琵琶湖周航の歌
Circumnavigation on the Lake Biwa

「琵琶湖周航の歌」研究史




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「琵琶湖周航の歌」研究史年表

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1.誕生のエピソード

 「琵琶湖周航の歌」について、最初に系統的調査研究を行ったのは堀準一氏である。

 堀氏は旧制第三高等学校(理甲)を昭和7年に卒業、京都帝国大学にて物理を専攻、年代からして従軍経験もありそうだが本人語らず、帝人に勤務の後、退職後は弁理士として活動された。

発端

 堀準一氏が「琵琶湖周航の歌」について調査を始めたきっかけは、昭和45年(1970年)に発売されたリーダーズダイジェスト社のレコード集「忘れ得ぬ日本のメロディー」の解説に、

 「琵琶湖周航の歌は明治末期から大正初期頃につくられたものと推定されているが、製作年代はもちろん、作詞作曲の小口太郎についても詳しいことは全く解っていない」
 と書かれていたのを目にしたことによる。旧制第三高等学校で生まれた寮歌、学生歌をまとめた「三高歌集」には「大正八年 小口太郎作詞作曲」と明確に書いてあり、作者とされていた「小口太郎」も第三高等学校に在籍した先輩であろう事は、堀氏にすれば自明であったわけである。
 堀準一氏の誕生年は「琵琶湖周航の歌」関連資料の中では明らかにされていないが、三校卒業年次から逆算すると1910年頃と推定出来る。1970年頃には60歳前後と企業の定年退職時期になる。堀準一氏の帝人入退社年も明らかではないが、終戦前後であれば当時は「帝国人造絹絲株式会社」である。人造絹糸、略して人絹=レーヨンは天然パルプを原料とするセルロースを工業化学的プロセスで長繊維化した再生繊維である。戦前はレーヨンの輸入が途絶えたため国内生産が盛んであった。「○○レーヨン」という名の企業が少なからず存在するところからも理解出来よう。しかし、戦後はレーヨンの需要が急落し、化学合成繊維であるナイロンの技術導入を行った東洋レーヨン(現・東レ)に押され、帝人は倒産寸前にまで至る。その帝人を立て直したのが名物社長の大屋晋三氏で、ポリエステル繊維の技術導入を成功させて息を吹き返した。昭和37年(1962年)に社名を「帝人株式会社」に変更する。高度経済成長に乗って迎えた昭和45年(1970年)、帝人は「未来事業部」を作り、50以上の新規事業を立ち上げる拡大路線を推し進めたが、昭和48年(1973年)の第一次石油危機により頓挫する。堀氏の退職はちょうどこの時期に重なることになる。

元歌は「ヒツジグサ」

 堀氏は三高卒業者名簿により小口太郎(大正八年二部乙卒)が既に逝去者となっていることを確認、小口氏と同クラスだった一井新次氏にコンタクトし、そこから小口太郎と一緒に琵琶湖周航を行った中安治郎氏と谷口謙亮氏とのコンタクトし、谷口氏から
 「大正7年の周航の途中でクルーの一人中安治郎が『小口がこんな詩を書いた』と皆に紹介し、詩には曲をと試行錯誤した中で『ひつじぐさ』(谷口氏メモでは『ヒツジ草といふ歌の譜』)のメロディで歌ったらぴったりだった」
というエピソードを聞き出した。「琵琶湖周航の歌」はどうやら「ヒツジ草」という歌の替え歌らしいということは、こうしてかなり早い時期に判明した訳であるが、その「ヒツジ草」とは如何なる歌であるか、については「谷口氏が『岡本氏から教わった』」という以外に情報がなく、その「岡本氏」が誰なのか?が次の調査テーマとなった。

 堀準一氏は、さらに小口太郎の実弟小口秀雄氏ともコンタクトし、生前の小口太郎についての多くの資料を得たが、残念ながら「琵琶湖周航の歌」に関する直接的な資料は小口家には残されていなかった。小口秀雄氏は、この少し後の昭和47年(1972年)4月23日に逝去されている。


「ヒツジグサ」とは如何なる曲か?

 堀氏が谷口謙亮氏に問い合わせた時点で、50年以上前の出来事なので無理もないことだが、谷口氏の記憶はかなり混乱していた模様である。谷口氏が堀氏に渡したメモには「岡本氏から『ヒツジ草』を教わった。岡本氏はテニスをやり、オルガンを弾く。(森田著書p108)」ことまでは書かれていたが、岡本氏の素性までは思い出すことができなかったようである。

 堀氏は、この岡本氏が誰であるか?を大正期の三高生の中に探し続けていたが、さほど珍しくもない姓であり難航していた。ところが、偶然にも、日本経済新聞に掲載された土井正治氏(大正6年一丙)の「私の履歴書」に元侍従の岡本愛祐氏の名を見つけ、昭和46年(1971年)9月10日にコンタクトしたところ、この岡本愛祐氏こそが、谷口謙亮氏に「ヒツジ草」を教えた「岡本氏」であることが判明した。

 岡本愛祐氏は三高時代は庭球部に所属し、当時親交のあった和田武氏に「ひつじぐさ」を教えてもらったとのことである。和田武氏は、桜楽会という音楽サークルに所属し、岡本氏と和田氏は協力して「庭球部の歌」を作曲したという仲である。「ひつじぐさ」は桜楽会を指導していた陸軍第四師団軍楽隊の宮崎利武楽長補がガリ版刷りの楽譜をメンバーに配って教えた、ということである。

 岡本愛祐氏は、オルガンを弾き、庭球部の歌の作曲に係わったくらいであるから音楽にも長けており、50年前に覚えた「ひつじぐさ」の三番まである歌詞とメロディをほぼ正確に覚えていたのであった。しかし残念ながら楽譜は戦災で失われており、作詞作曲者までは覚えてはいなかった。ともかく堀準一氏は「琵琶湖周航の歌」の元歌であった「ひつじぐさ」の歌詞までは辿り着いたのである。堀準一氏は、ここまでの経過をまとめて論文「琵琶湖周航の歌とその作者(昭和46年(1971年)10月記)」として昭和47年(1972年)8月に発行された三高同窓会報41号(安田編書p92)にて発表した。(大正7年は谷口氏の記憶違いで、実際には大正6年の6月であったことが判明している。)

 なお、堀氏は後日、「ひつじぐさ」の調査に国立国会図書館まで足を伸ばした(1971年6-7月か?)が、この時は何も手がかりを得られなかったと述べている。(堀準一「琵琶湖周航の歌と『未草』(続)」会報51号1979、森田著書p110)
 堀準一氏が調査を開始した1970年末には、森重久弥の「知床旅情」(1960年)を加藤登紀子が10年ぶりにカバーして大ヒット。堀準一氏が調査を精力的に進めていたであろう1971年には、加藤登紀子がLP「日本哀歌集(知床旅情)」を発表。柳の下の泥鰌を狙うレコード会社が、そのLPに収められていた「琵琶湖周航の歌」をシングル「少年は街を出る」のB面としてシングルカットした。同シングルは、やがてB面の「琵琶湖周航の歌」の方が注目を集め「琵琶湖周航の歌」が全国的に大流行したのであった。


2.「ひつじぐさ」は英国の歌か?

 堀準一氏が「琵琶湖周航の歌」に関する最初の論文を発表した三高同窓会報41号1972(以下会報##号と略記)には「衝濤会全国大会の懐古座談会」が掲載されており、それには五十嵐巻三氏が「琵琶湖周航の歌原曲がイギリス歌謡ひつじぐさ」と発言したことも掲載されていた(安田編書p118)。以後この「イギリス歌謡」という不十分な情報が「琵琶湖周航の歌」のルーツ探しを混乱に落として行くことになる。
 堀氏は谷口謙亮氏、中安治郎氏らから、おそらくは『「ひつじぐさ」は英国の曲らしい』という情報を得ていたが、当初から「怪しい」と考えていたようで、会報41号掲載の「琵琶湖周航の歌とその作者」では、全く触れていない。

 成蹊大学文学部日本文学科教授の安田保雄氏はこの会報41号を読み、「琵琶湖周航の歌」が安田氏自身の専門である比較文学の対象になり得ると考え、堀氏とは別個に調査を開始した。

 昭和47年(1972年)秋、安田保雄氏は、旧知の小川和夫(英文学)教授に、英国に「ひつじぐさ」の詩のルーツがあるはずだとして調査を依頼した。しばらくして、小川和夫氏は、「英文学に現はれたる花の研究」という書物の中に石川林四郎訳の睡蓮(Water-LiLies)を見つけ出した。石川氏の訳は、安田氏から提供された「ひつじぐさ」とは異なるが「ひつじぐさ」が原詩:Water-Liliesの訳であることは明白であった。石川林四郎氏の訳も「ひつじぐさ」と同様に七五調でまとめられており、あたりまえだが、琵琶湖周航の歌によく合った。

 「Water-Lilies」の原詩作者は「E.R.B.」と表示されていたが、これが作者のイニシャルであるのか、あるいは組織・団体などの略称であるのかは、未だに明確にはなっていない。(安田編書p118-p122)

 昭和48年(1973年)の春、安田保雄氏は、安田氏の次兄が英国出張する際に「Water Lilies」の調査を依頼し、次兄氏の勤務先のロンドン駐在員にも調べてもらったようだが新たな情報は得られなかった。


 昭和48年(1973年)、第三高等学校が琵琶湖周航を開始して80周年にあたるこの年、大津市三保ヶ崎にある旧三高艇庫横に琵琶湖周航の歌の歌碑が建立された。主碑には「われは湖の子」、副碑には「琵琶湖周航の歌」全歌詞が刻まれた。除幕式は昭和48年(1973年)6月3日。除幕のテープを引いたのは小口太郎の甥にあたる小口博義氏の令嬢小口夕香さん(当時小学校二年生)であった。
 会報41号の「衝濤会全国大会の懐古座談会」にて「イギリス歌謡・・・・」と発言した五十嵐巻三氏は、この歌碑建立実行副委員長で、主碑の「われは湖の子」は五十嵐氏の筆である。

 昭和48年(1973年)10月、安田保雄氏は小口太郎の実家を訪問した。実弟の秀雄氏、光雄氏は既に故人であったが、甥の富久雄氏と面談することができた。富久雄氏からは、小口太郎の人物像を聞くことができたが、琵琶湖周航の歌についての情報は得られていない。この時の経緯は会報第44号(1974)に「小口太郎先輩の生家を訪ねる」で述べられている。

 昭和48年(1973年10月)11月10日、安田保雄氏は同窓会で知り合った元国立国会図書館副館長の斉藤毅氏に「Water Lilies」ないし「ひつじぐさ」の調査を依頼した。

 12月8日、斉藤毅氏から調査を依頼された国立国会図書館音楽資料室の担当者が、以前にも「ひつじぐさ」の調査に堀準一氏が訪れていた事を知り、逆に堀氏に「以後、何か情報はないか?」と問合せ、堀氏も別の人物が「ひつじぐさ」を追いかけていることを知ることになった。堀氏は当時も自分の調査結果を国立国会図書館に提供していたが、改めてコピーを音楽資料室に提供し、加えて以後に得たエピソードなどから「おそらく『ひつじぐさ』は日本人の作であり、英国には解は無かろう」との見解を伝えた。

 年末に、国会図書館は大英博物館に事の次第を伝え、E.R.B.作「Water Lilies」の調査を依頼した。

 昭和49年(1974年)、大英博物館は、明治8年(1875年)に出版された「Songs for Little Friends」という児童向けの唱歌集に E.R.B.「Water Lilies」の楽譜を見つけた。その知らせはこの年の年始に国会図書館にもたらされ、安田保雄氏、堀準一氏双方がその楽譜の写しを入手した。「Water Lilies」は確かに石川林四郎氏が訳した「睡蓮」の原詩であったが、メロディの方は素人目にも「ひつじぐさ」とも「琵琶湖周航の歌」とも似つかぬことは明白であった。

 すなわち「ひつじぐさ」の詩は、間違いなく英国の児童唱歌「Water Lilies」の訳なのであるが、曲に関してはは全く別の曲であるということが明確になった訳であるが、それは同時に「ひつじぐさ」という曲に関する手がかりが途切れてしまった事を意味するのであった。安田保雄氏はここまでの経過を論文「琵琶湖周航の歌とWater Lilies」にまとめ、三高同窓会報44号(1974)に発表した。


3.「ひつじぐさ」テレビ番組になる。

 昭和49年(1974年)、「琵琶湖周航の歌」の謎に取り憑かれた三人目の人物:飯田忠義氏がNHK大津放送局に赴任した。飯田氏は以前から興味を抱いていた「琵琶湖周航の歌」の調査に乗り出した。

 飯田氏は堀準一氏、安田保雄氏らの調査を踏まえ、関係者にインタビューを重ね、その結果を「『われは湖の子』−琵琶湖周航の歌物語」という特集番組にまとめ、昭和50年(1975年)9月18日に近畿地方で放映した。この番組は好評だったため同年11月23日にNHK「日本ところどころ」近畿特集番組「琵琶湖周航の歌」として全国で放送された。

 飯田忠義氏の調査では特に新しい情報は見いだされていないが、この番組をきっかけに岡本愛祐氏が歌う「ひつじぐさ」が、ようやく録音・採譜されたことを特筆出来よう。一般家庭にカセットテープレコーダーは普及しだしていた頃であるが、VHSやベータムービーというホームヴィデオはまだ一般家庭には普及していなかった時代である(ソニーがベータマックスを発売したのが1975年、松下電器がVHSヴィデオデッキを発売したのは1977年。)

 岡本愛祐氏の歌唱は、NHKと、それとは別個に岡本家でも採譜され、両者が堀準一氏に届けられた。
「ひつじぐさ」と「琵琶湖周航の歌」の楽譜比較

堀準一氏は、昭和53年(1978年)秋発行の三高同窓会報50号に「琵琶湖周航の歌と未草」(1978.3月記)を投稿し、その中に、
 ・岡本愛祐氏歌唱の「ひつじぐさ」
 ・三高歌集掲載の「琵琶湖周航の歌」
 ・実際に歌われている「琵琶湖周航の歌」
の五線譜を掲載した(森田書p89-90.に転載)。が、この時点では「ひつじぐさ」のメロディに関しては触れず、メロディについて論究するのは翌昭和54年(1979年)の会報51号と昭和57年(1982年)会報56号においてである。
 

楽譜部分拡大 p.89 p.90
出典:森田穣二, "吉田千秋「琵琶湖周航の歌」の作曲者を尋ねて 増補改訂版", pp.89-90, 新風舎, 2000.08.20.

 ここに掲載された岡本愛祐氏歌唱の楽譜は、岡本氏の孫にあたる村上(現:桑山)初穂さん(堀氏は「ピアノを能する」と紹介)によるものである。  採譜時の状況については当サイトBBSに、採譜者御本人から貴重な情報を頂戴することができた。

「私が採譜をしたのはテープからではなく、自宅のダイニングルームで祖父が歌うのを目の前に書き取ったものです。実際に聴いた音を書きとり、歌声が半音の半分なら低いか高いか近い方の音符にしたはずです。採譜の目的はまったく知らなかったので、知っていれば、音楽的に手直ししていたかもしれませんが、とにかく祖父の歌ったそのままにしました。私の父も三高だったので、「われは湖の子」の歌詞もメロディーも子供の頃から聞き覚えてよく知っていましたが、「そっくりだけどやっぱり違う歌よねー」というのが私の率直な印象でした。
 それと、オリジナルは残っていないので何とも言えませんが、20代の自分のことを考えると、8分の6拍子で書き取ったとは思えません。おそらく4分の3拍子で小節数は倍(もちろん出だしは四分音符のアウフタクト)で採譜したと思うので、このサイトで写真にでているのは私の譜をもとにどなたかが8分の6に書き換えてくださった物ではないかと思います。」


 8小節目、本来F音であろうところがE音になっているのは誤記ではなく岡本氏歌唱で少々音程が怪しかったところが先の基準により正確に採譜されたものである。拍子の方は比較するために三校歌集の記譜に従って堀準一氏(ないし氏への協力者)が6/8拍子に書き換えたのであろう。ここで「実際に歌われている琵琶湖周航の歌」とされた旋律は昭和33年に出た三高創立90周年記念のレコードから採譜されたもの(こちら採譜者は明らかではない)で、堀氏は「新調」と呼んでいるが、本サイトで正旋律と呼び、一般には「正調」と認識されているメロディである。注:堀氏は三高歌集掲載楽譜を「正調」と呼んでいるが、三高歌集掲載譜は誤記だらけであり、このメロディで歌っている人は現在は(おそらく過去においても)存在しない。

 なお、加藤登紀子が歌った「新旋律」は検討対象になっていない。

 三高同窓会報51号と56号において、堀準一氏が、詳しく言及しているのは「しがーのみーやこーよー」の部分の「こーよー」の下がり方、特に6/8拍子で数えて3拍目で下がるか否かの点である。ここは旋律構成上は装飾ないし経過音であり旋律の成り立ちの上では本質的な意味は持たない。
 「われーはうーみのーこー」の「のー」に相当する部分の音程や、「しがーのみーやこーよー」「みーや」に相当する部分の差異が全音階的な「ひつじぐさ」と不完全ヨナヌキ音階の「琵琶湖周航の歌」との本質的な相異点であるが、この部分には全く触れていない。
 さらには、当時すでに加藤登紀子調が一般には広まっていたはずであるが、堀氏は登紀子調に関しては完全に無視しており論の中に入れていない。岡本愛祐氏の歌唱を採譜された村上初穂さんは、ピアノを弾き、歌唱から直接採譜ができる音楽的素養を有する方であり、この時点で、原曲「未草」、三校伝統の「正旋律」、加藤登紀子の歌う「新旋律」を音楽的に明確に区別したできていた方だと思われる。堀準一氏、飯田忠義氏がもう一歩踏み込んでコメントを求めていれば、旋律変遷過程もより早い時期に明らかになっていたかもしれない。


4.大正6年か大正7年か?

 琵琶湖周航の歌の元歌である「ひつじぐさ」とは如何なる曲か?という問題とは別に、中安治郎氏、谷口謙亮氏らが小口太郎の詩を「ひつじぐさ」のメロディで初めて歌った今津でのエピソードが、大正何年であるのか、という問題が論争になっていた。

 堀準一氏は、昭和45〜46年(1970〜71年)頃の谷口謙亮氏へのインタビューから、今津の宿で琵琶湖周航の歌が誕生したエピソードを大正7年としていたが、谷口氏の記憶が曖昧であったことと、その後の調査結果との間で矛盾点が生じてきたことから、昭和50〜51年(1975-76年)にかけ、大正6−7年の数々のエピソードの前後関係を整理し、今津のエピソードは大正6年であったと結論づけた。この結論は昭和51年(1976年)6月に発行された、三高同窓会報48号で予告広告され、さらに昭和52年(1977年)2月27日に安田保雄氏が自費出版した「小口太郎と琵琶湖周航の歌」に掲載されていた大正6年6月28日の今津局消印がある小口太郎直筆絵はがき画像が決定的な証拠となり、以上をまとめて昭和53年11月発行の三高同窓会報50において「琵琶湖周航の歌と『未草』として発表した。(脱稿は昭和53年(1978年)3月)。
 昭和55年(1980年) 神陵史−第三高等学校80年史が発行され「琵琶湖周航の歌」についても一節が割かれている。そこには、中安治郎が「小口がこんな詩を書いた」と周航メンバーに披露し、メロディを試行錯誤するなかで「ひつじぐさ」の節で歌ってみるとぴったりだったという誕生のエピソードと、安田保雄氏の編書に引用された大正6年6月29日今津局消印の絵はがきについても記述されている。しかしながら堀準一氏が三高同窓会報にて発表してきた論考はほとんど反映されておらず、

 ・誕生のエピソードが大正7年になっており(実際は大正6年)
 ・さらに、場所が彦根の宿(実際は今津の宿)
 ・「ひつじぐさ」は英国歌謡で、(もちろん日本人:吉田千秋の作)
 ・谷口謙亮氏に「ひつじぐさ」を教えた岡本愛祐氏は桜楽会の会員(実際は庭球部)
 ・大正8年の紀年祭に間に合うよう音符化され、歌集では大正八年とされた
  (大正7−8年間に採譜されたものは見つかっていない)
と、今日の定説とは随分ずれた記載になっている。掲載写真の周航メンバーの顔と名前も一致していない。神陵史は、第三高等学校のみならず、明治以後の日本の高等教育制度の貴重な記録として、編纂に20年を費やし、総ページ数も1000を越える大巻である。それだけに琵琶湖周航の歌に関する部分の記述が−−−発行時期が吉田千秋発見の報と前後している点を差し引いても−−−お粗末なのが惜しいところである。堀準一氏はこれらの点について、昭和56年(1981年)同窓会報53号において証拠をあげて徹底的に指摘している。堀準一氏の論説は非常に厳格で、かつ細部にまで緻密であり、さらに、時に攻撃的である。これは特許文書の文言の一字一句を取り上げて権利関係を争う場面が多い「弁理士」という職業ならではというところであろう。

 なお前後するが、安田保雄氏は、昭和52年(1977年) 2月27日に、小口家に残されていた小口太郎に関する書簡類と関係者へのヒアリング結果、関係者からの寄稿文などをまとめて「小口太郎と琵琶湖周航の歌」という書物を自費出版した。この書物に掲載されていた小口太郎手書きの今津局消印のある絵はがきが大正6年説の決定打になったのは前に述べた。またこの書物には堀準一氏の最初の論文「琵琶湖周航の歌とその作者(昭和46年(1971年)10月記)」も掲載されている。

 同じく昭和52年(1977年)には、NHKの飯田忠義も「琵琶湖周航の歌・小口太郎その生涯」という冊子を製作し、自費出版している。

 昭和54年(1979年)夏に発行された三高同窓会報51号には、堀準一氏の「琵琶湖周航の歌と『未草』(続)」が掲載された。堀氏は前半では歌詞について、後半ではメロディについて論じている。

 時期はかなりずれるが、野呂達太郎氏が平成元年発行の三高同窓会報70号「周航歌作詞の年について」において、大正6年の今津でのエピソードでは、まだ「案」であって、作品としての発表は大正7年と考えるべきであると主張した。

最新の三高歌集では、おそらくは、この考えが反映され
 ・三高歌集 三高創立125年記念-1993-
    昭和27年5月1日初版発行、
    平成5年5月22日改訂17版発行
 および  ・三高歌集 三高創立130年記念-1998-
    昭和27年5月1日初版発行、
    平成10年5月20日改訂18版発行
いずれにおいても 大正7年 小口太郎作詞、吉田千秋原曲 と表示されている。


5.作曲者:吉田ちあき登場

 昭和54年(1979年)冬に発行された三高同窓会報52号には大正6年頃の桜楽会メンバーの写真が掲載されていた。(おそらく)この年の年末から翌年にかけて堀準一氏は、会報52号掲載の桜楽会写真と同窓会名簿を付き合わせて桜楽会のメンバーを割り出して連絡を取り、そこからつてを辿って、真鍋左武郎氏が桜楽会員の楽譜を手写した「睡蓮」の五線譜(大譜表混声4部合唱)を入手した。その楽譜には「吉田ちあき作曲」と明記してあったのである。
 この真鍋左武郎氏の手写譜は、後に原典に正確であったことが確認された。桜楽会メンバーであった三木源三郎氏によれば「合唱指導の先生がガリ版刷り楽譜を配った」ということで、この「ひつじぐさ」の合唱譜も、同じようにして三高に持ち込まれたものであろうと推測された。

 # 桜楽会の合唱指導者は、飯田忠義氏によれば(出展不明)
 # 大阪の陸軍第四師団軍楽隊楽長補の宮崎利武という人物であった。
 堀準一氏が真鍋左武郎氏の手写譜に辿り着くまでの経過について、堀氏は「道程は長く・・・・・今は途中を省略する」として、せいぜい数行しか書き残していないが、相当に困難があったであろうことは想像に難くない。

 堀準一氏は、湖国と文化1980年夏号(12号)に投稿した「琵琶湖周航歌の実像」において、琵琶湖周航の歌の元歌である「ひつじぐさ」の作曲者が「吉田ちあき」であることを公開した。

 さらに堀準一氏は「吉田ちあき」について調査を進め、昭和56年(1981年)の後半から昭和57年(1982年)初頭にかけての期間に、国立国会図書館にて雑誌「音楽界」大正4年8月号に掲載されている「ひつじぐさ」吉田ちあき作曲を発見した。堀氏はこの楽譜と真鍋左武郎氏の手写譜を比較して手写譜が正確であることを確認した。そして、この楽譜で桜楽会メンバーが「ひつじぐさ」を習い、その歌が岡本愛祐氏を経て谷口謙亮氏に歌い継がれ、琵琶湖周航の歌のメロディになったというストーリーを完結させたのであった。
 堀氏は 国立国会図書館については以前(昭和46年(1971年)頃)にも調査を行っているが、当時は「ひつじぐさ」という曲名のみがキーだったのに対し、今回は吉田ちあきという人名が判明している点に加え、かれこれ10年経過しており、図書館の検索機能なども進歩していたのであろう。
 堀氏は、「吉田ちあき(千秋)」が他にも数点の歌曲や論説を残していることと、大正3年には東京市牛込区矢来町に在住し、大正4年に新潟県下に転居したことまでは突き止めたが、吉田千秋の消息はここでぷっつりと途切れてしまった。

 堀準一氏は、以上の経過を昭和57年(1982年)三高同窓会報56号に「琵琶湖周航の歌と『未草』(完)」として発表した。これにて琵琶湖周航の歌の原曲の作者が「吉田千秋」であるということが全国的に認識されるようになり、この頃から作詞:小口太郎、作曲:吉田千秋、ないし原曲:吉田千秋と表記されるようになった。


6.「吉田千秋」は何者ぞ?

 以後、昭和58年(1983年)から平成4年(1992年)までの間、「吉田千秋」に関する新しい情報は得られていない。
 この間、野呂達太郎氏による「赤い泊火」の由来記と、同じく野呂氏による「周航歌作詞の年」が三高同窓会報に発表された。野呂達太郎氏は昭和11年文甲卒、地元高島の出身で今津中学を経て第三高等学校に入学、さらに水上部に所属し周航も経験しているとの経歴の持ち主で、さらに三高歌集掲載の東征歌「男子一度誓いては」(昭8)の作詞者である。前者は「泊火」が、おそらくは小口太郎による造語であることを解説している。後者については前項で紹介したとおり、作品完成は大正7年と解するべきという主張である。
 平成4年7月1日、相楽利満(本名:佐藤茂雄)氏が「琵琶湖周航の歌の世界」を発行した。佐藤氏は京大ボート部出身で当時は京阪電鉄勤務、後に社長、CEO、2010年には大阪商工会議所の会頭に就任される人物である。この書は堀準一氏の論文や安田保雄氏、飯田忠義氏が発行した書物とは異なり、虚実からめたフィクションである。

 小口太郎は京大OB、時にボート部OBにとって、最も尊敬すべき先輩の一人である。その小口太郎の作と信じていた「琵琶湖周航の歌」が替え歌であったという事実は、彼等には俄には認めがたい事であった。しかもこの時期、元歌の作者の「吉田千秋」が何者であるのかが、皆目検討が付かず、さらに、小口太郎自身が「ひつじぐさ」のメロディより「寧楽の都」のメロディの方がよいな、と語ったエピソードが残されていたりするから、なおさら「琵琶湖周航の歌」は本来かくあるべきであったろう、というイメージが膨らむのである。佐藤氏によるフィクションに登場する小口太郎は、自分の手から離れて一人歩きして行く「琵琶湖周航の歌」を複雑な気持ちで見つめている。


 同じ事は堀準一氏も気にしていたようで、堀氏の研究の締めくくりとなった、三高同窓会報56号(1982)「琵琶湖周航の歌と『未草』(完)」の結尾を、
 「小口作曲」を抹殺したら三高生は「周航歌」に於て何をやったのかと落胆する人がいるかも知れない。然し肩身の狭い思いをする必要は少しもない。私は「ひつじぐさ」の楽譜があんなに堂々と当時の代表的な音楽雑誌に載っていようとは到底予想しなかった。そして私が発見できたのはこの雑誌が国会図書館に置かれていたからである。多くの人はこのダイヤの原石が路傍に転がっているのに気がつかなかった。それを桜楽会の合唱指導者が拾上げて三高に持込み、三高生はそれを磨き上げて不朽のものとしたのである。名馬は常に居るが伯楽は常には居ないと言われる。三高生はこの伯楽の役割を果たしたのであって、我々はそれを誇りにしてよいと思う。

このように結んでいる。

 堀準一氏は、おそらく精力的に「吉田千秋」を追いかけていたと思われるが、平成3年(1991年)に心筋梗塞で突然亡くなられた。

 1970年に堀準一氏が「琵琶湖周航の歌」のルーツ探しを始めなければ、恐らく中安治郎氏、谷口謙亮氏の、誕生のエピソードは世に知られることなく埋もれ、「ひつじぐさ」は国立国会図書館にただ一冊残された古い音楽雑誌の一頁として未来永劫に封印され、もちろん作曲者「吉田千秋」の名前も浮かんではこなかったであろう。琵琶湖周航の歌の調査は、本質的には堀準一氏ただ一人が行ったと言っても決して云いすぎでは無い。堀準一氏が吉田千秋の素性を知ることなく永眠されたのは大変に残念なことである。


7.吉田千秋、経歴の判明

 平成4年(1992年)の年末、八丁田倫(本名:弘部健次、歯科医師)氏と、今津町職員(当時は教育委員会主査)落合良平氏が、今津町町おこし委員会で知り合い、「琵琶湖周航の歌」による町おこしを発案した。ただし両者とも「琵琶湖周航の歌」については単に歌を知っているという程度で、3番歌詞の「今日は今津か長浜か」から「今津に何か関係あるのでは?」という程度の認識だった。

 二人は、そこから猛烈に資料収集を開始し、堀準一氏、安田保雄氏、飯田忠義氏らの調査結果を知り、「琵琶湖周航の歌」の誕生が今津であったことを知り、今津局消印の絵はがきを根拠に、消印の前日:大正6年6月27日を「琵琶湖周航の歌の開示の日」と定義して、翌平成5年(1993)6月27日に「琵琶湖周航の歌 開示75周年記念事業」を行うことを決めた。

 弘部氏と落合氏は、小口太郎らの足跡が今津町に残っていないかと、老舗旅館の宿帳などを調べたが、残念ながら収穫は無かった。となると残るは最後の謎「吉田千秋」である。なにかしら「吉田千秋」に関する新しい情報が得られれば、イベントに大きな花を添えることができるのである。

 年が明け平成5年(1993年)4月1日、落合良平氏は読売新聞に吉田千秋の情報求む記事を掲載したが、この時は全く反応が無かった。いよいよイベントも間近に迫った6月12日、落合氏は、今度は地域を新潟県に絞って新潟日報に吉田千秋の情報求む旨の記事を掲載した。


 当時、新潟県安田町で地理学者であった吉田東伍の企画展「吉田東伍とその周辺」の準備を行っていた旗野博氏が、新潟日報の記事に目を留めた。彼はこの企画展のために吉田東伍の系図を製作したのであった。彼の記憶に「千秋」がひっかかった。東伍の家族と親戚縁者には大きな功績を残した人が少なくない。叔父の旗野十一郎氏は著名な唱歌の作詞者であり、東京音楽大学で滝廉太郎を教えたこともあった。実弟の冬蔵氏は元新潟大学の文学部教授である。東伍の甥にあたる旗野美乃里は明治期に欧米を巡り、欧米人と日本人の体格の差を縮めるには食生活を改善せねばならぬと思い立って酪農業を始めた人物である。ところが千秋は若くして亡くなっていたため、その時点では特記されることもなく系図に名前が載っただけだったのである。系図を書いた旗野博氏だからこそ吉田東伍の早世した次男「吉田千秋」を思い起こすことができたのである。

 旗野博氏は即座に今津町教育委員会に電話を入れた。
 仰天したのは今度は今津町の方である。電話を受けた落合氏は「飛び上がる思い」であったと山村基経氏に語っている。(「千秋経歴判明の経緯」,潮,1933年12月号,)落合氏は旗野氏あてに資料をファクシミリで送信し、旗野氏はその資料を持って確認のために吉田冬蔵氏の元に走った。旗野氏はその時既に吉田東伍の次男「吉田千秋」が「琵琶湖周航の歌」の元歌「ひつじぐさ」の作曲者である「吉田ちあき」その人であることを確信していた。なぜならば、吉田ちあきが消息を絶った最後の住所「東京市牛込区矢来町」は、吉田東伍の東京の住居の住所だったからである。

 今津町が発信した「琵琶湖周航の歌の元歌の作曲者『吉田千秋』の素性判明」の報せは、全国的ニュースとなり、今津町に問い合わせが殺到した。

 小口太郎、吉田千秋、早世し、生前出会うことがなかった二人の絆が、今津の地で結ばれ、「琵琶湖周航の歌」のルーツ探しは完結したのであった。


8.後日談

 小口太郎と吉田千秋が結ばれる経緯については山村基毅氏が「潮」平成5年(1993年)12月号に「千秋経歴判明の経緯」として掲載、同記事は森田穣二編「吉田千秋『琵琶湖周航の歌』の作曲者を尋ねて」増補改訂版発行 平成12年(2000年)8月20日発行、に転載されている。

 平成6年(1994年)6月には相楽利満氏が代表を務める「琵琶湖周航を継承する会」が復元されたフィックス艇を漕いで、大津市堅田の杢兵衛造船所から今津までを周航した。相楽利満氏は平成4年(1992年)に「琵琶湖周航の歌の世界」を発行した本名:佐藤茂雄氏であり、「琵琶湖周航の歌の世界」の発行はフィックス艇復元資金集めの一環だったのである。ほぼ半日で40kmを漕ぎきるハードな周航のゴールを、今津では百名の地元市民合唱団が琵琶湖周航の歌で出迎えたのであった。

 八丁田倫(本名:弘部健次)が代表を務める琵琶湖周航の歌−うたの心−発行会編/著, 「琵琶湖周航の歌 −うたの心−」平成8年(1996年)11月1日発行、には、当事者自らの筆で、千秋判明までの経緯とこれらの後日談が掲載されている。


 平成9年(1997年)には、森田穣二氏により、吉田千秋の遺稿と、三高同窓会報に掲載され未出版の堀準一氏、野呂達太郎氏らの論文を集め、「吉田千秋『琵琶湖周航の歌』の作曲者を尋ねて」(1997.02.18.)が発行された(平成12年(2000年)8月20日に増補版発行)。

 森田穣二氏は昭和23年に第三高等学校文乙を卒業、東大文学部を経て都立高校の教諭をされていた。堀準一氏が亡くなられた際には遺稿集の出版も考えられたとのことであったが、吉田千秋の経歴が判明し、千秋が森田氏の務めていた東京都立戸山高等学校の前身である東京府立第四中学校の卒業生であった事を知り、吉田千秋の作品を世に出すことが自分の天命であると悟った方である。

 吉田千秋の遺品整理は、実弟の吉田冬蔵氏が担っておられたが平成9年(1998年)9月に冬蔵氏が永眠された後は旗野博氏らが受け継いで、吉田東伍の資料含め吉田家蔵書2万冊の整理を実施、平成11年(1999年)に全投稿原稿を含めた吉田千秋の遺稿が整理された。


 前後するが、平成9年6月には、今津町(現高島市)にて第一回「琵琶湖周航の歌」音楽祭合唱コンクール開催された。課題曲が「琵琶湖周航の歌」という一風変わったこの合唱コンクールは、今津町が高域合併で高島市の一部になった後も受け継がれ、毎年、琵琶湖周航の歌が生まれた6月に開催され続けている。

 さらに平成10年(1998年)4月、今津町(現高島市)に「琵琶湖周航の歌資料館」が開設された。

 平成16年(2004年)9月25日、小菅宏著「『琵琶湖周航の歌』誕生の謎」発行

 平成19年(2007年)11月20日、元NHKアナウンサー飯田忠義氏が、改めてまとめ直した「琵琶湖周航の歌 小口太郎と吉田千秋の青春」初版発行、平成20年(2008年)2月10日再版発行。



9.残された謎

 琵琶湖周航の歌の誕生にかかわる直接的な出来事は、吉田千明が「Water Lillies」の原詩に出会ったことだと云えよう。吉田千明は、おそらくは雑誌「英語青年」で「Water lilies」の原詩と、石川林四郎の訳詞に触れたはずである。では、石川林四郎は、どこで「Water lilies」に出会ったのであろうか?

 「英語青年」に連載された内容は後日「英文学に現れたる花の研究」という一冊の書物にまとめられ出版された。「Water lilies」も掲載されているが、出展に関しては何も述べられていない。堀準一氏の著述の中に、一言「英語歳時記」という書物名が出てくる。研究社が発行した全6巻の書物であり、植物の項に「Water Lilies」が掲載されているのであるが、出展については「石川林四郎が『英文学に現れたる花の研究』という書物で「Water Lilies」を紹介しているので、ここに掲載する。」と述べられているだけで、原典については全く触れられていない。

 石川林四郎がまとめた書物は「英文学に現れたる・・・・・」というタイトルであるが、我々が知っている「Wate lilies」は児童用の歌唱教材に掲載された短い歌曲の歌詞であって「英文学に現れたる・・・・」と書かれると少々違和感がある。もしも原詩が著名な英文学作品に登場するのであれば(私自身は文学方面には全くの不案内者であるが)、三高ならびに京都大学出身の著名な文学関係者の方々が見逃すわけはなかろう。「Water Lilies」は、ほぼ間違いなく、児童歌集「Songs for Our Little Friends」の中の一曲として石川林四郎の知るところとなったはずである。

 では、石川林四郎はどこで「Songs for Our Little Friends」と出会ったのであろうか?

 この謎については章を改めて論じることにしたい。

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「琵琶湖周航の歌」研究者

堀準一 (1911年?−1991年)

 第三高等学校昭和7年理甲卒、京都帝国大学物理専攻、帝人に勤務の後、退職後は弁理士として活躍。「琵琶湖周航の歌」の生い立ちについて最初に系統的研究を実施。作詞者小口太郎の三高時代の同級生ら大正期の周航関係者へのインタビューと資料を付き合わせ、「琵琶湖周航の歌」が大正6年の周航時に誕生したこと、原曲作者が吉田千秋であることを突き止めた。平成3年、吉田千秋の詳細が判明する前に永眠。

安田保雄 (1914年3月31日 - 1998年6月)

 福島県白河市出身、1934年に第六高等学校卒業、1937年に東京帝国大学文学部国文科を卒業。立教大学講師、鶴見女子大学教授を歴任。1969年から成蹊大学文学部日本文学科教授、1982年 同大定年退職、同大非常勤講師(1989年まで)。1977年に編書『小口太郎と「琵琶湖周航の歌」』を学友社から自費出版、1979年に同増補版』を学友社から自費出版。

飯田忠義

 昭和13年東京都出身、横浜市立大卒業後昭和36年にNHKにアナウンサーとして入局。昭和49年(1974年)〜昭和54年(1979年)まで滋賀県の大津放送局に赴任、学生時代から好きだったという「琵琶湖周航の歌」の取材を開始し、旧制三高の同級生への取材を基に特集番組を製作。平成7年にNHKを定年退職後NHK京都文化センターに平成15年まで勤務。1977年に「琵琶湖周航の歌 小口太郎の生涯」を自費出版。2007年に「琵琶湖周航の歌 小口太郎と吉田千秋の青春」を自費出版。http://www.shinshu-liveon.jp/www/topics/node_55047

野呂達太郎

 滋賀県高島市出身、今津中学を経て第三高等学校に入学、昭和11年文甲卒、水上部に所属し琵琶湖周航を経験。三高同窓会報に「赤い泊火について(会報60号1984年)」、周航歌作詞の年について(会報70号1989年)」を寄稿。周航80周年記念「琵琶湖周航記念碑」建碑委員、三高歌集「東征歌」の作詞者 。

森田穣二

 昭和2年(1927年)兵庫県出身、大阪府立(旧制)北野中学校卒業後、第三高等学校に進学。昭和23年(1948年)第三高等学校文乙卒、昭和29年(1954年)旧制東京大学文学部独文学科卒業。山崎学園富士見中学高等学校教諭を経て昭和30年(1955年)から東京都立高等学校教諭。芝商業高等学校定時制、井草高等学校をへて、昭和40年(1965年)から東京都立戸山高等学校教諭。戸山高等学校の前身は吉田千秋の卒業した東京府立第四中学校である。昭和63年(1988年)東京都公立学校教諭定年退職。平成元年(1989年)から平成5年(1993年)両国予備校講師。平成9年(1997年)編書「吉田千秋『琵琶湖周航の歌』の作曲者を尋ねて」発行。平成12年(2000年)編書「吉田千秋『琵琶湖周航の歌』の作曲者を尋ねて」増補改訂版発行

弘部健次 (筆名:八丁田倫)

 高島市今津町にて歯科医院経営、琵琶湖周航の歌発行会代表。平成8年(1996年)11月1日 「琵琶湖周航の歌 −うたの心−」 発行。

稲尾節

 昭和17年(1942年)大阪府出身、フリーの記者、ルポライターとして長く東京で活動、1995年に琵琶湖西岸に移住。平成8年(1996年)8月、京都新聞に「琵琶湖周航の歌 −うたの心−」を20回にわたり連載。加筆・書き下ろした記事が同年11月1日に発行会から発行された「琵琶湖周航の歌 −うたの心−」に掲載される。

落合良平

 高島市役所勤務、平成5年時には今津町職員で教育委員会事務局。「琵琶湖周航の歌」開示75周年記念事業を推進。読売新聞、新潟日報に「吉田千秋の情報求む記事」を掲載。吉田千秋経歴判明につながる。

旗野博

 吉田東伍生家の分家にあたる。本業は建築大工。阿賀野市立吉田東伍記念博物館の設立当初からかかわり、現在に至っている。吉田東伍の自宅(新潟市秋葉区)に設立された吉田文庫の文庫長として東伍資料や、東伍次男の吉田千秋の資料も含めて研究維持に勤めている。安田町歴史地理研究会の代表、阿賀野市吉田東伍記念博物館協議会委員、阿賀野市文化財保護審議会委員、吉田文庫長。市島春城会幹事長。

小菅 宏

 集英社に勤務、同社編集者を経て1990年に独立。『琵琶湖周航の歌 誕生の謎』(NHK出版)

佐藤茂雄 (筆名:相楽利満)

 昭和16年(1941年)生まれ、昭和40年(1965年)京都大学法学部卒業、同年京阪電気鉄道株式会社に入社。平成7年(1995年)同社取締役、常務取締役を経て平成13年(2001年)同社代表取締役社長、平成19年(2007年)同社代表取締役CEO、平成22年(2010年)大阪商工会議所会頭。学生時代にはボート部に所属。平成4年(1992年)に「琵琶湖周航の歌の世界」を出版。琵琶湖周航に用いられた固定座席の漕艇:フィックス艇の復活を実現。平成16年(2004年)、大阪ロータリークラブ卓話にて「 琵琶湖周航の歌の謎」と題して講演。「ひつじぐさ」讃美歌起源説を説く。

山村基毅

 昭和35年(1960年)北海道苫小牧市出身、ルポライター。著書に『戦争拒否 11人の日本人』『森の仕事と木遣り唄』(ともに晶文社)、『はじめの日本アルプス』(バジリコ)など。1993年12月「潮」に「千夏経歴判明の経緯」を寄稿。

敬称略





公開   2011.01.03.
大幅加筆   2011.01.10.
村上初穂氏と岡本愛佑氏の続柄訂正(西光世様御指摘による) 姪→孫   2012.01.15.
誤字訂正 春穂→初穂 (御本人様の指摘による)失礼致しました。   2012.01.23.
岡本愛佑氏の歌唱採譜に関する部分の加筆訂正、「残された謎」の追記   2012.02.07.


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