Solar Car Archaeorogy Research Institute
English

The History of the Solar Car Volume 3
Japanese Famous Solar Racing Teams

先駆者達
    東京電機大学 藤中研究室
    真砂工業
WSC1987参加チーム
    ハマ零
    ほくさん
    半導体エネルギー研究所
    ソーラージャパン

■■■ 先駆者達 ■■■


1.東京電機大学 Tokyo Denki University

 藤中正治研究室による電気自動車〜ソーラーカーの研究 *1)*2*3)*4)
  オイルショック以後に研究着手。
    第1号車 自転車を改造。
    第2号車 自転車を横に並べて四輪車に
    第3号車 バイクを二台並べ
    第4号車? 〜軽自動車車両を利用
  一部の写真を成書に見ることができる。正確な製作年月はいずれの資料にも記載されていないが、引用されている新聞記事の日付等から判断するに第1号車〜第2号車は1978-1980頃であろうと推定される。少なくとも1〜3号車までは、写真から判断するに、車体本体に太陽電池パネルを搭載した一体型ではなく、車体とは別に太陽電池を置き、駐車時に充電するセパレート型であったようである。*2)

 1985 第26回 東京モーターショー
    東京晴海国際展示場(日本電動車両協会)
    藤中研究室で開発されたソーラーカーのデモ走行、試乗会
    13日間(内、晴天は6日間)に150km走行 
    ソーラーパネル(1kw)と車体が別、車庫停車時に充電
    一日の充電で40km走行可能。 *1)

 1987 第27回 東京モーターショー 1987 東京晴海国際展示場
    藤中研究室 アモルファス太陽電池(カネカ)70wを搭載した
    ソーラーカー「そうら87」の展示
    市販車改造 二人乗り 重量800kg *1)

 1989 第28回 東京モーターショー 1989 千葉幕張メッセ
    藤中研究室 単結晶シリコン太陽電池搭載ソーラーカーの展示
    市販車改造  *1)

 藤中教授は、公道走行による電気自動車の実用性研究に重点を置いている。保安基準を満たすために重くなる車体を、車体に搭載された太陽電池だけでまかなうことは現実的ではなく、一貫してセパレート型を基本にしたソーラーカー開発を続けている。また実際の走行試験時には、夜間駐車中に夜間電力によりバッテリーを充電している。

 1994 軽自動車ホンダ「トゥデイ」を改造したソーラーEVにて日本一周。*3)
 1995 軽自動車スズキ「セルボ」を改造したソーラーEVにて、
    北米大陸ニューヨーク−シアトル横断コースを往復。*3)
 1997 トヨタ「スターレット」を改造したソーラーEVにて欧州アルプス越え、
    さらに北米大陸のニューヨーク、コロンバス、ロスアンゼルスと横断。*3)
 2000 バッテリーをニッケル水素に交換した「スターレット」改造ソーラーEV
    「ソーラーバード」にて世界一周:中国、モンゴルからロシア、ヨーロッパを
    経由した後、北米を横断(走行距離 18000km)*3)*5)*6)

*1) 藤中正治(Masaharu Fujinaka),「地球にやさしいソーラーカー(ハイテク選書ワイド)」  ,東京電機大学出版局,(1991.03.30)
*2) 藤中正治, 「ソーラー電気自動車のおはなし」, 日本規格協会, p99-101, 1994.08.05.
*3) 藤中正治, 「エレクトリックエンジンカー」, 東京電機大学出版局, p162, 2003.11.10.
*4) ぷりずむ「太陽電池自転車」, 朝日新聞(東京本社版), 1980.09.27(孫引き)
*5) http://www.dendai.ac.jp/d1_topics/d1_0-past9909.html
*6) http://www.dendai.ac.jp/d1_topics/d1_0-past0103.html

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2.真砂工業株式会社 MASAGO Industry


 遊園地用遊具(コインカー)ソーラーボーイを開発。*1)p71
  屋根にパネルをのせた背の高いカート型
  推定 パネル面積1m2程度
  モーター出力200w程度 時速2km/hr

 恐らく世界最初期の商用ソーラーカーであると思われる。真砂工業は1975年から遊園地遊具に参入、ジェットコースターなどを製作していた。2001年に倒産したため、詳細の追跡調査は困難。*2)

*1) 藤中正治(Masaharu Fujinaka),「地球にやさしいソーラーカー(ハイテク選書ワイド)」  ,東京電機大学出版局,(1991.03.30)
*2) "Game Machine",Amusement Press Inc.,2001.11.01 http://www.ampress.co.jp/backnumber/bn2001.11.01.htm

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■■■ WSC1987参加チーム ■■■

    ハマ零
    ほくさん
    半導体エネルギー研究所
    ソーラージャパン

1.ハマ零 HAMAZERO

 山脇一氏率いる有名なプライベートチーム。本拠地は浜松市。山脇氏は日産自動車宇宙航空部実験課でロケットの制御技術の開発の傍ら、プライベートでエコノミーラン(マイレッジ・レース)に参加していた。氏の車は当時からセラミックエンジンと太陽電池を搭載していたという。日産自動車を退社し、何でも開発会社「ハマ零」を創設していた山脇氏は、1984年にハンスソルストラップ氏の豪州大陸横断記事を読んで感銘し、京セラから太陽電池の供給を受けて独自にソーラーカー「ゼロファイター」を開発して1987第一回WSCに出場した。未来的な外観と多少なりともドライバーを強い日照から守る工夫が凝らされた他のソーラーカーと異なり、「異様なルック」と評された、そのフルオープンカータイプのスタイルは、まさに零戦を彷彿とさせた。*16) レース中には記録的な大雨に遭遇して、配線を濡らし、パネル配線張替えのために大きく時間をロスした。*5)*16) 途中バッテリー交換をしたため(オーガナイザー承認)、公式記録ではリタイヤとなったが、実際には17日間かけてアデレードに到着、意地の「完走」を果たした。*1)p138-139 *4)

 その後、解体すれば手荷物として持ち込めるサイズの小型ソーラーカー「ソーラーマウス」を開発し1989年8月*2)(1990年8月との記載もあり*5))カナダで行われたカナディアンカップ・ソーラーカーレース(トロントを出て、モントリオール経由でオタワまでの公道約500kmを5日間かけて走るラリー競技)に参加、MITチームと競り合い、クラス1位、総合2位。*2)*5)  平行して"Ninjya"を開発、1989年9月、第一回朝日ソーラーカーラリーにはソーラーマウスとNinjyaの二台で参加した。*3)

 WSC1990には東京電力の出資を受けて参加。残念ながら、Ninjyaは1500km走ったところでリタイアした。(マシントラブルとの記載もあるが、追突事故による破損が真相である*5))

 1991年ソーラーチャレンジin北海道。北見市で行われた、公道を使用した国内初のラリーレースには「ソーラーマウス」にて参加。詳細不明 *15) 以後、隔年に開催された当レース(1995年はレース自体が中止)には2003年まで皆勤であった。*8)

 1992ソーラーカーレース鈴鹿には「忍者II夢果号」にて参加。Todayクラス21位、総合34位(27周)6m×2mのフルサイズに近い車体であったがパネル自体は800w級であったことが解る。
 同年のソーラーカーラリーin能登には800wパネルの夢果号にてカテゴリーII(二人乗り)に出場。とことんチャレンジャブルであると同時に、他チームと同じことはやらない、という山脇氏の性分が見て取れる。チームメンバーには早稲田大学永田研を卒業し、ハマ零と同じく浜松に本拠地を置くヤマハ発動機に入社した池上敦哉氏の名前がある。*17)

 1993ソーラーカーレース鈴鹿での車両名は「夢果号」。雨にて中断に近いレースであったが24周を回り、Todayクラス8位、総合15位に入った。*6) ソーラーチャレンジin北海道1993にも「夢果号」にて参加。結果不明。*18)
 1993年のWSCには、「夢果号(Yumeka)」で参加。DCブラシレスモーターのチューンアップが裏目に出て破損、予備の3台も次々壊れ、無念のリタイヤ。*1)p140 リタイヤしてダーウインに引き返すときに、アモルファス太陽電池で苦戦していたルソレイユチームにグリッド通過用の板を譲ったエピソードが紹介されている。 *1)p141

 1994ソーラーカーレース鈴鹿 Tomorrowクラスに「ユメカ」にて出場し57周、総合10位。Todayクラス昇格は太陽電池パネル面積を増やしたためか、鉛バッテリー以外の蓄電池を用いたためかは手元に資料が無く定かではない。*6)*19)
 '94朝日ソーラーカーラリーin神戸にて、エコランカーと見間違えるような超小型ソーラーカー「莢(サヤカ)」がデビュー。Aクラス(480w以下)10位、総合31位。


ハマ零「夢果(ユメカ)」,ソーラーカーレース鈴鹿'94 (鈴鹿サーキット)


 1995年、ハマ零ソーラーカーの活動の痕跡は今のところ見いだされていないが、この年に開催された第1回WEM(World Econo Move)、所謂電気のエコランレースに莢(サヤカ)が出場、60台中12位という記録が残されている。*24)

 1996年第四回目となったWSC1996には400wクラスの小型ソーラーカー「一美(ヒトミ)」にて参加した。エコラン出身である山脇氏の原点回帰とも云える。なお同大会には、細川氏のパンダサンチームも440wの小型ソーラーカーで参加し、大型ボディの大面積太陽電池のパワーに頼る車両作りに向かっていた他チームの動向に対し一石を投じた。(この思想の結実にはZDP「ガメラ」の登場を待たねばならない)
 山脇氏の御長女と同じ名前を持つ「一美」号は、全長3.5m、幅1.71m、前輪2輪、後輪一輪、前後輪間2.35m、前輪幅1m、モノコックで美しく仕上げられた流線型のボディに平板ソーラーパネルを纏い、空車重量はなんと60kgという超軽量車両である。御家芸とも云えるチューンナップモータ(市販品の巻き線を自力巻き替え)を搭載、動力用ソーラーパネルは昭和シェルの単結晶シリコン360w、制御系とモーターを強制空冷ファン用にはアモルファス太陽電池による別系統の電源系60wを有する。補助バッテリーであるニッケル亜鉛バッテリーは8.7kg。あえて、ソーラーパネルを平板化することでMPPTを省略。通常、太陽電池の封止に使うEVAさえ軽量化のために使わなかったという。正真正銘の軽量化の極致、以後とことん小型軽量に拘る山脇氏の姿勢は不変である。
 「一美」号は、平均時速40km程度にて順調に走行を続け、7日目に中間点であるアリススプリングを通過したが、その直後に対向車が跳ねた飛び石の直撃を受け、太陽電池パネルの一部と集電用のケーブルの断裂が断裂した。運悪く天候が崩れはじめ、修理作業は雨の中。さらに軽量化のために太陽電池の封止樹脂を省いたことが裏目に出てセルに水分が進入して結露し、集電効率はさらに低下した。そのようなコンディションの中、8〜9日目にも走行を続けたが、規定時間内での完走が絶望的となった10日目、アデレードまで500余kmを残し、全員協議の結果、無念のリタイヤを選択した。走りきることは可能なコンディションであったということだが、ハマ零所有のトランスポーターにて、すでにゴールしていた育英高専チームのソーラーカーを船積みする期日が迫っていたことが理由の一つであった。*5)*7)
 なおハマ零チームはWSCに先立つ1996WSRのSクラスに「一美」にて出場、総合65位。*20)

 1997年 WSR(ワールドソーラーカーラリーin秋田)Sクラスに一美号にて出場、総合26位。*21)
 同年のソーラーチャレンジin北海道'97に莢(さやか)にて出場。1時間耐久レース、Aクラス5位、総合10位、最高速度部門優勝、デザイン部門にてメカニック賞を受賞。*22)
 '97朝日ソーラーカーラリーin幕張には一美号にて出場、Cクラス2位、総合2位に入賞した。*23)

 1998年ソーラーカーレース鈴鹿。コスモ石油がスポンサーから降りたため、冠名が「ドリームカップ」に変更され、2ヒート制8時間耐久レースになった最初の大会である。ハマ零チームは超軽量「一美」号により4年ぶりの参加となった。この時点でも電池込みの車両重量65kgとの記載があり、1996WSC以後も一美号のコンセプトが維持されていることが解る。しかも、ここでの電池(バッテリー)WSCとは異なり鉛バッテリーである。一美号は予選のタイムトライアルにてモーター焼損。参加全68台から決勝レースに進めるのは55台(エンジョイクラスが4時間耐久として別枠レースになるのは翌1999年から)であるため多少の無理はやむを得ない。本戦にはモーターを交換してなんとか出走したが、レース中にチェーンが外れストップ。ドライバーが自力で応急修理してピットに戻ったがチェーン交換に時間を取られトータル43周に終わった(エンジョイトップは堺市立第二工業高校の「M-SUN3」の58周)。 *9)

 1999年 ソーラーチャレンジin北海道'99には一美号、莢号の二台にて、ともにソーラーパネル出力200w以下となるAクラスに出場。一美号がAクラス優勝、莢号が同2位に入賞した。

 2000年、湖国ソーラーカー・EVカーフェスタin湖東2000。一美号にて滋賀県東部のクレフィール湖東の教習コースを使い。夜明けから日没までノンストップで走り続ける12時間耐久レースに参加。結果は268周にてCクラス(鈴鹿エンジョイクラスの一般参加に相当)優勝、総合でも8位と健闘した。

 2001年6月、21世紀最初のソーラーカーレースとなったワールドソーラーカーチャンピオンシップinマレーシア、には一美号にLiイオン電池を搭載し、さらなる軽量化をはかっての参加。*10) レース初日、起伏の多いシャーアラム市街地の周回コース(約8.2km/周)走行中、5周を回ったところでモーター焼損トラブル。度重なるモータートラブルにもかかわらず、頑固なまでに小型モーターに拘る姿に、山脇氏の「一切のマージン、安全率を排して極限を追求せざるにはいられない」美学と哲学を見る。トラブルを抱えつつも二日目のセパン国際サーキット、三日目のプトラジャヤ市街地コースをこなし13位完走。*10)*11)*12)*13) Best Design賞が授与された。


ハマ零「一美」,WSCC 2001 Malaysia (Sepang International Circuit)


 2001年7月、ソーラーチャレンジin北海道2001には前回同様、一美号、莢号の二台にて参加、順位は逆転し莢号はAクラス優勝、一美号が同2位。
 同年9月、湖国ソーラーカー・EVカーフェスタin湖東2001。12時間耐久レースに一美号にて参加。隣同士のピットになったバカボンズ「湖上の風」とCクラス(鈴鹿のエンジョイクラス相当、一般参加)のトップ争いを演じた。一周1.2km程度の狭いコースをの周回数を競うレースであるため、小型軽量で小回りの効く車両のほうが有利な展開であったが、コース全体が傾斜地にあるため、想定以上にモーターに負荷がかかったようで、またも駆動系トラブルに悩まされた。修理しながらの走行を続けたが15時時点で走行を中断。127周にてクラス3位、総合19位。


ハマ零「一美」,湖国ソーラーカー・EVフェスタin湖東 2001 (クレフィール湖東)


 同年10月、2001朝日ソーラーカーラリーin神戸には「カットビSUN」にて出場し、Bクラス1位、総合2位に入賞。

 2002年、朝日ソーラーカーラリーin神戸2002に「カットビSUN」にて出場。Bクラス2位、総合4位。

 2003年3月、大阪舞洲にて開催されたエコカーフェスタ2003には、ソーラーカー部門に一美号が出場し、Bクラス2位、総合7位。 莢号はソーラーバイシクル部門に出場。第一回の開催となったツイントライアル(二台並んで所定の坂道から発進し、200m先のコントロールラインを先に通過した方が勝ち。トーナメント方式による勝ち抜き戦)に「CYPHA」にて出場。
 2003年9月、ソーラーチャレンジin北海道2003には3台のソーラーカーにて参加。1.5時間耐久レースにて一美号が総合優勝(Bクラス首位)し、この年限りでソーラーカー競技部門が休止されることになった大会の最後の優勝チームとなった。莢号もAクラス優勝、総合6位、新車?「タマちゃん」はAクラス5位、総合16位。

 2004年エコカーフェスタ(湖東)にはCクラスに莢号が参加。
 2005年神戸空港予定地で開催されたエコカーフェスタ2005にはBクラスに莢号が参加(クラス優勝、総合2位)、EV部門にEVポケバイが参加した。

 山脇氏は福岡県柳川市にて1996年から開催されている柳川ソーラーボート大会の実行委員でもあり、日程が重なるソーラーカーレース鈴鹿になかなか出場できないと嘆いておられた。


 御本人によるウエッブサイトでの情報発信は皆無、チームメンバーによるものも極僅かスポット的なものが散見されるに過ぎないためハマ零情報を得るにはソーラーイベント会場に出向くしかない。会場で山脇氏を見つけるのはさほど難しくないだろう。豪快な笑い声が聞こえてきたら、きっとそこがハマ零チームのピットだ。


資料

*1) 中部博,「光の国のグランプリ ワールドソーラーチャレンジ」,集英社,1994.08.24.
*2) Tadao Takimoto,"The Arts of Management",表紙カバーと本文p15-16, East Press, 1999.11.30.
*3) 後藤公司,「ソーラーカー」,p141,日刊工業新聞社,1992.02.29
*4) 斉藤敬,「ソーラーパワーが翔んだ 第一回ワールドソーラーカーレース」,文藝春秋,1989.01.15.
*5) 沼崎英夫,「1996W.S.C.特集」,ソーラーシステム,pp40-42,(株)ソーラーシステム研究所,1996.12.25.
*6) ソーラーカーレース鈴鹿 歴代成績 http://event.yomiuri.co.jp/2006/solarcar/results.htm
*7) http://www.me.utu.edu.tw/~ifplab/solar
*8) http://www.city.kitami.lg.jp/540-01/540-08-200308.htm
*9) 中村洋のWeb-Site:http://www1.ocn.ne.jp/~al-ocean/news.html
*10) WSCC MARAYSIA 2001 SOUVENIR PROGRAM BOOK,2001.06.10.
*11) http://www.jonasun.com/~hiroweb/russianj-nikki-6-10.html
*12) http://www.jonasun.com/~hiroweb/russianj-nikki-6-11.html
*13) http://solar.inkm.net/WSCC.htm
*14) http://izw-23.ddo.jp/bakabonz/01kokoku/01kokoku.html
*15) 後藤公司,「ソーラーカー」,pp156-162,日刊工業新聞社,1992.12.29.
*16) 中島祥和,「車と心に太陽を!」,カースタイリング63,pp84-85,三栄書房,1988.03.31.
*17) ソーラーカーラリーin能登 公式プログラム,1992.08.30.
*18) http://www.haec.ac.jp/Solarcar/solar93.htm
*19) FIA Cup Solar Car Race SUZUKA'94 (1994.08.06-07)REPORT
*20) http://www2.ogata.or.jp/wsr/96wsr/96wsr.htm
*21) http://www2.ogata.or.jp/wsr/97wsr/97wsr.htm
*22) ソーラーチャレンジin北海道'97実施報告書,オホーツクソーラーエネルギー開発推進機構,1997.(立命館大学ソーラーカープロジェクト提供)
*23) '97朝日ソーラーカーラリーin幕張公式資料(立命館大学EV-Racing「我楽多連」提供)
*24) http://www2.ogata.or.jp/wem/95wem/95acc.htm
第一稿 2006.01.10
第二稿 2006.03.19
追記  2006.06.07

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2.ほくさん HOXAN Corporation

 前身は北海道のガス関連企業である(ほくさん:北海道−酸素)。 太陽電池事業に参入し、ソーラーカーレース参加による宣伝効果を狙っていた物と推察する。

 ソーラーカー開発開始時期は不明。1987第一回WSCにHoxan Phoebus II にて出場、TBSの密着取材を受けた。公式にはリタイヤ扱いだがハマ零と同じ日に17日かけてアデレードに到着、太陽エネルギーだけで走りきった。*1)

 1990WSCには Pheobus III にて参加、3000kmの距離を実質所要時間57.3時間(平均速度52km/h)で走破した(40台中の4位。日本勢ではホンダの2位に次ぐ快記録)。変換効率18〜19%の自社開発単結晶シリコン太陽電池と、同じく自社開発した小型軽量のモーターを搭載。一時は3位にまで追い上げたが、コントローラーのトラブルにて40分間ロスし、4位に後退した。*2) 精悍なステルス型戦闘機を想わせる車体は Autech Japan Inc.にて製作された。*3) 1993年のWSCには参加せず、メインスポンサーとなった。

 1993年 「株式会社ほくさん」は「大同酸素株式会社」と合併し「大同ほくさん株式会社」に、さらに2000年大同ほくさん株式会社と共同酸素株式会社が合併し「エア・ウォーター株式会社」発足。2000年以後の太陽電池生産量は産業統計には現れていない。*4)

*1) 斉藤敬,「ソーラーパワーが翔んだ 第一回ワールドソーラーカーレース」,文藝春秋,1989.01.15.
*2) 読売新聞社編,読売科学選書47「電気自動車の時代」,p.191, 読売新聞社,1991.12.24.
*3) Autec Japan Inc. http://www.autech.co.jp/HISTORY-WV/S0RW01/
*4) NEDO http://www.nedo.go.jp/nedata/16fy/01/f/0001f002.html

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3.半導体エネルギー研究所
  SEL : Semiconductor Energy Laboratory Co., Ltd.


 東京都町田市にあるヴェンチャー企業。当時、アモルファスシリコン太陽電池では高い技術を保有していた。WSC参加は、社長が夫人からWSC開催の話を聞いたのがきっかけだという(社長夫人はいったいどこからこの話を聞きつけたのか?)。アモルファスとはいえ、太陽電池セルからすべて手作りしたソーラーカーは滅多にない。社長からの勅命を受けた5人の社員が、5ヶ月間の突貫工事で「Southern Cross」を完成し、豪州縦断レースに挑むことになった。
 変換効率の低いアモルファス太陽電池を搭載した車重300kgの重量級車体による豪州大陸縦断(3000km)には、実に32日間を要したが、彼らは一切のごまかしをせず太陽エネルギーだけで走りきった。*1)*2) もちろん大会本部はとっくに閉鎖されていたわけではあるが、続行意志のあるチームには無制限走行を認めるという主催者判断により、途中でバッテリー交換を行なわなかった彼らも公式に「完走」と認定された。*4) 彼らの粘り強さはオーストラリアの市民を仰天させ、いくつもの新聞が彼らの奮闘ぶりを報道し、ゴールのアデレード市の市民は、暖かい祝福の拍手で彼らを迎えたと伝えられている。

 満足に走れない車をわざわざオーストラリアに「置き」に行って、何の意味があるのか?と評した人がいた。評者はモータースポーツ界では著名なジャーナリストだ。*3) 彼は確かに1987年にトップチームを追いかけてスチュアートハイウエイを一緒に走り、それだけで、参加者とともにレースを体験したつもりになっているのだろう。しかし、自分で図面を書き、金属パイプを溶接し、樹脂を練り、カーボンを張り合わせ、細心の注意を持って太陽電池を車体に貼り付ける、その作業をこなした者にしか解らないことがある。なにかに挫折しそうになったとき、私はSELの物語を読み返すことにしている。

 1990年の第二回WSCにはマツダの協力を得、カーデザイナーによりアモルファス太陽電池のフレキシビリティを活かした美しい曲面を持つ Southern Cross II にて出場したが、制限時間切れで11日後、1996km地点でリタイヤした。*4)*5)

 Southern Cross 1号車、2号車のカラー画像は、藤中正治氏の著書の扉絵に掲載されている。*6)

○薄膜太陽電池の系譜

 アモルファス太陽電池によるWSC挑戦は鐘淵化学(現:カネカ)製アモルファスシリコン太陽電池を用いた本田技研の社内有志チーム「ル・ソレイユ」(後に「ジャパニーズ・クレステッド・アイビス」に改名)に受け継がれた。 国内ではキャノン社の社内有志によるチーム「バカボンズ」が2004年まで自社製のアモルファス太陽電池を用いたソーラーカーでソーラーカーレース鈴鹿を初めとする主に関西地方でのイベントに参戦を続けていた。

 2005年現在、純粋なアモルファスシリコン太陽電池を工業生産している企業は国内に存在しない。一時は夢の素材ともてはやされたアモルファスシリコン太陽電池は、多結晶シリコンとの多層化、あるいは他素材との組み合わせという形で命脈を保っているに過ぎない。光劣化問題が完全に克服できていない点、結晶系シリコン太陽電池の価格低下により相対的にコストメリットが下がってしまった点などが、その原因とされている。
 アモルファスシリコンの系譜を、広く薄膜系太陽電池と捉えた場合、その系譜はCGS(CIGS)系太陽電池に引き継がれていくと予想される。近い将来CGS系太陽電池を搭載したソーラーカーがスチュアートハイウエイを走る姿を見ることが出来るだろう。


*1) 斉藤敬,「ソーラーパワーが翔んだ 第1回ワールドソーラーカーレース」,文藝春秋,1989.01.15.
*2)「ソーラーカーの思い出」(読売新聞1987年12月5日より転載)
  http://www.sel.co.jp/sel_p02.htm
*3) 中島祥和,車と心に太陽を!,「カースタイリング63」,三栄書房,1988.03.31
*4) 沼崎英夫,「アモルファスで挑戦の灯は消えず」,ソネットシステムズ,No.55,P.80, 1993.
*5) 沼崎英夫,ソネットシステムズ,No.67,p38,1996.12.25.
*6) 藤中正治,「地球にやさしいソーラーカー」,東京電機大学出版局,1991.03.30.

第一稿 20060110
第二稿 20060525
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4.ソーラージャパン Team SOLAR JAPAN (江口倫郎氏)

改 訂 作 業 中

1985年 ソーラーカーとの出会い

 1985年の暮れ、当時、三菱自動車工業の社員であったデザイナー江口倫郎(Michiro Eguchi)氏は、たまたま飛行機で隣り合わせになった東京映像社(WSC1987のスポンサー)の大滝氏からWSCの計画を聞いたという。*1)
 太陽の力だけで豪州大陸を縦断する。若き自動車デザイナーは、その壮大な計画に感銘すると同時に、ソーラーカーという先例のない乗り物の造形にカーデザインのフロンティアを見た。WSCのレギュレーションブックの表紙には江口氏の最初のスケッチが採用され、GMを本気にさせたと噂された。*5)

1986年 プロトタイプ (試作1号車)*1)*6)*7)

 ソーラーカーの開発着手は1986年、三菱自動車名古屋技研。プロトタイプのデザインは、平板上のソーラーパネルを有する所謂パラソル型であるが、パネルを前後二段に分けることによりコンパクトさを演出している。実際の試作車は、鈴木板金社製のシャーシに、手作りカウルを被せた物で格好悪かったと御本人は仰るが、手作りソーラーカーを見慣れた我々には十分格好良く見える。試作1号車は'86三菱アイデアグランプリに出品され、銅賞を受賞。この時に同時に江口氏デザインによるソーラースケーター(電動ソーラースケートを太陽電池で駆動!)も参考出品されている。
 パネルを二段にして、後部を低い位置に持ってきたのは、重心を下げる意味と(当時のソーラーパネルは重かった)、太陽を背に受けて走るWSCでの日照方向を考えると合理的である。江口氏のデザインにしばしば登場するところの運転席をソーラーパネルで覆うスタイルには、パネル面積を稼ごうという合理性と同時に、直射日光からドライバーを守ろうというデザイナーの優しさを感じることができる。

1987年 SJM−1、SJM−2 WSC1987への挑戦 (SJM:Solar Japan MMC) *2)*4)

 プロトタイプを元に、「ソーラージャパン」の名称を冠した最初の車両 SJM−1(SJM:Solar Japan MMC)が制作された。
 ’87三菱アイデアGPに出品されたSJM−1では屋根型のパネルは無くなっており、基本構造は、'85 Tour de Sol で優勝したメルセデスベンツのアルファリール号に似た4輪のムササビ型となった。車両製作は紫紋*1)*5)(未確認)
SJM−1 諸元
車両寸法 全長4.7m、 全幅2.0m、 全高0.9m、
車両構造 後輪駆動の4輪車、ムササビ型
空車重量 180kg
太陽電池 単結晶シリコンの丸形セル。パネル総出力432w
駆動系  DC直巻モーター24V、0.5kw
最高速度 30km/hr
 SJM−1は、'87三菱アイデアグランプリに出品され、銀賞を受賞した。使用したソーラーセルは5mm厚のガラス基板に貼り付けられてパネル化されており、とてつもなく重かったようだ。

SJM−2(NTVレイトンハウス号)*3)*4)

 三菱アイデアグランプリで好成績を修めたソーラーカーは各方面から注目を集め、日本テレビやレイトンハウスといった大口スポンサーや、部品供給を申し出る協力企業が集まり、江口氏の当初の目的であったWSC参戦にむけての環境が整いつつあった。江口氏は三菱自動車の社内のみならず、広く各方面から人材を集めてチーム・ソーラージャパンを組織し、自らはデザインチーフに就任した。
チーム・ソーラージャパン(1987)組織 *6)
 担当 メンバー(敬称略) 所属
 チームリーダー 横川啓二 マトリクスコーポレーション 
 ドライバー 夏木洋介、山本郁二、岩崎好子、バリーロイド
 相談役、顧問 浜川圭弘、高倉秀行    大阪大学
 デザイン 江口倫郎 三菱自動車工業 デザイン部
 車両製作、メカニック 田中、円乗 童夢
 電装 熊谷直武、樫本 三菱自動車工業 電子開発課 
 西原、岡田 ニチユ(日本輸送機)
 太陽電池     単結晶シリコン:シャープ 
 浅岡 アモルファス:カネカ(鐘淵化学) 
 タイヤ     横浜ゴム
 バッテリー     GS日本電池
 チタン部品     日本鉱業、東邦チタニウム 
 車両デザイン上は、ソーラーパネルがドライバー席を覆う形に戻ったが、メインパネル全体を左右に角度可変とし、さらに可動式のサイドパネル部分を設け、走行中の、車幅規定の中で最大限のパネル面積を稼ぎ、同時に停車中にはパネルを広げ受光面積を最大化する工夫が凝らされている。

 ボディカウルの製作は童夢、*1)*5)*6)、駆動系、制動系は電動フォークリフト製造販売に実績のあるニチユ(日本輸送機)が担当、*15) 日本鉱業からはチタン部品(ホイールと変速ギア)の供給を受け *1)、最終組み立てはチームリーダーの横川氏が所属するマトリックスコーポレーションにて行われた。
SJM−2(NTVレイトンハウス号)諸元
車両寸法 全長5.8m、 全幅2.0m、 全高1.1m、
車両構造 後輪駆動の4輪車
空車重量 360kg*4)、390kg*6)
太陽電池 メインパネル:NT187単結晶シリコン(シャープ)
 サイドパネル:アモルファスシリコン(鐘淵化学) 合計960w
駆動系  DC直巻モーター34V、1.2kw
最高速度 65km/hr
 太陽電池については、当時の太陽電池研究の第一人者であった大阪大学の濱川圭弘氏、高倉秀幸氏のアドバイスを受け、メインパネルにはシャープから供給された単結晶シリコン太陽電池、サイドパネルには鐘淵化学製のアモルファスシリコン太陽電池が採用された。濱川氏らからは「勝つつもりならNASDAからの委託で三菱電機が開発している宇宙用ガリウム砒素太陽電池を使わねばならないだろう。ただし2億円ほど必要になる」とのやりとりがあった伝えられている。*24)
 今でこそ競技用のソーラーパネルなるものが市販されているが、当時は通常の据置パネル用に作られたセルを工夫して使いこなすしかない。裏側からの冷却を狙って1.6mm厚のアルミ板に搭載されたパネルの総重量は150kgに達し、渡豪直前に競輪場を借りて行った走行テスト中にパネルが自重で割れるというアクシデントが生じ、大あわてで修理するという一幕もあった。*24)  ちなみに、先の三菱電機製ガリウム砒素太陽電池は、GM(General Motors)が購入し、サンレイサーに搭載されることになった。

 WSC1987ではスポンサーであるNTV:日本テレビが取材に張り付き、また著名なラリードライバー夏木洋介がチームに参加した *1) が、390kgという車重は参加車両中最も重く、ドライビングテクニック云々以前の問題だったようだ。結果に関する記述は分かれる(13日目にゴール*1))、日本テレビの「ソーラー・ジャパン」は千三百二十三キロ走って七日リタイア*8))が、実際の所は、レース終了時点(1位チーム到着の120時間後)ではゴールできていなかったので公式にはその時点でリタイヤ扱い、アデレードまで13日かけて到着したので非公式ながら「完走」ということになる。走行途中のバッテリー交換云々に関しての記述は見あたらないので、SELと同列の扱いになるものと考えられる。


1988年 SJM−3 「ポチのひなたぼっこ」、「ソーラ雪姫」

 レース用ソーラーカーばかりが注目されると、ソーラーカー=特殊な車両と思われかねないと考えた江口氏はソーラーカーの実用性をアピールしようと一人乗りコミューターカー「ぽちのひなたぼっこ」を製作し'88年の三菱アイデアGPに出品、フューチャー賞を受賞。岡崎市発明工夫展では発明協会長賞を受賞した。
SJM−3(ぽちのひなたぼっこ)諸元
車両寸法 全長2.5m、 全幅1.2m、 全高1.4m、
車両構造 パラソル型(推定)前1輪、後ろ2輪の後輪駆動の3輪車
空車重量 80kg
太陽電池 NT187単結晶シリコン(シャープ) 出力160w
 パネル全体が出力最大点を求めて前後左右に自動的にチルトする。
駆動系  不明
最高速度 15km/hr
 同じく江口氏の企画製作にて'88年三菱アイデアGPに出品された「ソーラ雪姫」は、深めのお椀を伏せたような形態の不思議な乗り物。立姿の腰の高さであるお椀は、ドアを開けて人が乗り込むとフレアスカートに見立てられ、足でスイッチを操作することにより前進/後退、回転する。エネルギー元は、お椀の表面に装飾的に埋め込まれた単結晶シリコンの丸形セルであり、(ソーラーカーと呼ぶには抵抗があるが)間違いなくソーラーヴィーグルの範疇に入る乗り物であるといえる。*6)
 いずれもデザイン展では利便性や遊技性を前面に出した形でまとめられていたが、ほぼ、そのままの形で福祉目的に使うことも可能でありソーラーカーの多面性を示したという意味で大変意義深い。

 10月、日本インダストリアルデザイナー協会 関西事業支部が主催したセミナー「ハイテクパフォーマンス『ソーラーカー物語』」が大阪市の国際交流会館で開催され、江口氏が熱弁を振るった。このセミナーには昼/夜二部制で延べ230人が参加した。*6)*9)*10) さらに名古屋デザイン会議(名古屋デザイン博)の事業委員会にて先のセミナーの反響が報告され、翌年7月に開催されるソーラーカーデザインGP開催への提案がなされた。

1989年 ソーラーカーデザインGP 企画運営  *10)*11)*12)

 江口氏の年末年始はソーラーカーデザインGPの企画書作りで潰れた。デザインGPは紆余曲折の末、最終的には日本インダストリアルデザイナー協会本体の主催事業として開催されることとなり、江口氏は事業委員として大会運営を主導した。ソーラージャパンMMCからは、三菱自動車デザイン部勤務の土屋理氏が中心となりSJM−4(初代)太陽虫が出品され、実行委員長賞を受賞した。
SJM−4 (初代)太陽虫 諸元
車両寸法 全長5.8m、 全幅2.0m、 全高1.6m、
車両構造 ムササビ型 後輪双駆動4輪車
空車重量 300kg
太陽電池 NT187単結晶シリコン(シャープ) 出力972w
駆動系  DCマグネットモーター0.75kw×2
最高速度 70km/hr
 ソーラーカーデザインGPでは、日本国内で初めて、市販車改造ではない最初からソーラーカーとしてデザインされた奇抜斬新な姿のソーラーカー複数台が、衆人の見守る中で連なって実際に走る姿が披露された。その様子は多数のメディアにもとり上げられ、一般の人びとへ「ソーラーカー」の存在を強くアピールした。会場では前年に開催されたセミナー「ソーラーカー物語」の資料が配られ*13)、ソーラージャパンチームのソーラーカー製作ノウハウが広く発信された。

 # 日本国内での、最初のソーラーカー展示、デモ走行は
 # '85年の東京モーターショーにおける東京電機大学藤中研究室による。
 # ただし、この時の展示は市販車改造、セパレートタイプであった。

 この年に開かれた第1回朝日ソーラーカーラリーin神戸にて太陽虫はグランプリを獲得した。WSC87の僅か2年後にプロトタイプから数えて既に5台ものソーラーカーを製作したノウハウを有するチームは他に無かったのである。

1990年 エリプスガイド設立 WSC1990

 江口氏は1990年に18年間勤務した三菱自動車工業を退社して独立し、有限会社エリプスガイドを設立した。*5)*10) 第2回のWSCには、都合で参加できなくなった前回のチームリーダーに代わり、江口氏自らがチーム代表となり新車「SJM−5 ソーラージャパン号」にて参加した。手厚いスポンサーが付いた前回とは様変わりで、経済的には非常に苦しい状況であったという。二ヶ月の突貫工事で製作された「ソーラージャパン号」のデザインはさらに自己主張の強い物になった。車体は、前1輪、後2輪の三輪車。ドライバーシートは前方に突き出した平板パネルと、車両後半を覆う湾曲したアーチ型パネルの陰になり、アーチパネルの裾に後輪が位置する。江口氏のソーラーカー形態分類にて天狗型とされたマナラ号の超変形版とも解釈できる。*21)*22)


ソーラージャパン号(SJM−5) 1993ソーラーカーレース鈴鹿にて(太田龍男氏撮影)

 結果は念願の「公式に完走」、総合30位、所要時間は96.83時間であった。口約束だったスポンサーからは結局協力が得られず、帰国後は参加費用の借入金返済に追われた。脱サラして、新会社を設立した直後でもあり、大変な御苦労があったものと想像するが、時のソーラーカーブームの後押しもあり、地方巡業(?)、各種イベントでの子供試乗用ソーラーカーの製作販売等でなんとか3年程で返済しおわったとのことである。*10)

 1990朝日ソーラーカーラリーにはソーラージャパンMMC名義にて初代「太陽虫」が出場している。*14)*15) WSCとは会期がほぼ重なっていたものと推定されるので、デザインGP同様に別働隊であった物と想像する。

1991年

 1991朝日ソーラーカーラリーに「シャープ・ソーラージャパン」出場。公式プログラムに掲載された写真より「ソーラージャパン号」にスポンサー名を冠したものであることが解る *16) 

1992年

 1992朝日ソーラーカーラリーに「ソーラージャパン号」にて、横浜、名古屋、神戸の3会場すべてに出場。*17)
 ソーラーカーラリーin能登 カテゴリーI、フリークラスIに出場。

1993年 ソーラージャパン毎日号 WSC1993

 スポンサーに合わせて冠名と車体色を何度も変えながらソーラージャパン号は延べ約5000kmを走行、この間、改良を続け1993年にはUNIQ社のモーターを採用し3年間に比較して運動性能は2倍近くに向上していたという。
 前年、前々年は展示会的側面の強い朝日ソーラーカーラリーに出場していたが、1993年は競技色の強い3つのイベント:

 朝日ソーラーカーレースinTIサーキット英田 クラス3優勝 総合4位 *25)*26)
 ソーラーカーレース鈴鹿1993 Todayクラス16位、総合28位 *19)
 1993WSR(World Solar Car Rallye in AKITA) Sクラス5位、総合21位 *20)

に参加して競技感を磨き、WSC1993には毎日新聞のスポンサードを得て「ソーラージャパン・毎日号」(UNIQ使用、SJM−5 Ver.3) として参加 *21)*22))、結果は、堂々の完走、総合34位(80:10時間)であった。

 WSCと会期が近い1993朝日ソーラーカーラリーin神戸には ソーラージャパンJr.名義にて「Sharp Kid」が出場した。*18) 結果:Aクラス2位、総合3位

 ソーラージャパン・毎日号はWSC1993を最後にレースから引退、実に8000kmという走行距離は1993年時点のソーラーカーでは世界屈指の記録であったと思う。ソーラージャパン・毎日号は東京竹橋の科学技術館に2003年まで展示され、訪れる人びとに夢を語り続けた。

1994年

'94朝日ソーラーカーラリーin神戸  BEE QUIET Aクラス11位 総合36位
'94朝日ソーラーカーラリーin名古屋 BEE QUIET Aクラス5位 総合11位 人気投票1位

1995年

'95朝日ソーラーカーラリーin幕張  BEE QUIET Cクラス出場 結果不明
'95朝日ソーラーカーラリーin神戸  BEE QUIET Aクラスエントリー、出走せず

1996年

 1996ソーラーカーラリーin能登 BEE-QUIET オープンの部23位 *23)



BEE-QUIET '94 朝日ソーラーカーラリーin神戸にて(太田龍男氏撮影)

*1) 斉藤敬,「ソーラーパワーが翔んだ 第一回ワールドソーラーカーレース」,文藝春秋,1989.01.15.
*2) エリプスガイド Ellipse Guide http://www.e-guide.ne.jp/1999/solar/sjm_1.html
*3) エリプスガイド Ellipse Guide http://www.e-guide.ne.jp/1999/solar/sjm_2.html
*4) 出所不明(ソーラーカーデザインGPで配布されたチラシか?)「三菱のソーラーカー」,三菱自動車, 1989頃, *5) 江口倫郎,ソーラーチャレンジャー,「カースタイリング63」,三栄書房,1988.03.31.
*6) 江口倫郎, ハイテク・パフォーマンス「ソーラーカー物語」, JIDAセミナー資料, 社団法人日本インダストリアルデザイナー協会, 1988.00.00. *7) INTAN MOTOR(インドネシアの自動車雑誌),表紙,No.03,1987 *8) 「ソーラーカーの思い出」(読売新聞1987年12月5日より転載)
  http://www.sel.co.jp/sel_p02.htm
*9) 南武, 「1991年の蒸気機関車」,収録詳細不明(JIDA関係の出版物), pp16-17,1992頃. *10) 江口倫郎, 「特集1 ソーラーカーの21世紀」, JIDC NEWS HOT LINE+Vol.02, pp01-04, JIDA:日本インダストリアルデザイナー協会, 1996.08.25. *11) 江口倫郎,「ソーラーカー ラリーやコンペで普及促進、早期実用化に期待高まる」,にっけいでざいん,1989年11月号,pp74-77, 1989.11.00. *12) 小倉正樹,「21世紀に向けてクリーンカー・デザインを模索する」, ル・ボラン, 立風書房(現学習研究社), 1989.10. *13) 江口倫郎氏インタビュー
*14) 後藤公司,「ソーラーカー」,pp140-149,日刊工業新聞社,1992.02.29.
*15) '90朝日ソーラーカーラリー公式プログラム(江口倫郎氏提供)
*16) '91朝日ソーラーカーラリー公式プログラム(江口倫郎氏提供)
*17) '92朝日ソーラーカーラリー公式プログラム(堺市立工業高等学校科学部提供)
*18) '93朝日ソーラーカーラリー公式資料エントラントリスト(堺市立工業高等学校科学部提供)
*19) ソーラーカーレース鈴鹿 歴代成績
*20) http://www2.ogata.or.jp/wsr/results/93wsr.htm
*21) 江口倫郎,日本のソーラーカーデザイン「カースタイリング93」,三栄書房,1993.03.31.
*22) エリプスガイド Ellipse Guide http://www.e-guide.ne.jp/1999/solar/sjm_5.html
*23) ソーラーシステムズNo.66,p39,ソーラーシステム研究所,1996.09.16.
*24) 高倉秀行氏(現:立命館大学理工学部長)インタビュー
*25) '93朝日ソーラーカーレースinTIサーキット英田 公式資料
*26) Solar Japan News Vol.2,1993.05.06.

第一稿   20060101
追記    20060321
改訂作業中 20060528

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5.東京農工大学
  Tokyo University of Agriculture and Technology


1987第一回WSC出場に向けて準備を進めていたが、資金が集まらず断念。*1)*2) 私の後輩たちは先駆者の仲間入りをすることが出来なかった。

*1)斉藤敬,「ソーラーパワーが翔んだ 第一回ワールドソーラーカーレース」,文藝春秋,1989.01.15.
*2)中島祥和,車と心に太陽を!,「カースタイリング63」,三栄書房,1988.03.31.

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Copyright Satoshi Maeda@Solar Car Archaeolgy Research Institute
太陽能車考古学研究所 2006.01.01