The Place in the Sun

三文楽士の休日 2001鈴鹿編

FIA ALTERNATIVE ENERGIES CUP DREAM CUP SOLAR CAR RACE SUZUKA 2001

2001 マレーシアから鈴鹿に続く道
The Way form Malaysia to Suzuka 2001


 あとがき 

 本レポートは、マレーシアからソーラーカー「サンレイク」号を積載したコンテナが日本に到着した2001年7月4日以後の私の作業メモと、7月27〜29日に開催されたドリームカップ・ソーラーカーレース鈴鹿2001の直後に書き残した私の参戦メモに画像を追加したものである。当時は、私自身のソーラーカーレースへの理解も未熟であったため、後日、レース実況部分を追記した。以下、蛇足になるかもしれないが本文に組み込むことができなかった技術面について少し補足するとともに、2010年のドリームカップ・ソーラーカーレースの区切りに当たって、その間のバッテリーと太陽電池の変遷に触れておきたい。



2001年前後のソーラーカー事情とチーム・サンレイクの戦略

 自チームの結果をひけらかす訳では無いが、2001年当時は優勝したOSU大阪産業大学が8時間耐久で80周、二位の芦屋大TIGAが79周と、ドリームクラスのトップ級でも一周あたり6分、平均速度は60km/hrという水準、その中で我々三位のサンレイクが77周であった。当時は、フリークラスに相当する「ドリームクラス」と、スペック限定クラスである「チャレンジクラス」の差は「努力すれば埋められる」差だったのである。・・・・・こういう書き方をすると、自チームの先輩達に叱られるのであるが・・・・・

・バッテリー

 ドリームクラスの、OSUも芦屋大もバッテリーはニッケル亜鉛電池、チャレンジクラスは鉛バッテリー限定である(当時はシールバッテリーでなくてもOK)。2001年大会のレギュレーションに於けるドリームクラスのバッテリー搭載重量は以下の通りである。

鉛 バッテリー  80kg
ニッケル・鉄 バッテリー  60kg
ニッケル・亜鉛 バッテリー  45kg
ニッケル・カドミウム バッテリー  60kg
ニッケル・水素 バッテリー  43kg
リチウムイオン バッテリー  21kg

 走行中のソーラーカーの重量は、バッテリーを除いた車体が100kg前後、ドライバーが70kg、これに前述のバッテリー重量が加わる。車体の基礎重量を同じとすると、ニッケル亜鉛バッテリーを搭載したドリームクラス車両は総計215kg、一方、鉛バッテリーを搭載した車両は250kgとなる。この35kgの差は決して小さな差ではないが、車体基礎重量の軽量化努力と、その他の走行抵抗(空力、タイヤ転がり抵抗、動力系の伝達ロス等など)低減努力である程度カバー出来る範囲だった訳である。

・太陽電池

 もちろんドリームクラスとチャレンジクラスの性能差は、バッテリーだけではない。太陽電池容量が、800wのチャンレジクラスに比較して、ドリームクラスは車体寸法内であれば無制限である。単純に5m×1.8mの寸法内に、標準的なシャープ社製のソーラーカー用の単結晶シリコン太陽電池パネルを目一杯張れば、計算上 1400w位になる。が、現実にドライバーの視界確保をすると、せいぜい1200w程度、しかも、車体サイズを大きくした分だけ車体が重くなり、車両形状も長方形になるため空力的に不利になる。太陽電池自体の重さも無視することはできない。今日(2010年現在)のように、高価な化合物系太陽電池や、おなじ結晶シリコンでも背面電極や光閉じこめ効果を用いたサンパワー社製やゴーシュマン社製の特別に高効率な太陽電池を搭載しないかぎり、性能差はさほど大きくない。2001年大会のように、曇りがちで太陽光入力が全体に少なかった場合にはなおさらである。

・サンレイク2001モデルの車両特性

 サンレイクは、空力に優れる楕円形状ボディを、発泡スチロール削り出し+表面のみをザイロンFRPで補強するという手法で作製し、軽量化かつ必要最低限の剛性確保を実現した。NGM社のホイールインモーターの採用によりチェーン駆動のロスを無くした。さらに、ソーラーカーレース鈴鹿では後退機能が要求されないことに着目し、ラチェットを組み込んだ。ラチェットを使えば、アップダウンが激しい鈴鹿サーキットの下り坂を自転車のように動力系を空回りさせて下り降りることができる。その間バッテリーからは全く電流を取り出さず、純粋に太陽光からの充電にのみ充てることができる。代わりに、回生制動による減速時や下り阪での電力回収ができなくなるのであるが、当時の平均速度60km/hr程度のレースでは、前者のメリットの方が大きかった。当時使っていた鉛バッテリー「スーパーダイハード」は、電力が空に近くなって電圧が下がってしまっても少し休ませると(+さらに僅かでも太陽光からの充電入力が加わると)、映画「ダイハード」の主人公を演じたブルース・ウィリスの様に、再び元気になり電圧が上がってくるのである。このバッテリーの特性はエネルギーを絞り出して走る最後の最後の数周に絶大なる効果を発揮してくれるのである。

 ともあれ、当時のサンレイクは、このような工夫を重ねて、ドリームクラス車両とのバッテリー重量差や、太陽電池定格の差を埋めて、ドリームクラスの車両と競り合っていたのである。

 今日(2010年現在)、標準的なシリコン太陽電池を搭載したドリームクラス車両とチャレンジクラスの上位車両との実力差が拮抗しているところからも、標準的な結晶シリコン系太陽電池を使っている限り、スペック面での差より、車両製作上の工夫、レース戦略、ドライバーの技量などの方が物を云うことが理解出来るだろう。



ソーラーカーに搭載されるバッテリーの進歩

 2001年大会において、東海大学附属翔洋高等学校の「Falcon」が善戦できたのは、(鈴鹿初期から参加している経験に裏付けされた車両の基本性能の高さの上に、)軽量・大容量のリチウムイオン電池を搭載したからに他ならない。同時に、レース終盤にコース上で止まってしまったのも、リチウムイオン電池の電力マネジメントが鉛バッテリーに比較して難しく、電池残量を見誤ってしまったからである。

・リチウムイオン・バッテリーを鈴鹿で最初に使ったのは?

 リチウムイオン電池をソーラーカーレース鈴鹿で最初に搭載したのは1997年の東工大Meisterの「Leidenshaft」である。が、東工大チームは鈴鹿サーキットとは相性が悪く予選敗退に終わったため、ほとんど話題には上らなかった。当時のノートパソコンや携帯機器のバッテリーは、まだニッケル・カドミウム・バッテリーが主流。ドリームクラスのソーラーカーに於いても、ニッケル亜鉛バッテリーが普及しだしていたが、まだ鉛バッテリーを使っているチームの方が多かったくらいである。

・諸刃の刃:リチウムイオン・バッテリーの発火事故

 2000年には再輝チームと、海外から参戦したソーラーモーションズ(米国本拠だが、ベルギーも加わった多国籍の社会人チーム)のカスケード・クルーザーがリチウムイオン・バッテリーを搭載した。カスケード・クルーザーは予選時にそのリチウムイオンバッテリーを発火させてしまい、本戦は鉛バッテリーで走るという不本意な結果に終わった。当チームの予選ドライバーであった高橋が、「コース脇で焚き火をしているヤツがいる」と誤解した程、派手に煙があがっていたようだ。

 ソーラーカーに於けるリチウムイオン・バッテリーは諸刃の刃である。鉛バッテリーに比較して60kg前後も軽量化出来るメリットは何にも代え難いのであるが、残念な事に発火事故はこの後も絶えてはいない。

・鈴鹿におけるリチウムイオン・バッテリーを使った初完走は?

 当時も今も、再輝チームの高崎氏は、エネルギーマネジメントより、レースでの競りあいと楽しさを優先する。2000年大会で再輝チームは、67周で総合12位とドリームクラスとしては平凡な順位に終わっているが、少なくともリチウムイオン・バッテリーで鈴鹿サーキットをまともに走った最初のチームということで評価しても良いと思う。車両名「エナックス ENAX」はリチウムイオン・バッテリーの輸入販売とモジュール化、システム化を生業とする企業であり、高崎氏の勤務先なのである。



リチウムイオン・バッテリーの時代

 この年(2001年)、オーストラリアから参戦したレイク・タグラノン・カレッジの「Spirit of Canberra」、再輝チームの「エナックス」、東海大学附属翔洋高校の「東海翔洋FALCON」の3台がリチウムイオン・バッテリーを搭載した。本編でも触れたように「Spirit of Canberra」は予選中にバッテリーの一部が発熱して発火寸前になり、やむなくダメになった部分を切り離さなければならなくなってしまった。再輝チームは72周で総合6位と昨年より大幅に順位を上げたが、ニッケル亜鉛搭載のOSUや芦屋大学と比較して、軽量バッテリーの利点を十分に活かせたとは云えない。「東海翔洋FALCON」は完走こそ逃したものの、周回数76を稼ぎ、当バッテリー搭載車両の最高周回数記録を更新ということになった。

 東海大学附属翔洋高校チーム・エントラントの山田修司先生は、レース後に「他のチームがリチウムイオン・バッテリーを使い出す前に勝っておきたかったのだが・・・」と語っておられた。高校生主体でのチーム運営にならざるを得ないハンディを、圧倒的に軽いバッテリーのアドバンテージで埋める事ができるチャンスは、ドリームクラスの各チームがこぞってリチウムイオン・バッテリーを使うようになれば、もう巡っては来ない。事実、翌2002年にはドリームクラスの内9チーム、翌々年の2003年には14チームがリチウムイオン・バッテリーを採用した。

化合物半導体系太陽電池

 21kgのリチウムイオン・バッテリーと80kg鉛バッテリーの重量差59kgは、工夫や努力では埋めることができず、ドリームクラスの上位とチャレンジクラス上位との差も、次第に開いていった。この後、チャレンジクラスが再び総合表彰台に乗るのは2009年の TEAM MAXSPEED まで待たねばならない。そこにはOSU、芦屋大の2強以外の有力ドリームクラスチームの姿は無かった。総合1位2位を占めたドリームクラス2強の周回数は76(雨天のため例年より大幅に少ない)、3〜5位を占めたチャレンジクラス車両の周回数は64−65周と11周以上の差がある。(誤解無きように、この方々の成果を否定する訳ではありません。素晴らしい結果です。そもそもサンレイクは61周しかできていないので)2強以外のドリームクラス車両は64周が一台あるだけで、他は60周以下と(失礼ながら)かなり不甲斐ない結果である。ドリームクラス内部でも、化合物半導体系の高効率太陽電池を使うことができる(経済力のある)チームと、結晶シリコン系太陽電池を使うチームとの格差が広がり、それまでソーラーカーレース鈴鹿を盛り上げてきた多くのチームがドリームクラスから撤退してしまっていたのである。

 一般に普及して価格が下がり、入手しやすくなったリチウムイオン・バッテリーに比較し、太陽電池の低価格化は期待したほどには進んでいない。しかも、一般用途からかけ離れた化合物半導体系太陽電池の価格には経済原理は働かない。しかし、ソーラーカーレースで「勝つ」ためには、その化合物半導体系太陽電池を入手しなければならなくなってしまったのである。

ドリームカップのピリオド

 2001年、ソーラーカーレースの「夢」は、間違いなく手を伸ばせば届きそうな所にあった。しかし2010年の今日、ソーラーカーレースは現実的な「カネ」のかかる競技に姿を変えてしまった。

 オリンピアクラス導入による混乱、リーマンショックによるスポンサー撤退、等など引き金になった出来事は種々あるが、そういったきっかけが無くとも、ドリームカップ・ソーラーカーレースはいずれ近いうちに何らかの区切りを付けなければならなくなったであろう。「夢:ドリーム」は随分と遠のいてしまった。世界レベルで見れば盛り上がってきているソーラーカーレースだが、日本に限れば全く逆だ。各地で開催されていた大小のソーラーカーイベントのほとんどが中止され、国内に残るのは鈴鹿と秋田の2大会のみとなった。その根元的な原因がここにある。あまりに遠い夢は、追いかける意欲そのものを削いでしまうのだ。

 でも、それで夢を諦めるような連中は、最初からソーラーカーにハマったりはしないのだが。

2010年10月31日 前田郷司@TeamSunlake 太陽能車考古学研究所

参考資料

ドリームカップ鈴鹿公式サイトより2001年のアーカイブ
  http://www.dream-cup.com/2002/race2001.htm

すがお君のページよりFIA ELECTRO-SOLAR CUP ROND 4
  http://www.sugao.jp/erk/2001race/2001_suzuka.html

サンレイク公式サイト
  http://www.toyobo.co.jp/mirai/sunlake/rep/jp/r_01_2.htm
  http://www.toyobo.co.jp/mirai/sunlake/rep/jp/r_01s.htm

ドリームカップ・ソーラーカーレース鈴鹿2001 公式プログラム
ドリームカップ・ソーラーカーレース鈴鹿2001 公式レポート





2001鈴鹿編 INDEX へ

三文楽士の休日トップ へ


********************************************************


三文楽士の休日

FIA ALTERNATIVE ENERGIES CUP DREAM CUP SOLAR CAR RACE SUZUKA 2001

2001 マレーシアから鈴鹿に続く道  あとがき
The Way form Malaysia to Suzuka 2001 Afterword

第一稿(テキスト版)  2001.08.04.
第二稿(WEB公開準備)  2006.09.25.
第三稿(微改訂、テキスト版公開)  2010.10.15.
第四稿(改訂・追記、画像追加)  2010.10.30.

Copyright Satoshi Maeda@Team Sunlake
The Place in the Sun