琵琶湖周航の歌
Circumnavigation on the Lake Biwa

「琵琶湖周航の歌」関連曲



琵琶湖周航の歌 系図
Water Lilies
寧楽の都
七里ヶ浜の哀歌(真白き富士の根(嶺))
琵琶湖哀歌
四高漕艇班遭難追悼歌


琵琶湖周航の歌 系図


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WATER-LILIES

 原曲である「ひつじぐさ」の歌詞の元になった曲。

    出版 Frederick Warne and Co. (London)
    刊行年 不明
    書名 Songs for our Little Friends'


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MIDIファイル


 三高同窓会報41(昭和47−48(1972-73)年)に掲載された、堀準一氏の「琵琶湖周航の歌とその作者」および「衛濤会(えいとうかい)全国大会での懐古座談会での五十子巻三氏の発言」を読み、「琵琶湖周航の歌」のメロディが *イギリスの歌謡* 「ひつじぐさ」によると知った安田保雄氏は、まず、英文学者の小川和夫氏にイギリス歌謡「ひつじぐさ」の調査を依頼した(もちろん当時はまだ「吉田千秋」の存在は知られていない)。結果、小川氏は、

 石川林四郎著「英文学に現れたる花の研究」(大正13年)

にE.R.B.作の「Water-Lilies」の原詩と(石川氏による)訳詩「睡蓮」が掲載されていることを見いだした。 石川氏の訳は、先に堀準一氏が示した岡本愛祐氏記憶による「ひつじぐさ」の歌詞の内容とほぼ一致していた。
 石川氏はさらに遡って、英語青年 明治43年3月15日誌上で訳詩「睡蓮」を発表していた。
 小菅宏資料 p38
 次いで安田氏から話を聴いた斉藤毅氏(前国会図書館副館長)が国会図書館と芸大を調査したが、所蔵無しということで(堀準一氏はこれに先だって既に国会図書館や音楽大学など国内の調査は一通り済ませていたらしく、国会図書館は逆に堀氏に何か情報はないか?と照会している)、大英博物館にまで調査依頼を出し、ようやくさぐりあてたのが、この曲譜であった。やっと琵琶湖周航の歌の「曲」のルーツに巡り会えるかと、いう期待は見事に裏切られたわけである。



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寧楽の都

 小口太郎が、「琵琶湖周航の歌」のメロディとしてイメージしていた、と伝えられている曲。


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寧楽の都 (ならのみやこ)

作詞者未詳

奈良の都の。そのむかし、
雅び尽くして、宮人の、
遊びましけん、龍田川原の、紅葉(もみじば)、
龍田川原の、紅葉、
今も匂う、千汐(ちしお)の色に、
残るかたみは、
千代も朽ちせず、今か今かと、
君をまつらん、その紅葉(もみじ)。

古き都の、その昔、
桜かざして、大君(おおきみ)の、
遊びましけん、滋賀の、花園、花咲き、
滋賀の花園、花咲き、
今も匂う、色香をそへて、
笑める姿は、
千代も変わらず、今や今やと、
行幸(みゆき)まつらん、その花は。

明治17年(1884年)3月29日『小学唱歌集 第三編』


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七里ヶ浜の哀歌(真白き富士の嶺)



稲村ヶ崎の鎌倉海浜公園から七里ヶ浜と江ノ島を望む。残念ながら霞により富士は見えない。

 「琵琶湖周航の歌」の作曲者が明らかになっていなかった時代、琵琶湖周航の歌のメロディは、この曲に触発されて作られたのではないか?という俗説があった。 *) もちろん全くの誤解である。6/8拍子、完全なヨナ抜き音階で構成されたメロディは、確かに今日の「琵琶湖周航の歌」と似た雰囲気を持っている。しかし、原曲「ひつじぐさ」からは、かなりかけ離れていると云わざるを得ない。

*) 森田資料 p110-111


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七里ヶ浜哀歌(真白き富士の根)

作詞 三角錫子

真白き富士の根 緑の江ノ島
仰ぎ見るも 今は涙
帰らぬ十二の 雄々しきみたまに
捧げまつる 胸と心

ボートは沈みぬ 千尋の海原
風も浪も 小さき腕に
力もつきはて 呼ぶ名は父母
恨みは深し 七里が浜辺

み雪は咽びぬ 風さえ騒ぎて
月も星も 影をひそめ
みたまよ何処に 迷いておわすか
帰れ早く 母の胸に

みそらにかがやく 朝日のみ光り
暗にしずむ 親の心
黄金も宝も 何しに集めん
神よ早く 我も召せよ

雲間に昇りし 昨日の月影
今は見えぬ 人の姿
悲しさ余りて 寝られぬ枕に
響く波の おとも高し

帰らぬ波路に 友よぶ千鳥に
我もこいし 失せし人よ
尽きせぬ恨みに 泣くねは共々
今日もあすも 斯くてとわに


 明治43年1月23日、逗子開成中学の生徒11名と、生徒の弟であった小学生1名(この小学生を含め4人が兄弟)が、氷雨が降る悪天候の中、学校のボートを無断で引っ張り出し、消防団員が止めるのも聞かず、江ノ島を目指して漕ぎ出したものの、途中で転覆し、全員が溺死するという事故が起こった。全員の遺体が収容されたのは4日後の1月27日。2月6日には追悼法要が行われ、その席で、鎌倉女子高生達によって歌われたのが、この「七里ヶ浜の哀歌」である。



稲村ヶ崎は鎌倉市南西部にある由比ヶ浜と七里ヶ浜を隔てる岬。陸側は
山が険しく古都「鎌倉」の西側の防衛壁でもあった。鎌倉時代末期、
新田義貞が干潮に乗じて崎の海岸線沿いを突破し鎌倉に攻め入ったとされる。
現在は、稲村ヶ崎から極楽寺に通ずる山を切りひらいて国道134号線が通じている。

 作詞は、鎌倉女学校の教師だった三角錫子(みすみすずこ)で、法要の際には自らオルガン伴奏をしている。メロディは、明治23(1890)年 刊行の 「明治唱歌」 に掲載された「夢の外」 (大和田建樹作詞)を借りている。さらに「夢の外」は聖歌623番「いつかは知らねど」の替え歌である。この曲は長らく「ガードン」ないし「トーマス・ガードン」の作とされていたが、最近の研究で米国人ジェレマイア・インガルス (Jeremiah Ingalls, 1764年-1828年) が刊行した白人霊歌集 「クリスチャン・ハーモニー (Christian Harmony)」の中の一曲であることが判明している。さらにルーツを辿るとイギリス民謡を元にインガルスがアレンジした曲であるらしい。



七里ヶ浜と江ノ島
 先の小学生の弟は、兄にしがみついたままの姿で発見され、当時の人々の涙を誘った、とされており、現在、七里ヶ浜に県立されている遭難碑の銅像はこの兄弟がモチーフになっている。(脱線だが)このエピソード、極めて疑問である。二人が発見されたのは事故の二日後である。雪山での遭難ならいざ知らず、荒れた海で溺死した者どうしが抱き合った状態で発見されることがあり得るだろうか?。この事故の犠牲者達の半数は(中学生といっても旧制中学である)20−21歳の若者である。亡くなった方々はお気の毒であるが、この事故は、云うならば無鉄砲な若者達が大人が止めるのも聞かずに勝手に遭難したわけであって、本来、世間から同情されるような事故では無い。

 

鎌倉海浜公園に設置されている「ボート遭難の碑」
 金田一晴彦氏と安西愛子氏は「日本の唱歌 上」講談社文庫 の七里ヶ浜の哀歌の解説にて、この事故を「不祥事」と呼び、また、「今だったら、新聞の社会面に「無軌道中学生、死のボート遊び」とでも報じられて終わる所だった」と手厳しく評している。

  
「ボート遭難の碑」には3面に碑文が添えられている。
真白き富士の嶺
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 由来書
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 建立者、製作者
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 この事故の犠牲者の捜索には海軍の駆逐艦や水雷艇まで出動した。遭難者の多くが、海軍軍人の子弟だったからである。日露戦争が終わったのが明治38年、ロシア艦隊に勝利し、東アジア近海の制海権を握っていた当時の海軍は相当に幅をきかせていたにちがいない。学校に手落ちがあったとは思えないのだが、当日、同僚を見送りのために不在だった舎監の教師は辞職し、学校側は多額の賠償金を支払うために姉妹校だった鎌倉女学校の中学校専用校舎の土地を手放すことになった。海軍関係からの圧力により、不祥事を誤魔化して美談にすり替える情報操作が行われた可能性が高いと推察する。
 

左:江ノ島電鉄「稲村ヶ崎」駅  右:かながわの景勝50選「稲村ヶ崎」の碑
 「七里ヶ浜の哀歌」と「琵琶湖周航の歌」との間に直接的な関係はない。後に「七里ヶ浜の哀歌」のコード進行に「琵琶湖周航の歌」のメロディが無理矢理組み合わされて「琵琶湖哀歌」が誕生し、この「琵琶湖哀歌」により曲げられた旋律線が逆に「琵琶湖周航の歌」に取り込まれる形で「琵琶湖周航の歌」に間接的影響を与えている。

略年表
明治43(1910)年 1月23日 事故発生
同年      2月6日 追悼大法会開催
        鎌倉女学校生徒らにより「七里ヶ浜の哀歌」歌われた
大正4(1915)年 8月 レコードが発売された
大正5(1916)年 「哀歌 (真白き富士の根)」として歌詞と楽譜が出版された
        同じ頃、演歌師によって一般に広まっていった
昭和10(1935)年 映画「真白き富士の根」(松竹)
昭和29(1954)年 映画「真白き富士の嶺」(大映)



腰越漁港と江ノ島


大正3年(1914年)10月1日、西浜にあった鰹漁用餌の鰯の生け簀をシケから
守るため生け簀に錘を付けようとして遭難した腰越の漁師50余人の供養塔。

碑文拡大

こちらの方々のほうが余程追悼供養すべき人達だと思う。
全国的には、ほとんど知られていない事故であるが、ご覧のように
供養塔に花が備えられており、地元では語り継がれているのがわかる。

参考資料
  金田一春彦、安西愛子, 「日本の唱歌」(上)明治編, 講談社文庫, 1977.01.15.
  堀内敬三・井上武士, 「日本唱歌集」, 岩波文庫, 1958.12.20.
  http://notenkiexpress.blog95.fc2.com/blog-entry-117.html
  宮内寒彌, 「七里ヶ浜」, 新潮社, 1978.01.20.
  村上 尋 ,『真白き富士の嶺―三角錫子の生涯』,
   足立区コミュニティ文化・スポーツ公社 ドメス出版, 1992.06.
  wikipedia



再び、鎌倉海浜公園から七里ヶ浜と江ノ島、霞で見えぬ富士の根を望む 2009年5月

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琵琶湖哀歌

 昭和16(1941)年4月6日 第四高等学校(現在の金沢大学)漕艇班員8人を含む11人が大溝町(現高島市勝野)沖で遭難した。当日は朝からの強風で波が高く湖上は吹雪だったという。捜索も困難を極め、最後の遺体が収容されたのは6月10日であった。

 この事故の犠牲者を弔う歌と云うことで作られたのが「琵琶湖哀歌」である。東海林太郎と小笠原美都子のデュエットで大ヒットした(らしい)。


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琵琶湖哀歌の成立過程

 しかしである。この歌のレコードが発売されたのは昭和16年の6月(日付は不明)である。まだ遺体の捜索が続いていたさなかに、レコード会社は、せっせと制作に励んでいたのである。

 作詞は滋賀県出身の「奥野椰子夫」が担当した。一晩で作れ、とでも命ぜられたのだろう。近江八景や滋賀県の名勝をつまみ食いして並べ、キーワードを填め込んだだけの安直な歌詞である。関連性が話題にされる「七里ヶ浜の哀歌」の歌詞の崇高さとはほど遠い。また四高生により作詞作曲された本当の鎮魂歌である「四高漕艇班遭難追悼歌」とは比べるまでもない。
 奥野椰子夫、本名は弓削保雄、明治35年に滋賀県滋賀郡堅田町(現・大津市堅田)に生まれた。慶応大学文学部卒業後に読売新聞社、都新聞社記者を経て作詞家となった。作詞家として活躍する一方で、日本自転車振興会理事として競輪事業の普及発展にも尽力した。
 本人は、さぞ生涯の駄作と悔やんでいるだろうと思うのだが、出身者の地元では「湖族の郷 文学碑」などと銘打って歌碑が建てられたりしている。

 作曲は戦後バンドリーダー兼ジャズピアニストとして名をはせた菊地博。彼もまた大急ぎで作曲させられたのだろう。琵琶湖といえば「琵琶湖周航の歌」、ボートの遭難事故といえば明治43年に発表された「七里ヶ浜の哀歌」という、これまた安直な発想である。結果、「琵琶湖周航の歌」と「七里ヶ浜の哀歌」を継ぎ合わせただけの安っぽいパクリ曲が出来上がったのである。

(さらに「七里ヶ浜の哀歌」のルーツを辿ると、1700年代の英国まで遡るのだが、これはまた別の機会にまとめることにしよう。)
 「琵琶湖哀歌」を「琵琶湖周航の歌と並ぶ名曲」などと褒める人も少なくないが、反感を買うことを承知で、あえて「この曲は駄作である」と書かせていただくことにする。

 歌は当初は東海林太郎のソロの予定だったが、たまたまデビューほやほやの小笠原美都子が見学に来ていたので、じゃあ一緒に歌え、ということでデュエットになったという、これまた即席である。

 琵琶湖哀歌は、このように、表看板は犠牲者追悼でありながら、その実はレコード会社(帝国蓄音機)の商魂の塊のような代物である。しかし音楽の良し悪しと、大衆に支持されるか否か(ヒットするかどうか)は必ずしも相関しないのが常である。



滋賀県大津市堅田 湖族の里文学碑「琵琶湖哀歌」

琵琶湖哀歌に対する評判

 私自身は滋賀県出身ではない。「琵琶湖哀歌」を知ったのは、「琵琶湖周航の歌」にのめり込むようになってからである。県外ではさほど知られていないものと捉えている。この曲を「琵琶湖を代表する歌だ」と絶賛する人は少なくない。しかし、逆に(滋賀県で生まれ育った人に)「琵琶湖周航の歌」と「琵琶湖哀歌」を混同している人もまた少なくない。

 琵琶湖哀歌が生まれたのは昭和16(1941)年の初夏である。年末には真珠湾攻撃による米国との開戦を控えた殺伐とした世情であった。当時、この曲が、勇ましいだけの軍歌を聞き飽きた大衆の圧倒的支持を得たのは確かなようである。

 三高OBは、この歌に手厳しい。堀準一氏は次のように書いている
 本章の結論をいえば、「周航歌」の曲は桜楽会で歌われていた日本語歌曲の「未草」(注:ひつじぐさ)の曲に全面的に拠っており、それが歌いやすく少し変化しているに過ぎず、独立した作曲とは言えない。英語の児童唱歌WLの曲とは全く異なり、「七里ヶ浜の哀歌」との曲の類似性を云為するのは愚論であるということになる。況や際物稼ぎのレコード会社が、即席五目飯の如く「周航歌」と「七里ヶ浜」とをかき混ぜて作った「琵琶湖哀歌」など、並べ論じる紙面はない。

「三高同窓会報」51号 1979
 堀準一氏は、昭和4年卒、「琵琶湖周航の歌」のルーツ探しをライフワークにし、作曲者が「吉田ちあき」であることまで辿り着いた所で、H3年に亡くなられた。
 当事者でもある四高生の方はさらに上を行った。後に社会党の京都市議になり、同和問題と朝鮮人問題に取り組んだ末松徹夫は、犠牲者の一人が彼と懇意だった朝鮮出身者だったこともあってか、この歌に猛烈に反発し、金沢から東京のレコード会社にまで抗議に押しかけ、レコードの発売中止を申し入れたのである。
 そのころ、琵琶湖での四高生遭難を題材にしたレコ−ド「琵琶湖哀歌」がコロンビア(まま)から発売され、東海林太郎らが歌って一世を風びした。末本はこれが気に食わなかった。
 「われわれの仲間の不幸を金もうけの手段にするとは許せん」
 寮の仲間を伴い東京のコロンビア本社(まま)に押しかけレコ−ドの発売禁止を直談判。会社側はもちろん応じなかったが、友を思う末本らの熱情に押されたのか、その見返りに末本の同期生が作詞した「琵琶湖追悼歌」をレコ−ドにして無料で出すことを約束、意気揚々と金沢に引き揚げた。

引用もと: 前田隆司, 「にんげんシリ−ズ 市議は走る/京都 第三話, 学者肌」, 毎日新聞 1985.05.08.-1985.05.21. (サロン吉田山サイトからの孫引き) http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/tetusigi.html
 (注 レコード会社が「コロンビア」とされているが「テイチク」の誤り)
 この事故の一周忌には、遭難地点に近い荻の浜湖岸に桜の苗木が植えられた。苗木は生長し、今日では老木となり一部が植え替えられている。荻の浜の入り口には「四高桜の碑」が建てられている。刻まれているのは琵琶湖哀歌ではなく、四高生によって作詞作曲された「四高漕艇班遭難追悼歌」の歌詞である。

「琵琶湖哀歌」と「琵琶湖周航の歌」の比較

 前置きが長くなった。

 「琵琶湖哀歌」と「琵琶湖周航の歌(移行形)」を並べた譜例を以下に示す。いかがであろう。


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 1−2小節、音の動きは異なるが和声進行は似ている。(哀歌はC−C、周航歌はC−Am)
 3−4小節は全く同じ。
 5−6小節は、冒頭の1−2小節と同じ。
 7−8小節、移行形とは、一カ所異なるが、ヨナ抜き化すれば(=新旋律であれば)同じになる。

 9−10小節 ここだけが旋律、和声とも異なる。この部分は「七里ヶ浜哀歌」の「還らぬ十二の〜」部分のパクリ
 11−12小節 小節変わり目の進行が異なるが大筋同じ。
 13−16小節 ヨナ抜き化すれば(=新旋律)全く同じ。


「琵琶湖哀歌」が「琵琶湖周航の歌」に与えた影響

 さて、本サイトの趣旨において重要なのは琵琶湖哀歌が琵琶湖周航の歌に与えた影響である。

 堀準一氏が述べているように、「七里ヶ浜の哀歌」も「琵琶湖哀歌」のどちらの曲も、「琵琶湖周航の歌」の成立過程にはなんら影響を及ぼしてはいない。逆に「琵琶湖哀歌」は「琵琶湖周航の歌」のパクリ曲である。ここで注目すべきは、「パクってつくられた琵琶湖哀歌が琵琶湖周航の歌に逆影響を与えた」ということである。「琵琶湖哀歌」は「琵琶湖周航の歌」の和声進行とメロディの大部分を借用している訳であるが、その際に、「琵琶湖周航の歌」が原曲「ひつじぐさ」から受け継いだ重要な二つの要素を消してしまっている。
(1)西洋音階がヨナ抜き五音階に単純化されている。
(2)正旋律が残した14小節目後半の旋律(和声)進行が、新旋律(移行形)風に変化している。
 正旋律の14小節目は「ひつじぐさ」の形がそのまま残っている箇所であったが、続く15小節目の旋律が「ひつじぐさ」とは異なっているため、この部分の和声進行はやや不自然な形になっている。一方、琵琶湖哀歌では「琵琶湖周航の歌」の15−16小節目の形をそのまま残し、前後が自然につながるように14小節目が変更されている。平たく云うと「琵琶湖哀歌」の方が歌いやすいのである。その結果、「琵琶湖哀歌」の最後部がそのまま「琵琶湖周航の歌」に逆導入され、何時しか置き換わってしまい、「移行形−新旋律」のメロディになったのである。

 7−8小節(しみじみと)、15−16小節(いざさらば)のヨナ抜き化により「新旋律」に移行するのは、それより後になる。直接的には加藤登紀子版の影響が大であるが、琵琶湖哀歌も間接的に関与していると考えられる。



滋賀県大津市堅田 湖族の里文学碑「琵琶湖哀歌」

歌詞部分拡大   奥野椰子夫紹介文拡大

参考資料
http://www.geocities.jp/biwako_sosui/biwakokanren.htm
http://www.pref.shiga.jp/biwako/koai/handbook/files/t1_2~3.pdf

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四高漕艇班遭難追悼歌



滋賀県高島市勝野 四高桜の碑

四高漕艇班遭難事件概略と追悼歌

 昭和16年(1941年)4月6日 第四高等学校(現在の金沢大学)漕艇班員8人を含む11人が琵琶湖での遠漕中に、荒天のため、大溝(現・高島市勝野)、荻の浜沖合約1km付近で遭難した。四高漕艇班は、インターハイ(旧制高等学校対抗戦)にて5回の優勝経験を持つ強豪であった。事故は、昨年の優勝に続く連覇を目指しての強化合宿の最後の締めに行われる遠漕の帰路に起こった。当日は朝から強風で波が高く湖上は吹雪だったという。琵琶湖で恐れられる突発性の嵐「比良八荒」である。捜索は難航を極め、11人目の遺体が発見されたのは事故発生から六十六日目になる6月10日であった。

 捜索が続く最中の5月10日に第四高等学校講堂にて慰霊祭が行われ、そこで歌われたのが、四高生による作られたこの「四高漕艇班遭難追悼歌」であった。



滋賀県高島市勝野 荻浜 四高桜公園
 遭難者には、病気で遠漕に参加出来なかった1名を除く、全現役メンバーが含まれており、しかもその内5人は昨年の優勝経験者であった。漕艇班は事実上壊滅と云ってよい状況であったが、亡くなったクルーの志を継ごうと、他の運動部からの志願者が新しい再建クルーを結成した。彼等は歴代漕艇班卒業生達の指導で、すでに厳しい練習に取りかかっていた。しかし彼らの志も虚しく、大会会場になる瀬田で直前練習に励む彼等に、軍の命令によるインターハイ中止の報が届けられたのであった。

 その知らせが届けられ、新メンバーが失意に沈んだ翌日、大溝町主催の「遭難クルーの百ヶ日法要」が行われた。再建クルーらは遭難地点で力漕にて遭難者への弔意を示し、荻の浜では金沢から駆けつけた女学生達により、再び「四高漕艇班遭難追悼歌」が歌われたのであった。

四高漕艇班遭難追悼歌

石上晃、満島俊次 作詞
加藤二郎     作曲

一、 思い(い)づる調べも哀し
春浅く 水藻漂う志賀のうみ
かの日風立ち雲たれて
呼びこたうこだまのみ
たそがれに流れいゆきぬ
二、 はろばろと今に帰さんすべもなき
この愁いはたこの嘆き
さざなみさやぐ志賀のうみ
ますらおの青春(はる)の日を
沈めしと うつつなりや
三、 ああ在りし日の いさおしゆえに
嘆かいはいよよはげしく
たくましきますら男(お)の子の
思い出にめぐり来る春の日の
新たな涙つきせず
四、 沖の島に春の陽(ひ)てりと
ほのぼのと霞わたれり
岸近くさまよいゆきて
砂にぎり砂にぎりしめ夕なみに
いまはなき友を偲びぬ
五、 さはれ見よ今よみがえりゆく
若き児の夢とのぞみよ
空青く水青きところまたゆかむ
ゆく春の血潮にそみて
夕陽散るかの潮路を

四高漕艇班遭難事件

 昭和16年(1941年)3月23日、四高漕艇班の春合宿が琵琶湖で始まった。合宿所は大津市石山、現在の京大艇庫のすぐ近くである。四高漕艇班は前年の昭和15年(1940年)に瀬田川で行われたインターハイで5回目の優勝を成し遂げた強豪であった。今時の合宿でも連覇を目指すために厳しい練習が行われた。この年のメンバーには昨年の優勝経験者が5名残っており、まさに最強のチームであった。この合宿の仕上げであり、楽しみが合宿の最後に行われる3日間の琵琶湖遠漕である。

予定は以下の通りであった。
4月4日 午前7時 大津を出発、
 堅田、近江舞子(雄松)で昼食、
 大溝を経て午後6時に今津着、
 長濱屋に宿泊。
4月5日 午前8時 今津を出発、
 竹生島を一周し、船木崎を経て
 午後6時に近江舞子着
4月6日 午前8時 近江舞子を出発、
 午後2時に大津着
 初日は、順調に進み、予定より早めに今津に到着した。途中の白髭神社では力漕20本を奉納した、と余裕である。小松(近江舞子)に立ち寄った模様で、雄松館の主人磯田伊三郎氏がクルーに「波が荒くなりそうな際には湖岸沿いを進むように」と忠告している。
 白髭神社は滋賀県高島市鵜川にある。元来の住所は滋賀郡志賀町鵜川。昭和31年(1956年)鵜川地区が志賀町から分離して高島郡高島町に編入、その後平成17年(2005年)に高島郡の全町村が合併して高島市が発足したので現在は前記の住所となる。

 白髭神社は猿田彦命が祭られた近江地方で最も古い神社と云われている。湖中にある大鳥居が印象的である。この厳島神社にも似た大鳥居は、社伝・社記に「古来波打ち際に鳥居が見え隠れしていた」あるいは「天下変災の前兆として社前の湖中に石橋や鳥居が突然姿を現した」と伝えられる伝説に基づき、昭和12年に、小西久兵衛氏の寄進で建てられたものである。三高の小口太郎の周航時にはまだ無かった訳だが、四高のクルー達はこの大鳥居を眺めて漕ぎ進んだのだ。なお、現在の大鳥居は昭和56年の琵琶湖総合開発の補償事業で再建されたものである。



夜明けの白髭神社、湖中大鳥居
 この大鳥居建立(再建?)に先立ち白髭神社前に江若鉄道が開通している。(大正8年(1919年)に滋賀県浜大津(現・大津市)から福井県遠敷郡三宅村(現・三方上中郡若狭町)までの鉄道敷設免許状が下附され、大正9年(1920年)2月に江若鉄道が設立されて工事開始、大正10年(1921年)に滋賀県の三井寺下−叡山間の6kmで開業。以後、北に向かって工事が進められ、白髭神社前を通る北小松−大溝間は昭和2年(1927年)12月25日に開通、今津までが開通したのが昭和6年(1931年)1月1日である。)当時の線路は、山と湖の間の猫の額ほど砂浜の上を走っていた。
http://nishioumi.ct-net.com/00-12.shtml

 この江若鉄道のお陰で、四高の遠漕クルーは陸上移動のサポート部隊から支援を受けながら、漕ぎ進むことができたのである。
 二日目は霧が深く視界が悪すぎで竹生島周回を断念。さらに雄松崎(小松)の宿も取れなかったので、今津周辺での練習に予定を変更して初日と同じく長濱屋に宿。

 運命の4月6日。天候は薄曇り、北西の風に小雨が混じるが東の方には青空も見えるという解りにくいコンディション。遠漕組の出発は7時45分。陸上部隊は江若鉄道に乗り、近江舞子に先回りして待つ事になった。途中、大溝から白髭付近で風が強くなった。湖沿いを走る江若鉄道からボートを探すが見当たらず、予定の近江舞子で待ち続けるが結局ボートは現れない。琵琶湖の南北を結んでいた定期船にも問い合わせたが「ボートは見かけず」との返事。

 翌4月7日、ボートが風で湖東に流された可能性有りと、琵琶湖東岸も捜査範囲に入れて捜索開始。朝、東岸の沖の島の漁船が四高ボート部のオールを発見、さらに午後には同じく東岸の伊崎不動付近でオール、下駄などが発見された。天候は大荒れで湖上は吹雪。波高く、捜索船も自由に動けず。

 4月8日、この日も湖上は強風。捜索に、京大、同志社、神戸商大等、近隣校のボート部が参加し、さらに水上飛行機も出動。午前10時に無人のボートが琵琶湖東岸の新海付近で発見された。夕刻には琵琶湖西岸の大溝、荻の浜沖の約1kmの地点で最初の遺体発見。同時にボートのラダーも発見された。ボートが転覆するとラダーは抜け落ちるので、遭難地点はこの付近であろうと推察された。

 4月10日 二人目の遺体発見。警察の捜索はこの日で打ち切り。
 4月11日 学校と遺族関係者による捜索続行。遺族の手配で広島から漁夫10名の応援、瀬戸内海で使われる漁具「文鎮鉤」を使い、2体発見。以後、4月17日まで捜索が続くが、遺体発見出来ず。組織的な捜索はいったん打ちきりとなった。

 四高では、既にボート部再建の活動が始められており、亡きクルーの意志を継いでインターハイ優勝を狙うとし、他の運動部から腕に自信のある精鋭達がボート部員に志願していた。

 5月10日 第四高等学校講堂にて慰霊祭が行われた。石上晃、満島俊次作詞、加藤二郎作曲による「四高漕艇班遭難追悼歌」が歌われたのはこの時である。
 この日までに発見された遺体は11人中4体に過ぎず、まだ7体が未発見のまま湖底で眠っていた。

 5月18日 金沢近郊の金石(かないわ)漁業組合の協力による捜索再開が決まり、翌19日、アカエイ漁に使うアカエ縄(青竹にアカエイ漁に使う釣り針を複数本吊るし、漁は時に重りを付けて沈めて引く)にて一体発見。以後、ラダー発見場所を中心に捜索範囲を広げ、6月1日までの間に5体が見つかり、最後の遺体の発見は6月10日、事故発生から実に六十六日間、遺族と学校関係者による遺体捜索が続けられたのであった。

 7月8日、瀬田川で開催されるインターハイに出場するために、再興ボート部のメンバーは熱狂的な応援に見送られて金沢を発った。瀬田の合宿所には全国から四高ボート部卒業生が激励と指導のために詰めかけ、最後の練習が行われていた最中の7月12日、インターハイ中止という非情の報が彼等に届けられた。

 真珠湾攻撃により日本が太平洋戦争に突入する5ヶ月前である。既に日中戦争は泥沼化し、日本は世界中から孤立させられていた時期であった。インターハイ中止は軍の指令であった。

 失意の新メンバーは、しかし、その翌日に大溝町の主催で行われた「遭難クルーの百ヶ日法要」に参加し、湖上法要を行う大正丸の汽笛と共に、遭難地点での力漕にて遭難者への弔意を示した。そして、荻の浜では金沢から駆けつけた女学生達が再び「四高漕艇班遭難追悼歌」を歌い、亡くなった11名の霊を慰めたのであった。

 「四高漕艇班遭難追悼歌」は金沢大学の四高寮歌のページで聞くことができる。

 帝国蓄音機(現・テイチク、昭和9年(1934年)設立)が「琵琶湖哀歌」を発売したのは昭和16年(1941年)6月である。前にも述べたとおり、まだ遺族と関係者による懸命の遺体捜索が行われていた最中に、レコード会社はせっせと製作を進めていたのであった。



滋賀県高島市勝野 荻浜 四高桜公園

四高桜

 事故の遺族、関係者は毎年、遭難者の遺体仮収容所であった妙琳寺で法要を営んでおり、法要の後、現地の浜で「四高漕艇班遭難追悼歌」が斉唱されるという。

 翌昭和17年(1942年)には、追悼のため大溝の県道沿いに地元住民と四高関係者が協力して千本の桜を植え、萩の浜に「第四高等学校漕艇部遭難の碑」(四高桜の碑)を建立した。植樹された桜は「四高桜」の愛称で観光客や地元の人に親しまれてきたが、老木となり樹勢が衰えてきていた。  昭和60年には「琵琶湖四高桜保存会」が結成され、ヤマザクラの植樹を行うなど四高桜の維持に尽力した。平成8年(2006年)に湖岸沿いの県道が拡張されることになり、四高桜が植えられた付近は概ね工事区域に入ってしまうことになった。この計画が明らかになった(2003年頃?)時点で昭和17年に植えられた初代四高桜の本数は相当に減っていたようで、これを機会に桜を湖岸に移植して「四高桜公園」として再整備することとなった。平成15年(2003年)に「四高桜を守り育てる会」が結成され、四高桜の枝をヤマザクラに接ぎ木して鉢植えを作り、会員が自宅で育てて現地に移植する運動が現在(2011年)も進行中である。なお「四高桜の碑」は道路を隔てて少し離れた内陸側に移設されている。また拡張された湖岸道路の内陸側には初代四高桜だと思われる桜の大木が数本残されている。

 

滋賀県高島市勝野 四高桜の碑  左:正面  右:背面  背面拡大


滋賀県高島市勝野 四高桜の碑 由来書(昭和17年)
(風化して読めなくなった背面の由来書を再現)

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滋賀県高島市勝野 四高桜の碑 修復保存記(昭和61年)

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滋賀県高島市勝野 荻浜 四高桜公園

参考資料
  海東英和(元)高島市長のブログ  http://kaitohi.exblog.jp/4246361/
  横井幸雄, 「北の都漕艇歌 追悼琵琶湖遭難」, 新日本法規出版, 1983.11.04.
  飯田忠義, 「琵琶湖周航の歌 小口太郎と吉田千秋の青春」,p51, 自費出版, 2007.11.20.

遭難現場付近の地名についての補遺(2015.01.03.)
 遭難地点の現高島市勝野は、明治35年から昭和18年まで大溝町であった。「大溝」は1578年、織田信澄により建てられた大溝城に由来、江戸時代にはこの地域を治めた大溝藩の名前にもなった。大溝城趾、大溝橋に名を留めるが現在の行政区名としては残っていない。
 1889年(明治22年)4月1日 永田村・勝野村・音羽村の区域をもって大溝村が発足。
 1902年(明治35年)11月1日 大溝村が町制施行して大溝町となる。
 1943年(昭和18年)4月29日 高島村・水尾村と合併して高島町が発足。
 2005年(平成17年)1月1日 - マキノ町・今津町・朽木村・安曇川町・新旭町と合併して高島市が発足。


暫定公開   2009.02.21.
七里ヶ浜関係の画像追加   2010.12.26.
四高漕艇班遭難追悼歌   2010.12.31.
四高桜に関する記述を一部訂正・追記   2011.09.01.
遭難地点の地名に関する部分を訂正、追記   2015.01.03.


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