子」であった。ルビ付きでは「みづのこ」である。しばらくすると「水」に(ウミ)というルビが振られた歌詞が登場するが、これは後付だろうと堀準一氏は推定している。ここを「湖」と書き、(うみ)と読ませたところは「改訂」で最も高く評価出来る所である。

 琵琶湖周航の歌の歌詞の変遷については、幾人もの方が言及しており、旧歌詞に戻すべきだという論調も見られるが、こと、この部分については、あまり踏み込んだ論述が見られない。ほぼ万人が、現在普及している「われは湖(うみ)の子」の方を支持しているという事かと思う。「みづのこ」は水子供養を連想して、あまりしっくりしない。



学習船「うみのこ」  滋賀県立びわ湖フローティングスクール:滋賀県在住の全ての
小学5年生は、この「うみのこ」に乗船・航海し、宿泊をともなう琵琶湖教育を受ける。

 近江(おうみ)は、元々は淡海(あはうみ、あふみ)であった。よって湖国滋賀県民は「湖」を(うみ)と読むことにあまり抵抗感を感じないようだ。当方、既に人生の半分以上の期間を滋賀で過ごしているが、元々は海辺の育ちなので、唱歌「我は海の子白波の〜」の方がなじみが深い。私にとって「うみ」は太平洋である。滋賀県に移り住むずっと前から「琵琶湖周航の歌」は知っており、好きな曲の一つでもあったが、滋賀で暮らすようになるまでは「われは湖(うみ)のこさすらいの〜」という歌詞に、多少の違和感を感じていた。しかし実際に琵琶湖の広さを目の当たりにすると、まさしく琵琶湖は「うみ」であった。知人の愛媛出身者は、琵琶湖を初めて見たときに「これが湖? 瀬戸内海と同じだ。」と感嘆の声をあげた。琵琶湖は670.3平方km、周囲長(計り方によりまちまちだが)240kmである。細長い琵琶湖を長径方向に見ると向こう岸は霞んで見えないことが多い。あたかも水平線を見ている様な感覚に陥るのである。

 小口太郎は諏訪湖畔で育ち、さらに琵琶湖畔で勉学と身体鍛錬を積む自分を指して、意図としては「われはミズウミの子」と想った訳であるが、七五調に収めるために4音の「ミズウミ」から2音を選ぶ必要にかられ、彼は「ミズ」の方を採ったのであった。



琵琶湖観光船 「ビアンカ」

さすらいの

 加藤登紀子女史は「放浪の」を使い、そのコピーであるケイ・松本版も同様である。三高歌集では手書きのガリ版刷りで発行された昭和22年版だけ「放浪の」を使っているが、他は皆ひらがなで「さすらひの/さすらいの」と新旧仮名遣いだけの違いとなっている。



琵琶湖観光外輪船 「ミシガン」

旅にしあれば しみじみと

 この一節は全く動かない。

 近江歴史回廊倶楽部の小林氏は、歴史コラム「琵琶湖周航の歌」再考ー小口太郎のルーツを追ってー(小林)にて、この一節は当時最も人気があった少年雑誌に連載され、大正3年に単行本化された有水芳水の「芳水詩集」の序文から借用したと思われると述べている。
詩のこころ

 周航歌の世界は漂泊の旅であるといわれる。漕艇による湖上のさすらいを通じて琵琶湖の美しい風景に青春のロマンを滲ませた詩である。その詩風は姫路生まれの詩人、有本芳水の影響を強く受けていると私は思う。
 周航歌が誕生する3年前の大正3年(1914)に芳水は、それまで「日本少年」に投稿してきた詩を集めて「芳水詩集」を出版した。後に島崎藤村が絶賛したと伝えられるこの「芳水詩集」を太郎も愛誦したに相違ない。
 周航歌の「旅にしあればしみじみと」(第1節)は、芳水詩集の序文「・・旅にしあればしみじみと 赤き灯かげに泣かれぬる。されば人生は旅なり。・・」から借用したと思われる。

出展:近江歴史回廊倶楽部、歴史コラム「琵琶湖周航の歌」再考ー小口太郎のルーツを追ってー(小林)
http://ohmikairou.org/col20.html
 琵琶湖周航の歌の歌詞に有本芳水の影響があるのを最初に指摘したのは、元衆議院議員の後藤茂氏であった。後藤氏は、水研究家の相楽利満(本名:佐藤茂雄)氏への私信にてこの点を指摘しており、「琵琶湖周航の歌」の研究家でもある相楽氏は、その指摘に従って有本芳水の詩集の分析を進めたと述べている。*湖国と文化第70号 1995年1月1日発行)

後藤 茂 (1925年7月3日 - )兵庫県出身、拓殖大学商学部卒。1976年に社会党から立候補して初当選。以後衆議院議員を通算6期務めた。1995年に社会党を離党して民主の会を結成し、1996年に民主党に参加したが同年の総選挙で落選。(社)原子燃料政策研究会理事。(社)エネルギー・情報工学研究会議理事。(財)日本郵趣協会顧問。グローエネ後藤研究所所長。文芸誌『播火』特別同人。著書に「わが心の有本芳水」他。
 有本芳水(ありもとほうすい、本名は歓之助)は、明治19年(1886年)3月3日に兵庫県飾西郡津田村(現:姫路市)にて生まれた。岡山市の関西(カンゼイ)中学校を経て上京し早稲田大学を卒業後、明治42年(1909年)早稲田卒業後は実業之日本社に入社した。入社後は「婦人会」の記者を2年担当した後に「日本少年」の編集者となり少年向けの詩や小説を発表した。当時は書き手と編集者の分業が曖昧で、編集者に就任することは主な書き手になるに等しかったのである。

 芳水が「日本少年」担当になったのは明治44年(1911年)である。当時小口太郎14才で諏訪中学校の2年生であった。

 もともと有本家は造り酒屋や廻船業を営んでいたかなり裕福な家であったが、芳水が高等小学校の頃に父が死に、長兄が事業を継いだが失敗して家屋敷を手放し一家離散となった。芳水は母方の叔母の嫁ぎ先になる森安家に引き取られ、叔母に学費を出してもらって早稲田大学を卒業して出版社に就職した。もともと芳水は中学校在学中から詩作にはげみ同人雑誌に参加していた文学少年であった。若山牧水・北原白秋・三木露風などは、少年時代から親しんできた投稿仲間たちである。彼等が次々と文壇デビューする姿を横目に見つつ、これ以上叔母に経済的な迷惑をかけるわけにはおかない芳水は確実な収入が得られる宮仕えの道を選んだのである。芳水の少年時代の経験と境遇からくる陰りは「芳水詩集」にも投影されている。

 「芳水詩集」は1980年に復刻された。巻末には彼が30年以上の絶版期を経て復刻されることになった思いを書き残している。
 学生時代詩歌に心を寄せた私は、明治四十二年学校を出ると、直ちに実業之日本社に入社し当時雑誌界の覇者をもつて自他共にゆるした「婦人世界」の記者となったが、多忙な記者の身には、最早詩歌に親しむことはゆるされなかつた。二年ばかり経つて、「日本少年」の編集を増田社長から仰せつかると、私は詩歌に対する愛着心が断ち切れぬままに、詩を通して、少年たちの純情心を培かい、育んでみたいとの考から、七五調、五七調の詩形で、主として旅の哀愁と感傷を取り入れた詩を作り、川端竜子、竹久夢二の両氏に挿絵をかいて貰つて毎号欠かさず載せた。するとこれが少年達に大いに喜ばれた。やがてこの詩をまとめて「芳水詩集」と名づけ、大正三年三月実業之日本社から出版されると、もり上がるほどの歓迎をうけて、忽ちにして三百版近くも版を重ね、途中で紙型がが磨滅したので、やりかえたほどであった。
 芳水が「日本少年」を担当した約10年間は、彼が文学者として最も輝いていた時期と云われている。この後芳水は実業之日本社の看板雑誌「実業之日本」の主筆に転じ、少年文学からは距離を置いて行く。晩年は岡山に帰り、岡山の短大、大学の講師を経て、岡山商科大学名誉教授となった。昭和51年(1976年)1月21日に永眠。

 近江歴史回廊倶楽部の小林氏が引用したのは「芳水詩集」序文の最後の部分である。
旅にしあればしみじみと
赤き灯(ほ)かげに泣かれぬる。
されば人生は旅なり、ああわれは旅人なり、
さらばいつまでもかく歌ひつづけむ。
 ここにも登場する「赤き灯(ほ)」ないし「赤き灯(ともし)」は孤独な旅人の人恋しさを現す場面で詩集全般に何度も登場する。また「琵琶のみづうみ」という詩の中に「われは旅人 ひとりごよ」、「風のまにまに聞ゆるは」という下りがあり、詩集全般を通じて少女子(おとめご)も繁出するなど「琵琶湖周航の歌」と共通するモチーフが目立つ。

 年代的に小口太郎が少年雑誌「日本少年」を読んでいた可能性は高く、琵琶湖周航の歌が芳水詩集の影響を受けていても何らおかしくはない。



滋賀県大津市三保ヶ崎  琵琶湖周航の歌の歌碑 建碑の由来  拡大

けむる狭霧や/昇る狭霧や

 狭霧、さ霧の「さ」は接頭語である。古い歌詞では「けむる(煙る/烟る)や」だったのを、改訂版では「のぼる(昇る)狭霧や」になった。

 一番は明らかに周航の出発の際の情景を詠んでいるので、ここに出てくる狭霧は、これから向かう琵琶湖北方向に漂う霧を意味するのであろう。初夏の頃は霧というより靄(もや)か霞(かすみ)であるが、「もやる湖面やさざ波の」や「かすむ湖面やさざなみの」では意気があがらない。「昇る狭霧や」になると、初夏の俄雨の後等で湖岸の山々から霧が立ちのぼる様子が目に浮かぶ。こちらの方が動きがあって情景的だとは思う。ただし、俳句の世界では狭霧は秋の季語である。



滋賀県大津市三保ヶ崎  琵琶湖周航の歌 全歌詞の碑  拡大

滋賀の都/志賀の都

 三高歌集は、1970年代までは、頑なに「滋賀」を守っていたが、それ以外では「志賀」が定着している。三高OBの著名人の筆による歌碑に刻まれているのは、全て「志賀」の方である。

 「滋賀/志賀の都」を大津京と解する人もいる。大津京は、667年に天智天皇が飛鳥から大津に遷都し、672年の壬申の乱で滅びるまでの短期間、大津に置かれたという都であるが、まず、「大津京」という呼び名そのものが物議を醸しており、JR西大津駅が大津京駅に改名された2008年にもずいぶんと議論された。天皇の宮殿である「宮」は移されたのだが、期間も短く、平城京や平安京のように条里で区画整理まではされなかったと考えられており、「京」と呼ぶのは行きすぎであるというのが物議の中身である。
 昭和49年と53年の調査により、大津市錦織二丁目地域(近江神宮の近く)で古代の建物の柱跡が見つかり,配列や規模からここが宮の中心部分であっただろうとされ、永らく場所さえ怪しかった「大津宮」ないし「近江宮」は確かにあったようだということは確かめられた。しかし、このあたりは比叡山が湖岸に迫っていて平らな土地に乏しく、条里があったとは考えにくい。



滋賀県大津市三保ヶ崎  第三高等学校艇庫(現京都大学「神陵ヨットクラブ」艇庫)

 いずれにしても「大津京」ないし「大津宮」は、滋賀宮とか滋賀京とは呼ばれていないので、「滋賀の都」を大津京と解することには無理がありそうに思う。小口太郎は、この詩のメロディに「寧楽(なら)の都」風の旋律をイメージしていたことが伝えられており、「ならのみやこ」に対して語感的に「しがのみやこ」を当てただけではないだろうか。

 かつて滋賀県には滋賀郡と滋賀村があった。明治22年の町村制施行より滋賀郡に大津町と滋賀村を含む14の村が成立。明治31年に大津が市制に移行した。滋賀村が大津市に編入されたのは昭和7年なので、小口太郎の琵琶湖周航の時期にはまだ存在したことになる。滋賀村の位置は、現在の大津市南滋賀町、滋賀里町のあたりであろう。JRでは湖西線の唐崎駅近傍になる。



滋賀県大津市三保ヶ崎  第三高等学校艇庫(現京都大学「神陵ヨットクラブ」艇庫)

 大津市はその後も南北に領土?を拡大し、昭和8年に膳所町、石山町を編入、昭和26年には雄琴村、坂本村、下阪本村、大石村、下田上村を編入する。

 昭和30年に滋賀郡北部の町村が合併して滋賀郡堅田町と滋賀郡志賀町が発足したが、昭和42年に堅田町が瀬田町と共に大津市に編入され、滋賀郡は志賀町1町になった。この状態は40年近く続いたが、平成18年に志賀町が大津市に編入され、旧滋賀郡のほぼ全域が現在の大津市になり、滋賀郡は消滅した。よって、「滋賀」の文字は、県名以外には大津市「滋賀里町」、大津市「南滋賀町」として残されているのみである。なお、南滋賀があるのに北滋賀は無い。さらに南滋賀町にある小学校は志賀小学校である。



滋賀県大津市三保ヶ崎  第三高等学校艇庫(現京都大学「神陵ヨットクラブ」艇庫)

 地名としての「滋賀」は滋賀県と県内の二カ所のみであるが、志賀という地名は全国各地に存在する。
和歌山県かつらぎ町志賀
和歌山県日高郡日高町志賀
埼玉県比企郡嵐山町志賀
京都府綾部市志賀郷町
愛知県名古屋市北区志賀町
石川県羽咋郡志賀町
長野県には志賀高原
長野県下高井郡山ノ内町北志賀竜王高原
長野県佐久市志賀

探せばまだまだ見つけることが出来るだろう。
 滋賀と志賀を使い分ける基準は判然としないが、アイデンティティを主張するなら、ここは滋賀を採るべきかと思うのだが。



滋賀県大津市三保ヶ崎  第三高等学校艇庫(現京都大学「神陵ヨットクラブ」艇庫)から琵琶湖を望む


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滋賀県大津市(旧滋賀郡志賀町)北小松の白汀「松は緑に砂白き」

2番   松は緑に砂白き
雄松が里の乙女子は
赤い椿の森蔭に
はかない戀に泣くとかや

松は緑に

 冒頭は琵琶湖西岸に続く白砂青松風景の描写である。今津の北の湖岸の松は防風林として明治末期に植えられたものだという。恐らく、雄松崎付近の松も人為的に植えられた物だろう。海岸防風林には潮害に強い黒松を植えるのが常套である。「白砂青松」は日本の海岸の古典的情景のように思われているが、実は人為的に作られた風景である。琵琶湖岸では必ずしも松を使う必要は無さそうに思うのだが、成長が早く、用材としてもそれなりに役に立つ松が選択されたのであろう。



滋賀県大津市(旧滋賀郡志賀町)南小松地先 琵琶湖周航の歌 二番歌碑

砂白き

 湖西湖岸の砂は風化した花崗岩で、白色の石英と長石に、黒っぽい雲母が混ざっている。白いと言えば白い方だが、完全に石英質という訳ではない。



滋賀県大津市(旧滋賀郡志賀町)南小松地先 琵琶湖周航の歌 二番歌碑

小松の里の/雄松が里の

 現歌詞は「雄松が里」であるが、「雄松」も「雄松が里」も地名としては存在しない。あるのは「雄松崎」である。琵琶湖八景に「涼風・雄松崎の白汀」がある。白汀(はくてい)は白い渚(なぎさ)の意味である。近年は「近江舞子」と呼ばないと通じない。近江舞子の名は、京阪神から湖水浴客を呼び込むために、兵庫県の舞子浜になぞらえて付けられたJR湖西線の駅名である。公式の地名としては存在しない。住所表示では、今は大津市北小松ないし大津市南小松、2006年3月以前は滋賀郡志賀町北小松ないし志賀町南小松であった。「大津市小松」という住所はないが、北小松、南小松をまとめて「小松」と呼び、南小松にある小学校も「小松小学校」なので、旧歌詞の「小松の里の」は間違いとは云えない。



滋賀県大津市(旧滋賀郡志賀町)南小松地先 琵琶湖周航の歌 二番歌碑

乙女子/処女子/少女子

 琵琶湖周航の歌に「おとめご」は2番と4番に登場する。6番にも「語れ乙女子熱き心」と出てきたことがあるが、これはとんでもない記憶違いの類である。乙女子/処女子/少女子、読みは同じ「おとめご」であるが、漢字を変えると、かなり年齢層に幅が出てくる。

 中安治郎氏(大正八年二部甲卒)は(小口太郎が暖めていた歌詞案を)「小口がこんな詩を書いた」と周航メンバーに披露(暴露?)した張本人である。当時NHK記者であった飯田忠義氏が、琵琶湖周航の歌のルーツ探しの番組製作に中安氏を訪ねた時には残念ながら他界して一ヵ月が経っていた。中安タカネ夫人は、安田著書に「一周忌に」として下記のエピソードを寄稿している。
一周忌に  中安タカネ

・・・略・・・中安(治郎)と結婚いたし、赴任と新婚旅行を兼ねまして、大阪に向かいました。何分、53年前(この原稿が書かれたのは昭和51年頃)のこと、新幹線はもとより丹那トンネルさえもなかった時でございますから、東京駅を夜行で発ち、御殿場を廻りまして、米原あたりで夜が明けてまいります。その中に、琵琶湖の水がチラホラ見えてきました時、中安が「この辺は、僕たちがボートでさんざん漕ぎ周った所だよ」と話してくれましたので、私は、ふと思わず、「我は水の子」と歌いました。中安が、大変におどろきまして、「どうしてそれを知っているのか?その歌は、僕たちがボートで琵琶湖一周した時、作った歌なんだよ、メロディーは外国のもので、『羊草』の歌につけたんだよ」と申しましたが、中安が自分達の作った歌が、よもやそんなに女学生間で歌われていたとは、つゆ知らぬ事でした。中安が二十七歳、私が一九歳の秋のことでございます。

・・・・・・中略・・・・・・

 何かの時に、「雄松に、そんなに素敵な少女がいたのですか?」と聞きました所、「ナアニ、ボートを着けると、いつも下駄を持って来てくれた、色の真黒な女の子だよ」と申しましたので、聊かロマンの夢を破られ、ガッカリしたのを覚えております。・・・・略(安田著書p65-66)
と、いうことで、この話に従うと2番の「おとめご」は「少女子」である。はかない恋に泣いたのならば、かなりおませである。堀準一氏の論考のオリジナル歌詞でも、ここは「少女子」を採っている。

同じエピソードが飯田著書でも触れられているが、
 番組の取材で東京の中安家を訪ねたのは本人が亡くなった一ヵ月ほど後だったがこのとき、タカネ夫人は、乙女子についてこう話している。「生前、主人に、『雄松が里の乙女子はいたんですか』と尋ねましたら、『そんなものいるもんか、宿の色の黒い女中さんのことだよ』と笑っていました。
 こちらでは「おとめ」の年齢は通り過ぎていそうだ。

 

滋賀県大津市(旧滋賀郡志賀町)南小松地先 琵琶湖周航の歌 二番歌碑の裏側と
河川占有物件表示板 琵琶湖の河川法上の名称は「一級河川琵琶湖」

暗い/赤い椿

 椿は、実際に生えていたらしいが今は無い。飯田著書のp55に、当時を知る磯田伊三郎氏(旅館「雄松館」の経営者)が、ここに椿の木が生えていたと指し示す写真が掲載されている。ただし一本だけで、椿の「森」どころか「林」にも満たなかったようである。



雄松館の看板

 琵琶湖岸の植生は本来的には照葉樹林のはずであり椿の木も生えていただろうが、縄文・弥生の時代から人が住んでいた琵琶湖周辺の土地に、手つかずの自然などほとんど残っていないのであろう。



雄松館の周辺には何本かの椿の木があるが、最近植えられた若い木である。

 椿の開花期は3〜4月である。よって周航の時期にはすでに花は落ちている。雄松から、朝方、周航に出発するクルーを見送るのは、モロに朝日に向かうことになるので、さぞ眩しかっただろう。逆にボートから見れば(漕ぎ手は後ろを向いている=岸部方向を見ている)、森の葉は明るく、蔭は暗かっただろう。初期の歌詞「暗い」は椿にかかるのではなく、森蔭にかかると解するべきであろう。



滋賀県大津市(旧滋賀郡志賀町)南小松地先から長命寺方向を望む

はかない戀に泣くとかや

 ここでの「こい」は「恋」ではなく、「糸し糸しと言う心」の方の戀である。今時の流行歌には愛だの恋だのがいくらでも出てくるが、大正〜昭和初期にかけての日本男児は、おいそれと、そんな女々しい言葉を口に出すことはできなかったのである。この歌は、声を張り上げて「こい」と言える貴重な歌だったのである。



滋賀県大津市(旧滋賀郡志賀町)南小松地先から琵琶湖南方を望む
右端が雄松崎、中央やや右の手前の山が三上山(近江富士)


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滋賀県高島市今津町今津 今津港桟橋

3番   波のまにまに漂へば
赤い泊火(トマリビ)なつかしみ
行方定めぬ浪枕
今日は今津か長濱か

波のまにまに漂へば

 「間に間に」と綴られている版があるが、漢字で書くとすると「随に」の方が正しいようだ。堀準一氏の論考のオリジナル歌詞でも「間に間に」を採っているが、ひらがなの方が多数派である。ただし京都大学の公式HPでは「間に間に」とされている。

 

滋賀県高島市今津町今津 琵琶湖周航の歌 歌碑   歌詞部分の拡大



滋賀県高島市今津町今津 琵琶湖周航の歌 歌碑の由来

赤い泊火(トマリビ)なつかしみ

 泊火(トマリビ)は野呂達太郎氏(昭和11年文甲、水上部OB)によれば造語らしい。実際、琵琶湖周航の歌以外には用例がなさそうである。野呂氏は地元高島の出身で今津中学を経て第三高等学校に入学、さらに水上部に所属し周航も経験しているとの経歴であり、大正時代の今津の様子を伝える生き証人と云える。

 今津の「津」は港の意味。今津は古くからの港であった。鯖街道は、若狭湾の小浜から京都までを結ぶ約80kmの古道である。名の通り日本海の海産物などを京都に運んだ道である。小浜から分水嶺を越え、琵琶湖に出る前に南に折れて、安曇川沿い上流に(南下)向かうルートが主であるが、琵琶湖の水運を利用して今津から大津まで湖上を使うルートも発達した。秀吉が今津港を使うことを奨励したと言われる。

 

滋賀県高島市今津町今津 今津港の航路灯に刻まれた琵琶湖周航の歌三番の歌詞

 今津の南側は安曇川の広大な三角州である。当時はほとんど湿地帯だったろうから、湖岸の陸上交通路は無いに等しい。大正時代には今津には大津との間の定期航路があり、それが唯一の公共交通機関であった。

 今津に電灯が灯ったのは大正4年とのことである。大半の家庭ではしばらくはランプ生活だったようだ。野呂氏の記憶では、今津港の桟橋の突端に標識灯があり、そこに電灯が灯されていたとのことである。今津にとって唯一の公共交通機関の発着場であったわけであるから、電灯も真っ先に引かれたであろう。大正6年の周航時には、この標識灯が灯っていたはずである。この標識灯は四角くて、左右と手前の3面には普通の透明硝子が填められていたのだが、沖に面した側にだけは赤い色ガラスが填められていたとのことで、「赤い泊火」はこれに違いないとのことである。



滋賀県高島市今津町今津 今津港の航路灯
琵琶湖側にだけ赤いガラスがはめられている。

 今日の今津港の桟橋の突端にも標識灯(:今は航路灯と呼ばれている)がある。陸側から見ると軸に3番の歌詞が書いてある以外は、ステンレス鋼製の、なんの変哲もない航路灯で、手前と左右には透明ならぬ白い摺りガラスが填めてあるのだが、琵琶湖側には赤いガラスが填めてあるのである。ただし、桟橋の、一番先っぽギリギリに立っているので、この赤いガラスを写真に撮ろうとすると、かなり桟橋から身を乗り出さなければならない。

 三高歌集創立130周年記念版(1988年発行)では、秋山康夫氏に従うとして「赤い漁り火」とされたが、琵琶湖で漁り火漁など見たことがない。仮に漁り火漁をしていたとしても、漁り火を追いかけていては、漁が終わるまで岸に辿り着けないではないか。

 なお大津市では、年末に刈り取った葭で松明を作り、三月上旬の琵琶湖開きの日の夜に一斉に燃やす「漁火祭」というのがあるが、これは伝統的な行事という訳ではなく、滋賀県が推進する自然な湖岸を取り戻そうというヨシ保全事業の一環である。



竹生島に向かうクルーズ船から今津港を振り返る。  赤い泊火(とまりび)拡大

行方定めぬ浪枕

 三番の歌詞の最初のナミは「波」だが、ナミマクラの方は「浪枕」である。ナミの字を「浪」ないし「波」のどちらかに統一した版もあるが、ここは書き分けている版の方が多い。

 中国語では「浪」は、やや大きなナミで、「波」は小さなナミとのこと。さらには広東語では「波」には女性の乳房の意味もあるらしく、通常は「浪」の字を使うとのこと。中国南部で、迂闊に「波枕」などと書くと赤面しなければならなくなりそうだ。
 琵琶湖も荒れるときは荒れて白波が立つが、台風時の海のようにウネリを伴った大波には至らない。かといって、琵琶湖をナメると大変なことになるのは四高桜が伝えるところである。



滋賀県高島市今津町今津 琵琶湖周航の歌 資料館



滋賀県高島市今津町今津 琵琶湖周航の歌 資料館 看板

 湖ではなく海を詠んだ「われは海の子」の四番に

  丈余の櫨櫂(ろかい)操りて
  行手(ゆくて)定めぬ浪枕
  百尋千尋(ももひろちひろ)海の底
  遊びなれたる庭ひろし

 とある。この歌が教科書に載ったのは明治43年(1910年)発行の文部省『尋常小学読本唱歌』が最初である。小口太郎は1897年(明治30年)8月30日生まれであるから、この時13才の小口太郎は既に尋常小学校を卒業しており、学校ではこの歌を習ってはいない。しかし一家の長兄であり、小学校の代用教員などもしていた太郎であるから弟妹らの教科書でこの歌を知っていた可能性は高く、無意識下に似たフレーズを作ってしまったことも十分考えられる。

 なお、「われは海の子」は7番まであり、「ナミ」が4回出てくるが、明治期の歌詞では全て「浪」の字が使われている。NHK放送文化研究所では「波」はナミ全般に使い「浪」は川の波に使う例が多いとしているが、この用例からしてもこの解説は少々疑問である。



滋賀県高島市今津町今津 今津港桟橋

今日は今津か長濱か

 大津から出航し、一日目は小松(雄松崎)に投宿。少女子に見送られた二日目は、小松からさらに北に向かうのだが(ここからは琵琶湖はぐんと広くなる)次の宿は今津にするか、あるいは琵琶湖を東岸まで突っ切って長濱に宿するか・・・・と読めるが、小松から長浜は少々遠い上に、琵琶湖の西北岸をすっ飛ばしてしまうことになる。



滋賀県高島市今津町今津 JR近江今津駅から今津港までの歩道

 「『開示』の地より 愛をこめて」, 八丁田倫, 琵琶湖周航の歌−うたの心−, p134」によれば、当時、今津には、丁子屋、福田屋、長濱屋という3軒の宿屋があったそうである。しかし、「今夜は今津の長濱屋」では詩情が無さ過ぎる。残念ながら長濱屋は今は無く、丁子屋、福田屋も、流石に大正期の宿帳までは残しておらず、小口太郎一行がどの宿に泊まったかまでは確かめようがなかったとのことである。

           

滋賀県高島市今津町今津 JR近江今津駅から今津港までの歩道に設置された街路灯


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滋賀県長浜市早崎町竹生島

4番   瑠璃の花園珊瑚の宮
古い傳への竹生島
佛の御手にいだかれて
ねむれ乙女子やすらけく

瑠璃の花園 珊瑚の宮

 瑠璃は琵琶湖はもとより日本では産出しない。海に育つ珊瑚も、もちろん琵琶湖には無い。

 瑠璃はラピスラズリという青色の鉱物の和名。青金石(lazurite)(Na,Ca)8(AlSiO4)6(SO4,S,Cl)2を主成分とする複数の鉱物の固溶体とされている。石灰岩層の中にマグマが進入した際にその接触面付近に希に生成する。青色顔料「ウルトラマリン」の原料である。ツタンカーメン王のマスクの青い筋がこの顔料である。
 珊瑚はイソギンチャクやクラゲと同じ腔腸動物の「サンゴ」の骨格である。宝石として使われるのは珊瑚礁のように浅い海に生育する珊瑚ではなく、水深50m以下の深海に棲む種類である。



滋賀県長浜市早崎町竹生島 竹生島港

 淡水湖に有るはずもない珊瑚が登場することを奇異に受けとめる論もあるが(* 湖国と文化第70号 1995年1月1日発行 p46)この部分は瑠璃のように青い湖面に浮かぶ、竹生島の珊瑚のように色鮮やかな寺社の形容とストレートに解すれば良いであろう。秋の紅葉に彩られた竹生島は正に「珊瑚の宮」の如しであるが、6月の周航時には天然の紅黄色は無く緑鮮やかであろう。反面、神社の鳥居などの朱色はさらに栄えたのではないかと思われる。

 大正6年に滋賀県が発行した滋賀県の観光・商工ガイドブック「滋賀縣案内」の白髭神社説明の項に、次のような記述がある。
白髭神社
 同村(滋賀郡小松村)大字鵜川に在り今を距ること凡千九百餘年前垂仁天皇の創設にして猿田彦命を祭れり社殿は小杉老松参差たる山麓に在り前面碧瑠璃の如き琵琶湖に望み眺望頗る佳なり。

 すなわち、少なくとも小口太郎の琵琶湖周航の頃には、琵琶湖面を瑠璃に例える表現が一般化していたと考えてよかろう。大正15年発行の琵琶湖協会発行のガイドブック「琵琶湖へ」の竹生島紹介の項には、
竹生島
 周囲七十里の大湖も、周囲二十町に足らない竹生島があつて、始めて眼睛の如く光る。緑丸、竹生島丸、琵琶湖探賞客のあこがれは。この一仙島に集められる。「湖波漫々猶ほ玻璃盤に一螺を置くが如し」と、島の勧進文見えるのは、強ち溢美ではない。
とある。玻璃は水晶ないしガラス質の鉱物を示す。



滋賀県長浜市早崎町竹生島 竹生島港から都久夫須麻神社と宝厳寺を見上げる

 神話の世界では、竹生島は、夷服岳(伊吹山)の多多美比古命が姪にあたる浅井岳(金糞岳)の浅井姫命と高さ比べをし、負けた多多美比古命が怒って浅井姫命の首を切り落とし、湖に落ちた首が島になったという物騒な生い立ちである。この話の原典は樋上亮一著の「湖国夜話」によれば「帝王編年記」という室町時代に成立した書物とのことである。
 同じく「湖国夜話」には、平安時代中期の承平年間(10世紀)に編まれた諸寺縁起集に「霜速比古命に氣吹雄命(きぶきをのみこと)、坂田姫命、淺井姫命の三児があった。氣吹雄命、坂田姫命は坂田郡の東方に、淺井姫命は淺井郡の北の端に住むことになったが、淺井姫命が氣吹雄命と争い、さらに北の方に行かねばならなくなって湖中に落ち、落ちた時に立ちあがった水沫が固まって磐となり、これに風が塵を運んで島ができた。落ちるときのヅブヅブと音がしたので都布夫島ということになり、淺井姫命が鳥に木の種を運ばせて木々を茂らせた際に、一番始めに生えたのが竹であったので竹生島(ちくぶしま)と呼ぶことになった。」と説かれていることが紹介されている。

 ちなみに滋賀県で一番高い山は伊吹山(標高1377m)で金糞岳(標高1317m)は二番目である。雄略天皇3年(420年頃)に浅井姫命を祀る小祠が作られたのが都久夫須麻(つくぶすま)神社の始まりと伝えられている。ともかく、未だ神と人間の境目が曖昧だった神世の時代の話である。

 なお、「湖国夜話」の出版年は昭和10年であるが、竹生島の項に「かうした神世ながらの傳説を秘めて、永遠に碧瑠璃盤上に浮かぶ竹生島は、まことに太湖の瞳とも言ふべき存在であって〜」とあり、ここでも湖面を瑠璃に例えている。



滋賀県長浜市早崎町竹生島 琵琶湖周航の歌四番の歌碑

 竹生島の高さは標高197.6m。琵琶湖の湖面は標高86mなので竹生島は湖面から111.6mの高さになる。島の周囲は切り立った崖になっており文字通り「とりつく島がない」状態だ。唯一、現在船着き場になっているあたりが小さな入り江風になっておりなんとか上陸できたという感じである。竹生島の周囲は水深70−80mと、琵琶湖の最も深い場所になる。そこに高さが200mくらいの花崗岩の塊が半分強を水面に出してデンと据わっているのが地学的にみた竹生島である。神様の首が湖に落ちて島になったという伝説は、あながち根拠が無い訳ではないかもしれない。



滋賀県長浜市早崎町竹生島 琵琶湖周航の歌の歌碑由来  拡大

 神亀元年(724年)には聖武天皇が天照皇大神の神託を受けて竹生島に寺院を建立した。これが現在の宝厳寺である。なにしろ、神様が寺を造って弁天様を祭れというのであるから以来、江戸時代まで神仏習合の信仰の島となった。現在の都久夫須麻神社の本殿は、豊臣秀吉が伏見城内に建設した「日暮御殿」を秀頼が移建・寄進したもので、安土桃山時代の文化を伝える建造物として国宝に指定されている。彫刻が素晴らしい。



滋賀県長浜市早崎町竹生島 都久夫須麻神社

 明治期の神仏分離令により、一時は都久夫須麻神社を残し、宝厳寺の方は廃寺にすることが検討されたが、日本全国の崇敬者の要望により、宝厳寺と都久夫須麻神社とをきっちり分け、両方が残ることになった。今日でも双方独立した宗教法人として残っているのだが、都久夫須麻神社の本殿と宝厳寺の観音堂は舟廊下で直接連結されている。
 

滋賀県長浜市早崎町竹生島
都久夫須麻神社と宝厳寺を結ぶ船廊下 左:内側、 右:外見
 宝厳寺の御本尊である弁才天は、神仏分離以来70年近く仮安置のままとなっていたが、信者の寄進により昭和17年(1942年)に落成した本堂に収められた。さらに一番高いところで最も目立つ朱に鮮やかな三重塔は、江戸時代初期に焼失していたのが平成12年(2000年)に再建されたものである。



滋賀県長浜市早崎町竹生島 宝厳寺 三重の塔

 説明が長くなったが、云いたかったのは、大正6年には、弁才天を祭る宝厳寺の本堂も、色鮮やかな三重塔も無かったということで、当時は今とは眺めも異なっただろうということである。

 

滋賀県長浜市早崎町竹生島  左:宝厳寺 唐門  右:宝厳寺本堂
 飯田忠義氏は「瑠璃の花園珊瑚の宮」に唱歌「うらしまたろう」の影響がみられると考察している。浦島太郎を題材にした唱歌は2曲有り、今日よく歌われているのは「昔々浦島は助けた亀に連れられて」で始まる明治44年(1911年)の『尋常小学唱歌』に掲載された「浦島太郎」(作詞:乙骨三郎、作曲:三宅延齢)であるが、飯田氏が指摘するのは明治33年(1900年)の『幼年唱歌』に掲載された「うらしまたろう」(作詞・石原和三郎、作曲・田村虎蔵)の方である。

うらしまたろう

作詞 石原和三郎
作曲 田村虎蔵

 むかしむかし うらしまは
こどものなぶる かめをみて
あわれとおもい かいとりて
ふかきふちへぞ はなちける
   あるひおおきな かめがでて
「もうしもうし うらしまさん
りゅうぐうという よいところ
そこへあんない いたしましょう」
 
 うらしまたろうは かめにのり
なみのうえやら うみのそこ
たい しび ひらめ かつお さば
むらがるなかを わけてゆく
   みればおどろく からもんや
さんごのはしら しゃこのやね
しんじゅやるりで かざりたて
よるもかがやく おくごてん
 
 おとひめさまに したがいて
うらしまたろうは 三ねんを
りゅうぐうじょうで くらすうち
わがやこいしく なりにけり
   かえりてみれば いえもなし
これはふじぎと たまてばこ
ひらけばしろき けむがたち
しらがのじじいと なりにけり

 つまり小口太郎は、大自然の中に忽然と現れる竹生島の神社仏閣の人工美を竜宮城に見立て、この歌の4番「見れば驚く唐門や、珊瑚の柱 シャコの屋根、真珠や瑠璃で飾り立て、夜も輝く奥御殿」に出てくる法華経七宝を借りて形容したのだろう、ということである。

古い傳への竹生島

 歌詞にルビが振られている場合は、ほぼ例外なく「ちくぶじま」と振られているが、地元の人は「ちくぶしま」と呼ぶ。「しま」は濁らない。先に紹介した「湖国夜話」でも「ちくぶしま」とルビが振られている。



今津港から竹生島に向かう湖上にて、海津大崎に虹がかかる

佛の御手にいだかれて ねむれ乙女子やすらけく

 再び「おとめご」である。こちらの「おとめご」は2番にでてくる「少女子」とは違う女性である。なんとなれば、彼女は「佛の御手にいだかれて」いるので既にこの世の人ではない。伊吹山の神に首を切り落とされたという浅井姫命であろうか? 仏様(弁才天)が祭られたのは、浅井姫命が祭られたのよりずっと後であるから、これも違う。



今津港から竹生島に向かう湖上からの琵琶湖西岸

 現代詩人の福田鳰氏は琵琶湖周航の歌の4番から二つの民話をイメージしたという(琵琶湖周航の歌−うたの心− 琵琶湖周航の歌発行会編/著 p104-105)。
 一つは琵琶村(びわ町を経て現長浜市)に伝わる「竹生島」である。
「竹生島」
 ある年、比良八荒で漁船が沈んでしまった。村人達が竹部島の宝厳寺にお伺いをたてると、嵐の原因は龍神の怒りであり、沈めるには長者の娘を人身御供にせねばならぬという。それを知った長者の娘は「私一人の命で皆を救えるならば」と、そっと家を抜け出して湖に身を投げた。それ湖は穏やかになった。

引用:山田野理夫, 「海と湖の民話」, 潮分社, p54., 1963.11.25.
 この物語は「びわ村湖畔に伝わるお話」として「近江むかし話」にも掲載されている。ただし、こちらでは長者の娘は命を落とさない。
「長者の娘」
 ある年の比良の八荒のころ、湖水は荒れに荒れ狂い、漁船が次々と沈み、死者は日を追って増し、村は大騒ぎになった。村人が竹生島の宝厳寺の伺いを立てると、使者が「長者の娘を人身御供にせよ」と告げた。長者は怒り、お告げを聞き入れなかった。すると琵琶湖は更に荒れ、村人達は食料にもこと欠くようになった。見かねた長者の娘は、ひそかに家を抜け出し小舟に乗って竹生島に向かって漕ぎだし、「龍神様、私の命を捧げますから湖の荒れをお鎮め下さい」と念じた。娘が島に着く頃には湖はすっかり元の静けさに戻っていた。

引用:滋賀県老人クラブ連合会、滋賀県社会福祉協議会編, 「近江むかし話」, 洛樹出版社, p205-206., 1968.09.15.

 もう一つは諏訪湖に伝わる「火ともし山(火とぼし山)」または「小坂観音」として伝わる話しである。
「火ともし山」
 諏訪湖畔に相思相愛の若い男女、アニサンとオナミがいた。男は事情で諏訪湖の対岸に移り住まねばならなくなった。オナミは男が灯す火を目印に、毎晩諏訪湖を泳いで男の元に通っていたが、オナミの想いがあまりに一途なため、男はオナミが魔物に取り憑かれているのではないかと疑いだした。男は泳いでくるのを止めるように諭すが、オナミは聞き入れず、次の晩も火を灯すよう男に迫った。次の晩、小雪が寒い夜、オナミは灯が灯るのを待っていたが、男は火を付けなかった。オナミは待ちきれずに、いつものように泳げばいいと湖に入ったが、その夜をかぎりにオナミの姿は消えてしまった。

 出展「日本昔話」http://www.youtube.com/watch?v=aVbEBzxdNAM
 「小坂観音」では、男が心変わりして、火を灯す場所を故意に変えて水が冷たい場所に誘導したため、オナミは凍えながら湖に沈んでしまう設定に変わっているらしい。が、先出の山田野理夫著「海と湖の民話」では、話しの骨格だけしか伝えられていない。
「小坂観音」
 小坂のあたりに若い男が棲んでいた。この男はいつも夜になると灯を点すのである。これはこの男のもとへひとりの美しい女が湖水を泳いで通っているからだ。ある夜、男はあやまって灯を点す場所を取り違えてしまった。美しい女は目測を間違って、この湖水に溺れ死んでしまったということだ。(長野・諏訪湖)

引用:山田野理夫, 「海と湖の民話」, 潮分社, p164-165., 1963.11.25.
 この「火ともし山」「小坂観音」の話は、近江に伝わる「比良八荒」とそっくりである。いずれも男に恋した女が「湖を渡って100日通い続ける事ができたら夫婦になろう」という約束を信じ、男の点す灯りを目印にタライ船を漕いで99日通うが100日目には灯りが点らず、夜の湖上に迷い、湖に命を落とすという悲しい物語であるが、細部は地域によって異なっている。

「ひらのはっこう」 木の浜の村(現・滋賀県守山市木浜町)
 比良の山で修行していた若い僧が、病いを押して琵琶湖の対岸に渡り、托鉢業をしていたが、木の浜村に入ったところで高熱を出し動けなくなってしまった。通りかかった村の娘「お光」が僧を手厚く看病し、僧は元気を取り戻した。
 僧は比良の寺に戻ろうとするが、僧に想いを寄せてしまったお光は泣く。僧もまた、お光を想い、修行をとるか恋をとるかで悩み、僧は「自分は堅田の満月寺(浮御堂)で百日の修行をする。その間、湖を渡って毎晩通い続けることができたなら夫婦になろう。」と提案する。お光は僧の言葉を信じ、毎夜、僧が灯す浮御堂の火を目印にタライ舟を漕いで湖を渡り、修行を続ける僧の姿をそっと拝んで再び村に漕ぎ戻っていた。
 僧は、暗い琵琶湖上を毎夜毎夜タライ舟を漕いで欠かさず通うお光に鬼が取り憑いているのではないかと恐れ、百日目にあたる夜に灯りを消してしまった。約束の百日目になったことに心躍らせてたらい船を漕いでいたお光は、急に目印の灯りが消えてたので湖上で迷い、比良から吹き下ろす強風に飲み込まれて湖に命を落としてしまった。その日は、もうすぐ春を迎えようという3月の末であった。以来、お光の怨みにより、毎年この時期に比良の山から吹き下ろす強風で琵琶湖が荒れるのである。

出展:フジパン/はぐくむ・民話の部屋 http://www.fujipan.co.jp/hagukumu/minwa/todoufuken/shiga/


浮御堂 大津市堅田、琵琶湖畔の臨済宗大徳寺派海門山満月寺にある、湖上に突き出た仏堂
 草津ではこの話は娘の名が「おいさ」になり、目印の灯を僧が消す理由が少し変わっている。
「イサダになった娘」 草津
 草津の宿に叡山の若い修行僧(ぼんさん)が托鉢の途中で宿泊した。宿の娘「おいさ」はこの僧に一目惚れし、宿に引き留めて世話をやいている内に三〜四ヶ月が過ぎてしまった。いつまでも宿に留まるわけにはいかない修行僧が叡山に戻ろうとし、悲しむ「おいさ」を諦めさせようと「自分は堅田の満月寺(浮御堂)で百日の修行をする。その間、湖を渡って毎晩通い続けることができたなら嫁にしてあげよう。」と告げた。「おいさ」はその言葉を信じて毎晩、浮き御堂の灯明を目印にタライ船で通ったが、修行僧の方は、まさか「おいさ」がそこまでして通ってくるとは思っていなかった。百日目となる夜、「おいさ」が通っ来たら約束を果たさねばならず、困った修行僧は目印の浮き御堂の灯明を消してしまった。湖上で迷った「おいさ」を比良八荒の強風が襲った。「おいさ」は「こんなに恋して通ったのに死んでも死にきれぬ」と修行僧を怨みながら湖に沈み、以来三月末には必ず琵琶湖が荒れるようになった。琵琶湖の固有種であるイサザ(滋賀ではイサダとも呼ぶ)は恋に破れて死んだ「おいさ」の化身と云われている。

出展:民話でたどる滋賀の風景 http://www.pref.shiga.jp/minwa/06/06-movie.html


浮御堂 先代の堂は昭和9年(1934年)の室戸台風により倒壊
    現在の堂は昭和12年(1937年)に再建されたもの
浮御堂のすぐ近くに小さな都久夫須麻神社の分社がある。
 守山市木浜町の隣になる守山市今浜町では、僧が相撲取りになり、タライ船で通う先が浮き御堂ではなく白髭神社になる。娘の名前は「お満」。
「お満灯籠伝説」 守山市今浜町
 湖東の鏡村(現・竜王町)で相撲が行われた際、それに参加した比良村(旧志賀町、現大津市北部)出身の八紘山(あるいは八荒山)という美形の力士に、鏡村の娘「お満」が一目惚れした。故郷へ帰ろうとする八荒山に「お満」は求婚するが、八紘山は諦めさせようと「自分の元に百日通い通したら嫁にしてやってもよい。」と告げた。「お満」は毎夜、今浜(守山)の灯籠崎から白髭明神の明りを目印にタライ船に乗り杓子で水をかいて湖上を通い詰めた。願いが叶う目前の九十九日の夜、「お満」の執念に恐れた八紘山は目印の明りを消し、目印を無くして湖上で迷った「お満」のタライ船は大風に煽られ「お満」は湖に沈んだ。この時の嵐は数日間吹き止まず、今浜の村人が湖岸に打ち上げられた「お満」のたらい船の残骸を見つけて、その木片を細く割って硫黄を付け、「燈籠の灯を絶やさないように」と神社に供えて「お満」を慰めると、ようやく大風が止んだと云う。

出展:守山市観光協会 http://www.moriyamayamamori.jp/oman-monogatari.html


お満灯籠 守山市今浜町(琵琶湖大橋東詰北側)
 大津市の石場にも同じ話が伝わっている。こちらは僧と旅籠の下女の組み合わせで、通うのは大津石場から比良山麓になっている。諏訪湖では女は泳いで通うのだが、琵琶湖では共通してタライ船である。
「琵琶湖」
 石場という船着場に播磨という旅籠があった。ある年、この旅籠に若い僧が泊まった。旅籠の下女が心を惹かれ、僧に気持ちを打ち明けると、僧はその場を一時逃れのために「自分は湖水のかなたの比良山の麓に棲む者だ。今は出家のみだが、そなたがこの石場からタライに乗って百夜通うことができたら、俗世にもどろう。」と告げた。女は約束の夜から、三井寺の鐘が鳴ると、タライに乗り、大津の石場から唐崎、堅田の沖を過ぎ、比良山の麓の庵の灯をのぞんで再び石場に帰っていた。九十九夜、何事もなく通い詰めたのだが、百夜目のこと、今日が最後の一夜だと波を切って庵のあたりまできたが、いつも点っている灯がない。女が「あの方になぶられたのか」と悔しさと悲しさにおそわれたとき、比良山颪がおこりタライは転覆し女は湖水の底に沈んでしまった。その日は三月十日だった。以来毎年この頃になると比良山颪で湖は荒れるのである。

引用:山田野理夫, 「海と湖の民話」, 潮分社, p48-49., 1963.11.25.


お満灯籠 守山市今浜町  碑文拡大
 琵琶湖の西側、比良山麓にも同じ話しが伝わっているが、こちらでは比良八荒の風が灯りを消してしまうことになっている。
比良八荒の昔話
 比良の麓の若い修行僧が、東江州への托鉢行脚の際、急病で、ある家の軒先で倒れた。修行僧は家の人々の手厚い看護で回復し、比良に帰ることができた。翌年、修行僧がお礼にこの家を訪ねると、昨年、看護にあたったこの家の娘が修行僧に恋心を打ち明けた。修行僧は無下に断る訳にもいかず「対岸の比良まで百日間通い続けることができるなら夫婦になろう」と約束した。娘は、その日から毎晩、対岸比良の燈火を目指してたらいを船にして九十九日通い続けた。いよいよ百日目の夜、娘は「今日で願いが叶う」と湖上に出たが比良颪により目印の燈火が吹き消され、湖上をさまよう娘のタライ船は湖に飲み込まれてしまった。毎年この頃に吹く比良颪は、この乙女の無念によるものである。

出展:比良八講近江舞子の会 http://www.hira-hakkou.net/densetsu.html


草津(琵琶湖東岸)から見た浮御堂のある堅田方面(西岸)の夜景
いったい、どの灯りを目印にすればよいのだろうか・・・・・・・・・

 福田鳰氏と弘部憲次氏(庭湖周航の歌発行会代表)は、小口太郎が伝説に満ちた竹生島を詠んだときに、これら諏訪湖と琵琶湖の両方に伝わる「一途な思いを遂げられなかった悲劇の女性」や「竜神の怒りを静めるために自ら人身御供となった長者の娘」の伝説とを重ね合わせたのではないかと解している。小口太郎ら周航メンバーは小松や今津の宿で、宿の主人からこれらの民話を伝え聞いたりしたかもしれない。

 この立場に立てば、ここは本来的には、堀準一氏の論考のオリジナル歌詞にもあるように「おとめご」では無く「乙女」なのであり、「眠れよ乙女 やすらけく」が本来の形となる。



滋賀県長浜市早崎町竹生島

 比良八荒(ひらはっこう)は春先に琵琶湖を襲う突発性の強風である。琵琶湖の湖西岸は、山が湖に張り出しており、平らな土地はほとんど無く、琵琶湖の水深も急に深くなっている。湖に迫るのは標高1000m級の比良山系である。琵琶湖の水温と山頂付近の気温との関係で不規則な気流が起こりやすく、特に山が湖にせり出している白髭神社のあたりでは年中パラパラと小雨が舞っている。この地形に春先の季節風が重なると「比良八荒」となる。昭和16年(1941年)の四高ボート部遭難事件は、この比良八荒によるものである。

 なお、歌詞には関係ないが、弁天様はもともとは「辯才天」だったのが、何時の頃からか「辨財天」になった。今は「辯」も「辨」も今は「弁」をあてるので弁才天/弁財天である。ルーツはインドの「サラスヴァティー女神で、ヴィーナを抱えているのが決まりポーズであるが、弁才天ではそれが琵琶に代わっている。現代ではギターを抱えていても不思議はない位だが、竹生島の弁天様は楽器の代わりに剣をかまえている。

 

滋賀県長浜市早崎町竹生島
左:宝厳寺の弁才天(剣を持つ) 竹生島土産物売店の弁才天Tシャツは琵琶を持つ
 竹生島には何体もの弁財天象がある。本堂に祭られている象は撮影禁止。弁財天の前に御神体の鏡が置かれており、神社と寺が分けられてからも神仏習合のスタイルに変化はないようである。写真とほぼ同じ形態の弁財天象が宝物殿にもあったが、こちらも撮影禁止であった。本画像の弁才天象は、お札などの販売所の横に置かれていたものである。



滋賀県長浜市早崎町竹生島 竹生島港


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滋賀県彦根市金亀町 彦根城

5番   矢の根は深く埋もれて
夏草しげき堀のあと
古城にひとり佇めば
比良も伊吹も夢のごと

 1〜6番のうち、最も歌詞の変化が少ないのがこの5番である。「古城にひとり」が「湖上にひとり」なんてのも出てきたが、これは勘違いも甚だしい。ここは「古城」でなければ、その前の二行「矢の根は深く埋もれて、夏草しげき堀のあと」と整合しない。1番の出だしこそ一人称単数であるが、少なくとも湖上では他のクルーと一緒である。



滋賀県彦根市金亀町 彦根城天守閣

 議論されてきたのは「古城とは、どの城の事か?という点である。

 琵琶湖周辺には多くの城趾がある。特に琵琶湖の北東は戦国時代末期から安土桃山時代にかけて、歴史を大きく動かした数々の合戦の舞台となった。周航コース的には「彦根城」が自然である。しかし、「矢の根は深く〜」は戦国の世を経たことを意味するフレーズであって、関ヶ原の合戦の後で築城されて、一度も戦禍にあったことが無い彦根城とは相容れないとする意見も根強い。これを作者の無知によるものか?と訝る向きもおられるのだが、小口太郎にかぎって、そういうことはあるまい。



滋賀県彦根市松原町 彦根港

 彦根には元々佐和山城があった。豊臣政権の官房長官役とも云える石田三成の居城である。石田三成は秀吉の死後、徳川家康の策動のため団結が乱れつつある豊臣勢の結束を維持しようと奮闘したが、徳川勢との正面衝突となった関ヶ原の合戦で敗れ、佐和山城も落城してしまった。徳川家康は、彼が最も信頼した家来の一人である井伊直政に北近江の統治を任せた。井伊直正は、見せしめのために佐和山城を徹底的に破壊し、佐和山から至近距離に彦根城を建設して豊臣勢の残党が息を吹き返さぬよう北近江を監視したのである。



滋賀県彦根市松原町彦根港 琵琶湖周航の歌五番歌碑

矢の根は深く埋もれて
夏草しげき堀のあと

彦根城(金亀城)

 彦根城は、明治維新後も、井伊家の私有財産として、取り壊されずに残された数少ない城郭の一つである。彦根城には、内堀、中堀、外堀と、三重の堀があった。彦根城の南側の外堀は昭和に入ってからの道路拡張で埋め立てられてしまっている。彦根城の北側は松原内湖に面しており、中堀、外堀は内湖が兼ねていたのだが、これも戦後にマラリア対策として埋め立てられてしまい、松原内湖はグラウンドになっている。中堀と内堀は、現在は観光地的に美しく整備して残されている(現存している中堀を外堀と混同している向きがあるので注意)。大正6年時点では彦根城の北側は、ほぼ江戸時代の姿のままであっただろう。「古城」は彦根城であると解釈しつつ、内湖に密生していた「矢のように真っ直ぐな」葦原を見て「矢の根は深く埋もれて」と詠んだのでは?と深読みする向きもあるが、少々曲解しすぎかと思う。



滋賀県彦根市松原町彦根港 琵琶湖周航の歌の歌碑
左:副碑(全歌詞)拡大  右:主碑(五番歌詞)拡大

 少なくとも大正時代に天守閣があり、城郭がきっちりと整備されていたのは彦根城だけであった。彦根港からも近く、到着してから日没までの間に立ち寄って思索にふける時間も十分に取れる距離である。そもそも彦根城を素通りして、他の未整備の城跡を見にいくというのも、かえって不自然である。

古城にひとり佇めば

 以下、周辺の城趾が大正時代にどのような状態であったかを追ってみよう。



彦根市内から伊吹山を望む

小谷城(1573年落城)

 浅井(アザイ)長政の居城。織田信長勢(主力は秀吉)に攻められて1573年9月に落城した。現在は山中に僅かに石垣が残るのみである。そもそも琵琶湖の湖岸からはかなり離れており、周航のついでに立ち寄れるような場所ではない。



奥琵琶湖パークウエイ葛籠尾崎展望台から小谷城方面を望む

 浅井長政の妻は織田信長の妹の「市」、三人の娘が浅井三姉妹と呼ばれる茶々、初、江である。信長とは義兄弟になるわけだが、同盟関係にあった朝倉氏を織田信長が攻めたために絶縁した。以後、織田信長と敵対し続けるが次第に攻め込まれ最後は小谷城での籠城戦になり、味方の寝返りにより落城に至った。落城直前に信長に市と三人の娘を返し、自身は自害した。市は三姉妹を連れて柴田勝家と再婚するが、本能寺の変の後で、勝家と秀吉が対立し、秀吉に攻められて勝家と市は自害、以後、浅井三姉妹は三人三様の道を歩みつつ、それぞれが歴史上の重要な役割を担っていくことになる。
 なお、小谷城から比良山も伊吹山も見えるはずであるが、双方ともどちらかというと小谷城の南側に位置することになり、琵琶湖を俯瞰する「比良も伊吹も」という詠み方には少し違和感が出る。

 

琵琶湖周航の歌の歌碑由来   左側拡大   右側拡大
長濱城(1577-8年頃完成、1615年廃城)

 小谷城攻めの功績により、信長から湖北地域を与えられた秀吉が最初に作った城である。湖岸に面し、石垣は湖面から立ちあがり、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていたとされる。天守閣跡とされる部分もあるのだが、どのような天守閣であったかは解っていない。1615年に廃城となり、資材は彦根城に再利用され、僅かな石垣と井戸だけが残された。



滋賀県長浜市公園町 豊公園、長浜城歴史博物館

 明治42年、琵琶湖に近い長浜城の天守閣跡を中心に公園整備が行われ「豊公園」と名づけられた。現在の豊公園の石垣は、この時に散乱していた石材を集めて積み直されたものである。井戸の方は、太閤井戸と名付けられ石碑も建てられているが、渇水期にしか近づくことができない湖中にある。

 

湖中に立つ太閤井戸の碑



公園内にある史跡の説明看板   拡大 図と写真部分拡大

 大正期の三高生が周航時に立ち寄ったとすれば、彼等が見た古城の跡は明治に積み直された石垣だった訳である。昭和44年(1969年)に湖岸埋め立て工事が進められることになり、水底の発掘調査が行われたところ、石垣の根石と認められる30数個の巨石が、延長約30mにわたり整然と並べられていることが判明した。現在の天守は昭和58年(1983年)に犬山城や伏見城をモデルにし模擬復元されたものである。

 

天守跡と石垣遺跡を示す碑  石垣遺跡銘板拡大

 琵琶湖周航の歌の「古城」としては彦根城に次ぐ第二候補と云えるが、当時は石垣のみで建物はなく「堀の跡」に至っては「夏草しげき」などという可愛い状態では無かっただろうと思われる。



滋賀県長浜市公園町 豊公園、長浜城歴史博物館

佐和山城(1600年落城)

 佐和山は琵琶湖東岸の重要な戦略拠点に位置し、鎌倉時代から砦が築かれ、何人もの武将が入れ替わり立ち替わり城主になった。



滋賀県彦根市佐和山町 

 安土桃山時代の末期に石田三成が大規模な改修工事を行い、東方から京を伺う徳川方を阻止する備えを固めた。前述の通り、関ヶ原の合戦の後で落城。豊臣色を消そうとする徳川方の井伊直政により資材は彦根城に転用され、残りは徹底的に破壊された。天守があった本丸の周辺には石垣の名残の巨石が残っているだけで、堀も埋められてしまっている。



佐和山への登山道入り口は石田三成の菩提寺である龍潭寺の奥にある。



滋賀県彦根市佐和山町 龍潭寺の山門

 

登山道入り口へは龍潭寺裏手の墓地を通る。
迎えてくれるのは六地蔵ではなく七福神
こちらの弁天様は刀ではなく琵琶を持っている。

 

苔むした墓地の奥に、登山道入り口がある。
一部は階段状に整備されているが、大半は獣道同然



佐和山城本丸跡 かなり広い

 

天守閣の石垣の一部だと考えられている巨石。表面が平らに削られている。



佐和山城天守跡から見下ろす彦根城
直線距離では2kmと離れていない。

 小口太郎の琵琶湖周航の頃には、彦根城の外堀も松原内湖も残っていたので、龍潭寺の近くまでボートで行くことが出来ただろう。しかし彦根城を通り過ぎて佐和山に向かうのはあまりに不自然である。

安土城(1582年焼失)

 織田信長の城であるが、本能寺の変の後で焼失、築城後数年であった。以後は秀吉が信長の菩提寺であるハ見寺に所領を与え、現在に至っている。大正7年に安土城保存を目指して「安土保勝会」が設立されており、史跡指定が大正15年。本格的な調査は昭和以後、現在残っているのは石垣のみである。



滋賀県安土町 安土山(安土城趾) 中央の高い部分に天主閣があった。

 なお、安土城の周囲が干拓されたのは第二次世界大戦後であり、それ以前は内湖経由で琵琶湖から直接的に船でのアクセスが可能であった。よって周航時に立ち寄ることもできなくはないが、大正6年では、安土山自体が、ほとんど手つかずの状態だったと思われる。なお、琵琶湖周航の歌の古城について述べられた書の中には「安土城に堀は無かった」と書かれているものもあるが、これは正しくない。現在も僅かだが堀が残されている(ただし用水路にしか見えない)



安土城趾の大手道

 天主台まで行けば、比良山は見えるが、伊吹山は木々の陰に隠れて見えない。大正時代はさらに鬱蒼とした山のままであったろうから、およそ周囲を見渡すことはできなかったと思われる。



安土城の天主台から琵琶湖側を望む。眼下の農地は戦後に
干拓された土地。それ以前は内湖が琵琶湖まで続いていた。

 

左:ハ見寺の三重塔     右:安土城址の碑
観音寺城(1568年放棄)

 安土山の隣にある、繖山に築かれていた城。繖山は近江盆地の中にある独立した山としては最も高い(標高432.9m)。城の起源は南北朝時代の1335年頃と推定されており鎌倉時代から近江南部を治めた守護大名の佐々木六角氏が居城とした。中世最大の山城だったとされているが、配下の豪族が、それぞれにまとまって郭を築いた砦の集合体のような形であったと考えられている。



滋賀県安土町繖山(観音寺城跡)

 応仁の乱では佐々木六角氏は西軍、同族である佐々木京極氏が東軍と別れて争い、以後も仲違いを続けて観音寺城を舞台に何度もの戦が行われた。戦国時代末期には六角氏配下の浅井氏が独立するなどして六角氏の勢力は次第に衰え、最後の城主となった六角承禎が織田信長に追い出される形で城が放棄され、観音寺城はそのまま廃城となった。



滋賀県安土町繖山(観音寺城跡)

 安土山を見下ろす位置にあるため、安土城建設時には防衛の観点から、多少手を入れられたこともあったらしい。山の東側中腹に観音正寺、南側中腹に桑実寺がある。現在も当時の郭跡や石垣が残されているが全体的には鬱蒼とした山林に覆われたただの「山」にしか見えず、周航の途中にこの山に登ろうとするとは、およそ想像出来ない。



繖山(観音寺城跡)と安土山(安土城趾、右手前の低い山)

八幡山城(1585年築城、1595年廃城)

 豊臣秀吉の甥であり養子であった秀次(当時は羽柴姓)により築かれた城。安土城の城下町をそのまま移転しており、城の建築においても安土城の資材を流用した。城下街は碁盤目に整理されており、琵琶湖から引かれた八幡堀は城の防御よりは水運の活用を主眼においたようで、商業的にも発展した。



滋賀県近江八幡宮内町八幡山を西の湖から望む(八幡山城趾、村雲瑞龍寺)

 1590年に秀次が尾張・清洲城へ移され、代わって京極高次が入城したが、秀次が改易されると京極高次は大津城に移り、八幡山城は廃城となった。

 秀次は、淀(豊臣秀吉の側室、浅井長政と市との娘の茶々)が秀吉の跡取りになる秀頼を生むと、以後、秀吉から疎まれるようになり、謀反の疑いをかけられて改易=切腹させられてしまった。一般には凡庸・無能な武将とされ、あまり芳しい評判が残されていない。しかし、客観的に見て失敗らしい失敗は、まだ秀吉と家康が争っていた小牧・長久手の戦いの敗戦くらいである。家来にめぐまれたこともあるが、以後は無難に功績を残している。また、宣教師ルイス・フロイスらからの評判も悪くない。よって悪評判は改易後に意図的に貶められた評価だろうと再評価されつつある。秀吉は、秀次改易に伴い秀次の一族郎党に、さらに縁の深い者たちまで処刑したため豊臣家臣団の分裂を招き(跡継ぎ争いを未然に防いだという意味合いもあるが)愛想をつかした武将達が徳川方に協力するようになったこともあり、豊臣家滅亡を早めてしまったと受けとめられている。

 八幡山城は、秀吉による天下統一により戦国に終止符が打たれ、豪華絢爛な安土桃山時代が花開いた、その最後に短く咲いた悲劇の城である。



八幡山を南から望む(八幡山城趾、村雲瑞龍寺)

 現在は頂上の本丸跡に秀次の母の日秀(智)が開いた瑞龍寺が建てられ、ロープウエイで手軽に登ることができる。瑞龍寺は、元々は嵯峨の村雲に開かれたが、江戸時代に西陣に移転し、さらに昭和36年(1961年)に八幡山城に移転されたものである。大正時代の八幡山の様子についての資料は手もとに無いが、瑞龍寺移転前には特に整備されていた様子はなく、山林と竹林に覆われていた物と推察される。それに八幡山城では6番の長命寺を飛ばしてしまうことになる。



一時は埋め立ててしまえという無粋な案も出た八幡堀。

 以上のように、少なくとも大正6年時点で「古城」の風格を備えていたのは彦根城だけなのである。小口太郎は、彦根城が一度も戦乱に巻き込まれていないのを理解した上で、彦根城築城に至るまでの、合戦に明け暮れた近江平野の歴史に思いを馳せてこの五番を詠んだと解釈すべきであろう。

諏訪湖周辺の古城

 小口太郎の出身地である諏訪湖周辺も古戦場であり、諏訪湖を囲むように多くの城があった。小口太郎の顕彰碑が建つ釜口水門の南側の山に花岡城跡(現・花岡公園)少し南には小坂城跡がある。このあたりは平安時代から武士と神官双方の性格を合わせ持った豪族「諏訪氏」により治められていた。花岡城は諏訪氏の同族である花岡氏の居城、小坂城も同様に諏訪氏から別れた小坂氏の居城であった。諏訪氏は戦国時代初期には甲斐の武田と争い、一時は和陸して同盟関係を結んだものの、武田信玄の時代になると再び仲違いし、諏訪頼重の代に武田に滅ぼされた。小坂城、花岡城も前後して廃城になった。花岡城跡は花岡公園になっているが、石垣さえ見当たらず僅かに土塁の痕跡が残る程度である。小坂城に至っては主郭があった場所を中央自動車道が通っており、跡形もなくなっている。

 戦国大名としての諏訪氏は、武田に滅ぼされたのだが、諏訪氏最後の頭首頼重の娘の諏訪御料人(『風林火山』では由布姫)は武田信玄の側室となり、武田家の総領四郎勝頼を生むのだが、武田家自体が最後は織田信長によって滅ぼされてしまう。

 この成り行きは、浅井長政と市との娘の茶々が、長政と市を死に追いやった豊臣秀吉の側室となり、世継ぎの秀頼を生むが、最後は徳川により滅ぼされてしまう過程によく似ている。

 諏訪頼重の従兄弟の頼忠は神職として生き延び、徳川家康に仕えて大名として復権し、諏訪氏を再興、頼忠の息子の諏訪頼水が関ヶ原の合戦での功により高島藩に封ぜられ再び諏訪湖畔を治めることになった。諏訪高島城は、復権した諏訪氏が一時的に武蔵国に転封された間に日根野高吉により建てられたもので、城郭が諏訪湖に突出した浮城であった。場所は、小口太郎が生まれた湊村の対岸になる。高島城は幕末まで諏訪氏の居城として受け継がれ、廃藩置県で高島県になった際には県庁舎として利用されたりもしたが、明治8年に建物は解体されて石垣と堀のみとなり、翌明治9年から高島公園として一般に開放された。現在の天守閣は昭和45年(1970年)に再建された物である。

 高島藩は諏訪湖の干拓に力を入れ、浮城であった高島城も、すでに江戸時代に水田の中に浮かぶ城になってしまっていたようである。干拓といっても堤防で囲って排水する干拓ではなく、諏訪湖そのものの水位を下げることで陸地を増やす手法であった。

参考資料:「車山レアメモリー」より「諏訪湖・高島城」

 長野県が製作した〜諏訪湖学習読本〜 、みんなで知ろう「諏訪湖のあゆみ」平成14年度版に、明治39年に水田に浮かぶ?高島城付近の写真が掲載されている。
 小口太郎が通っていた旧制の諏訪中学(現・諏訪清陵高等学校)は高島城の少し山側にある。生家に近い、湊村側の花岡城と小坂城は、すでに「古城」の趣すら残されていなかったが、高島城の方は、既に建物は無かったとしても公園として整備された石垣には十分に「古城」風格が残っていただろう。小口太郎は、その石垣の上から諏訪湖に映る夕陽を眺めたりもしただろう。そして彦根城の石垣からも、同じように琵琶湖に映る夕日を見ただろう。戦国の世に翻弄された女性である諏訪御料人と浅井三姉妹の茶々のことを重ね合わせもしただろう。それら全ての想いが「矢の根は深く埋もれて 夏草しげき堀の跡」に込められたのである。




滋賀県彦根市松原町 松原水泳場


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滋賀県近江八幡市長命寺から比叡山に沈む夕陽を望む

6番   西國十番長命寺
汚れの現世(ウツシヨ)遠くさりて
黄金の波にいざこがん
語れ我が友 熱き心

西國十番長命寺

 西国三十三箇所は近畿地方+岐阜県にある33カ所の観音霊場の総称である。33カ所を巡礼すれば、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し極楽往生できるとされている。長命寺はこの三十一番目であるが、歌詞は十番になっている。これはおかしい、という指摘は、すでに小口太郎自身が周辺から受けている。が、彼は「三十一番では長くて、歌に、はまらないじゃないか」と答えている。また、巡礼の順序は時代によって変わっており、周り方によっては長命寺が十番になる、という説もある。



滋賀県近江八幡市長命寺 長命寺港にある琵琶湖周航の歌6番歌碑  歌碑拡大

 何番でも良いのであるが、歌碑を建てる段になると、当の長命寺からクレームが付いたそうである。反論出来ないのだが、かといって歌碑だけ三十一番と書く訳にもいかない。結局は長命寺住職の好意で、問題の部分を省けばよいということになり、長命寺歌碑の主碑には6番後半の「黄金の波にいざこがん 語れ我が友熱き心」だけが彫られている。(ただし副碑には全歌詞が彫られている)

 
長命寺港琵琶湖周航の歌の歌碑 副碑(全歌詞) 拡大 歌碑の由来 拡大
汚れの現世(ウツシヨ)遠くさりて

 続く「黄金の波にいざこがん」から、仏教思想的な色彩を感じるのであるが、仏教用語としての「現世」は、古くは「げんぜ」とも読み、「うつしよ」は神道での読み方になる。竹生島からして神仏習合の寺社であるから、ここはカタいことは云わない。



長命寺港桟橋から長命寺に向かう石段方向を望む

黄金の波にいざこがん

この歌詞に落ち着く以前の歌詞として、
   「白銀の波に漕ぎゆかん」
   「白金(シロガネ)の波にいざこがん」
   「白い銀波をいざこがん」
と、三通りの歌詞が残されている。いずれも白波のイメージである。「黄金の波」になると、これは夕陽に照らされた琵琶湖になる。歌の終結部を盛り上げるために「黄金の波」を持ち出した改訂歌詞にはセンスの良さを感じる。この改訂により琵琶湖周航の歌の色彩感はさらに奥深い物になっている。が、長命寺で夕暮れになってしまっては、とてもじゃないが大津には帰れない。季節は夏至を過ぎたばかりで、一年で一番昼間が長い時期なのである。



岡山から長命寺方向を望む

 波を「白銀」とした部分の他に、改訂歌詞が消してしまった「けむる狭霧」「小松の里の少女子」「佛の御手に抱かれた乙女」といった部分、歌い慣れてしまった事を差し引いても、改訂歌詞の方が、よりメロディに合い、より詩的な響きを持っていると感じる。歌詞を改訂した三高文芸部員達の力量に寄るところ大である。しかしながら、改訂歌詞が消してしまったこれらの部分に(私は)小口太郎が理系人間であったことを感じる。文学的な響きより、より実態を忠実に描写・記述を優先する理系研究者の写実主義というか、ある種の生真面目さを感じるのである。



白銀の波

 大津出港時、湖面は「さざなみ」である。つまり風は弱く、狭霧は風に流されずに、行方を朧気に煙らせていたのであって、立ち昇っていたわけでは無かったのだ。小松の里で悲恋に泣いていたのは、乙女子には満たない少女だったのだ。竹生島で佛に抱かれていたのは乙女子ではなく自律した女性:乙女であったのだ。

見よ! 黄金の波は今や漕ぎ行かんとす
る湖に輝く。力を合わせ波涛をを漕ぎ分け
時に楽しく時に苦しかりし浪路を振り返
り最後のコースに艇を進めんとす。

 長命寺の歌碑の由来書の筆者は明かされていないが、その冒頭は他のどの碑の由来書よりも熱い。しかし、これは6番歌詞の文学的演出に煽られすぎているのである。周航の帰路、長命寺を過ぎるあたりはまだ日が高く、クルーは、湖面に立つ白波の上を大津港に向かって漕ぎ進んだのだ。



滋賀県近江八幡市長命寺 長命寺港

語れ我が友 熱き心

 昭和中期に見られた「語れ乙女子」は、戦後の混乱の中で編纂された三高歌集昭和22年版での誤記によるものであろう。この歌詞が野ばら社の歌集に再掲載されてしまい、さらには早稲田大学合唱団までがこの歌詞を歌ってしまっている。ここで、小松の少女子や、佛の御手にいだかれた乙女に熱き心を語らせたら女の恨み節になってしまいかねない。

 ここは「語れ我が友」でなければならない。この6番で友情を歌い上げ、琵琶湖周航の物語は完結するのである。三高OB諸氏は口を揃えて「ここが一番好きだ」と云う。同感である。3番や4番までで歌い終わるようでは、琵琶湖周航の歌を歌ったことにはならないのである。


諏訪湖畔、小口太郎顕彰碑と共にある歌碑に掲載されている歌詞(昭和63年10月)


拡大画像  江崎玲於奈氏の筆による

公開   2009.01.21.
追記   2009.03.29.
追記   2010.05.04.
大幅改訂   2010.12.25.
画像追加   2011.01.05.
追記   2011.01.21.
追記   2011.03.04.
追記   2011.04.14.
画像追加   2011.05.02.

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