琵琶湖周航の歌
Circumnavigation on the Lake Biwa

作詞者「小口太郎」



長野県岡谷市湊 釜口河川公園に立つ 小口太郎の銅像



作詞者 小口太郎 の生涯

 琵琶湖周航の歌の作詞者 小口太郎 は、明治30(1897)年8月30日に長野県諏訪郡湊村(現岡谷市、諏訪湖の南西岸)に生まれた。

 生家は篤農家で、父親の銀之助は湊村の村長という名家であるが、父も、祖父も、二代続けての婿養子という女系家族だったので、太郎は待望の男の子だった。湊尋常高等小学校を経て(旧制)諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)を卒業した。小学校時代から秀才の誉れ高く、また音楽にも親しく、笛、尺八、オルガンやヴァイオリン、楽箏を演奏するマルチプレイヤーだった。

 旧制中学卒業後は一年間、地元の高島尋常高等小学校の代用教員を務めたが、学問への志高く、翌年、第三高等学校に進学した。長男でもあり、跡を継いで欲しい父親は難色を示したようだが、親戚の浜考平氏が「とにかく受験させてはいかがか。落ちればあきらめもつくだろう。」と父親を説得して受験を許され、見事に合格、父親も渋々と進学を認めたということであった。



長野県岡谷市湊 釜口水門

 浜家は小口太郎の祖父の実家にあたり、小口太郎と浜考平は又従兄弟(曾祖父が同じ)になる。

 浜考平氏の甥に当たる浜徳太郎氏は旧制松本高等学校を各学年で故意に落第して二年ずつ、計6年間在籍して卒業したという豪傑で、その間、「春寂寥」、「夕暮るる」、「血は燃えさかる(雲にうそぶく)」などの(旧制)長野高等学校の初期の主要な寮歌の作曲者を行った。同じ松本高校出身の北杜夫の「どくとるマンボウ青春期」にも「年中、寮のオルガンを弾いていて予定通り落第する。二年続けて落第すると放校になってしまうから、次の年にはちょっと勉強して進級する」と、その豪傑ぶりが語られている。1956年には日本クラシックカークラブを創立している。
 浜徳太郎氏の妹の浜すゞは小口太郎の恋人とも許婚者とも云われている。

 浜すゞ(河西鈴子)は、浜家の東京への転居に伴い小学校を転校、九段精華高等女学校から日本女子大学附属高等女学校に4年次に転校(21回卒業生)して浜徳太郎夫人のふじ子さんと同級になり、卒業後自由学園に進み、教育評論家の羽仁説子(はに せつこ、1903年4月2日 - 1987年7月10日)女史と同級生であった。(ピアノ専科を卒業とのことだが、何れの学校であるかは記されていない。)結婚して千葉に住むが、戦争末期に死別、郷里に帰り、上諏訪町役場に勤務。助役の河西修治と知り合い、河西家の後妻となる。以来、河西家の本業であった塩羊羹の老舗「新鶴本店」を切り盛りした。昭和35年に修治氏が亡くなってからは一人で店を守り、息子の幸一氏が銀行を定年退職して戻ったのを期に引退。平成3年6月に87才で永眠。晩年の飯田忠義氏と並んだ写真(飯田著書p139)では上品な老婦人という感じ、若い頃の写真(「浜家の人々」として飯田著書扉、安田編書扉に掲載)では、鼻筋のすらりとした美人である。後年に浜徳太郎夫人のふじ子さんが語ったところによると、浜家に奉公していた「ばあや」が「太郎様は鈴様に恋いこがれて死になすった」と話していたということである。

 成蹊大学教授で琵琶湖周航の歌の調査にのめり込んだ安田保雄氏は、NHKの飯田忠義氏が製作した「琵琶湖周航の歌」に関する特集番組に河西鈴子さんが登場したことをきっかけに、鈴子さんの姉が、安田氏が生前親しくしていた知人:木島平次郎氏(大正3年一部乙卒)の夫人妙子さんであることを知り、吃驚仰天した。


長野県岡谷市湊 釜口河川公園から眺める諏訪湖

 甥に当たる小口博義氏(長兄の太郎が早世したため弟の秀雄氏=博義氏の父が小口家を次いだ)が幼かった頃には、まだ小口太郎作の鉱石ラジオ、手製の琴、筏と自転車を組み合わせた水上自転車(!)などが残されていたそうである。

 第三高等学校大学予科二部乙類に入学したのは大正5(1916)年の9月、水上部(ボート部)に入り、翌大正6年6月末の琵琶湖周航時に「琵琶湖周航の歌」が誕生した。歌の誕生にまつわるエピソードは「誕生の経緯」に述べたとおりである。

 大正8(1919)年7月に第三高等学校を卒業し、同9年に東京帝国大学理学部物理学科に入学し、大正11(1922)年3月に卒業、5月に東京帝国大学航空研究所に入所し、顕微鏡の分解能を増す研究に従事した。



長野県岡谷市湊 釜口河川公園から眺める諏訪湖

 大学在学中の大正10(1921)年に、有線及無線多重電信電話法の特許を英、独、仏、豪、スエーデン、カナダに出願し、翌年6月に日本特許が成立(日本国特許第42787号)している。このエピソードは多くの資料で触れられているが、この特許の全文は残念ながら読んだことがない(古すぎて現特許庁の電子図書館には収録されていない)。が、小口太郎生誕90周年記念誌に、図面を含む一部が掲載されており、概ね発明の概要を把握することができる。小口太郎の発明はアナログ式の時分割多重通信法の提案であり、磁気記録再生を応用した音声信号の圧縮と多重化、信号分割と音声再生装置に関する物である。
 多重通信そのものは1876年2月14日に米国でベルとグレイにより同日に特許申請されており、1877年(明治10年)にはベル電話公社設立、同年に日本にも輸入され、工部省〜宮内省間に電話機が設置されているくらいなので、多重通信そのものを発明した訳ではない。ただし、ベルらが発明した多重通信はAM変調を用いた周波数多重通信である。

 時分割多重通信が実現したのはデジタル通信時代になってからである。音声をデジタル信号に変え(パルスコード変調)、複数の信号をまとめてデジタル送信し、受信側で再生する方式で、今日の電話はほぼ100%がこの搬送方式である。小口太郎の発明は、デジタル化手段を使わずに、これに近いことをアナログ式に行おうとする物であった。音声信号を波形を時間方向に圧縮し、空いた隙間に、別の圧縮された信号を入れて、同時に送ろうという思想である。

 おそらく当時としては概念的にも新しい考え方であったと思うが、さらに波形の時間方向への圧縮手法がユニークである。鋼線を磁気記録媒体としたレコーダーを用い、(当時は磁気テープは未だ無かった)録音された信号を、随時、鋼線進行方向とは逆の向きに動くヘッドで読み込むのである。読み取りヘッドが制止していれば、再生信号は元信号と同じだが、読み取りヘッドを、鋼線の進行方向と逆方向に動かして読めば、ドップラー効果で早送りと同じ効果を得ることができる。つまり音声信号が圧縮されて甲高くなる分、時間が短縮されるわけである。

 特許には、この装置を数台並べた概念図付されている。並べた装置の読み取りヘッドの動きのタイミングをずらしてやれば、圧縮で空いた時間に次々に別の信号を詰め込む事ができる。復調は逆の操作を行えばよい。

 この特許出願は原文のまま訂正無しで特許査定された。周囲の方々は絶賛している。

 小口家はかなりの金額を特許取得に費やしているが、恐らく特許料収入は得られなかっただろう。

 この装置を運用しようとすれば、複数の録音装置をエンドレスで動かし続けなければならないのだが、当時の技術では、記録媒体である鋼線とヘッドに、それに耐えるだけの耐久性がなかったものと想像する。

 東京帝国大学航空研究所での研究内容を「電子顕微鏡の研究」としている資料もあるが、電子線を磁気によりレンズのように収束できるのを実験で示したのは1927年ドイツのハンス・ブシュであり、電子顕微鏡として完成させたのは1931-1932年、ドイツのマックス・クノールとエルンスト・ルスカ であるので、少々時期がずれている。


長野県岡谷市湊 釜口河川公園から眺める諏訪湖


 小口太郎は、大正12(1923)年5月に徴兵検査に合格。6月に航空研究所を退職。同年の12月に松本連隊に入営予定であったが、入営した記録はない。大正13(1924)年、時期は不詳であるが神経衰弱の治療のため東京府豊多摩郡淀橋町(現・新宿区)山田病院(精神科)に入院し、5月16日に自ら命を絶った。

 研究が思うように進まなかったこと、入営すれば研究を続けられないことを悩んで心を病んだと云われている。飯田忠義氏は、さらに失恋がきっかけになったのでは、と述べている(浜すゞとの結婚を、考平氏に「少し待て」と止められ、小口太郎がそれを拒否と受け取ったのではないか?と推測している)。いずれにせよ当人にしか解らぬ事である。当時の小口太郎を知る人達は、生きていれば、ノーベル賞級の功績を挙げていただろうと、口を揃えて、その早世を惜しんでいる。

 軍隊に入るのは、よほど嫌だったようで、なんとか徴兵を逃れることができないかと色々と相談したり画策したりしていた様子があり、研究テーマ自体も原理的に難しい内容であり、行き詰まりを感じていたのではないかと想像する。


小口太郎顕彰碑、銅像と琵琶湖周航の歌の歌碑


諏訪湖の西端、天竜川の源に釜口水門が設けられている。
小口太郎は、その釜口水門に隣接した河川公園から諏訪湖を眺めていた。



長野県岡谷市湊 釜口河川公園 小口太郎の銅像


 小口太郎は、物心ついたときから、諏訪湖を見て育った。諏訪中学校在籍時には湖畔の道を、毎日10km近くも歩いて通ったという。

 小口太郎は、長じるまで「海」を見たことは無かったものと想像する。第三高等学校に入り(あるいはその受験時に)初めて琵琶湖を見た小口太郎は、そのスケールに圧倒されたに違いない。琵琶湖の南端から北側を眺めれば、北岸が見えることは滅多になく、水平線を見ているのと同じ感覚を持つだろう。(実際に水平線が見えているわけでは無いのだが、水蒸気により対岸の山々が霞んで見えないのである。対岸がはっきり見える日は年間に数えるほどしかない。)



長野県岡谷市湊 釜口河川公園から 小口太郎と共に眺める諏訪湖


小口太郎像横の碑文


拡大画像



長野県岡谷市湊 釜口河川公園から眺める諏訪湖


小口太郎 略年表

1897年 明治30年 8月30日、長野県諏訪郡湊村花岡(現・岡谷市)に生まれる。生家は篤農家で父銀之助は村長。
1904年 明治37年 湊尋常小学校に入学。作文を得意とする。 
1910年 明治43年 諏訪中学校(現・諏訪清陵高等学校)に入学。音楽を愛し、バイオリン、琴、尺八などを奏する。
1915年 大正4年 諏訪郡高島尋常高等小学校の代用教員を勤める
1916年 大正5年 第三高等学校(現・京都大学)大学予科第二部乙類に入学
1917年 大正6年 6月、水上部(ボート部)の二部クルーによる琵琶湖周航に参加。
1919年 大正8年 7月、第三高等学校卒業。同年9月東京帝国大学(現・東京大学)理学部に入学。長岡半太郎らの指導を受ける。
1920年 大正9年 許嫁ともされた浜すず宅を友人等と訪問。
1921年 大正10年 「有線及び無線多重電信電話法」の特許を日本及び6カ国に出願
1922年 大正11年 東京帝国大学卒業。東京帝国大学航空研究所に入所
1923年 大正12年 5月、徴兵検査甲種合格。6月、東京帝国大学航空研究所退職し諏訪に帰郷。9月、関東大震災、親戚の山岡家を心配し上京。同年12月松本連隊入営予定であったが入隊せず。
1924年 大正13年 神経衰弱の治療のため東京府豊多摩郡淀橋町(現・新宿区)山田病院(精神科)に入院(時期不明)。5月16日、山田病院にて自ら命を絶つ。二六歳。

公開   2009.01.21.
追記   2009.03.29.
追記   2010.11.28.
改訂   2010.12.05.
改訂   2015.08.15.

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