琵琶湖周航の歌
Circumnavigation on the Lake Biwa

原曲「ひつじぐさ」 と 作曲者「吉田千秋」


******  INDEX  ******

作曲者 吉田千秋
原曲 「ひつじぐさ」
「ひつじぐさ」の詞と創作過程
「ひつじぐさ」の音楽
「ひつじぐさ」賛美歌起源説


作曲者 吉田千秋

 「ひつじぐさ」の作曲者、吉田千秋は明治28年(西暦1895年)2月18日に新潟県中蒲原郡小鹿村大字大鹿(現・新潟市、旧新津市)に生まれた。父親は歴史・地理学者であった吉田東伍で、千秋は次男である。ちなみに兄は春太郎、妹が小夏、弟が冬蔵、その後に生まれた妹は、梅とあやめである。千秋誕生時は日清戦争の最中で、父東伍は読売新聞の従軍記者として軍艦「橋立」に乗船中であった。



彦根北部湖岸から長浜〜湖北方面を望む

 吉田東伍は吉田家の婿養子だったが、研究のために大鹿の家には居着かず、東京で居を転々と替えていた。千秋は2歳の時に母と共に父と同居するために上京し、東京で尋常小学校に入学したが、数ヶ月後に新潟の実家に預けられる形で転校、高等小学校に入学したのは新潟だったが2年次には再び東京に転校となった。この新潟と東京を行ったり来たりの生活は生涯続くことになる。明治40年には東京で中学校に入学したが、この頃から肺結核が悪化しだした。東京では神田の古書街を歩いては書を求め、英語はもとよりフランス語、ドイツ語、ラテン語、ギリシャ語、ロシア語など外国語を独学し、さらにはその外国語を活かしてドイツ語の本で音楽を独習した。肺結核の療養のために入院した茅ヶ崎南湖院の院長であった高田耕安を通じキリスト教思想に触れ、聖書も外国語で読んだ。

 千秋が中学校に入学した頃、父東伍は、千秋と兄の俊太郎の語学の勉強のため、高価だった蓄音機を買い与えた。二人はこの蓄音機にかじり付いて英語のレコードを聴いたという。千秋の英語聞き取りの成績は優秀だった。音楽は独学だったのだが、耳が良かったのであろう。聞き覚えた曲を採譜し、さらに自分の声域にあわせて移調して歌ったりしていた。千秋の声は低かった。家にあったハーモニカを器用に吹きヴァイオリンや手風琴(アコーディオン)や卓上ピアノを上手に弾いたのを弟の冬蔵氏は驚きと憧れをもって記憶しておられた。彼もまた、小口太郎と同じようにマルチプレーヤーだったのだ。音楽的に小口太郎と吉田千秋の異なる点を強いてあげれば、吉田千秋は和声楽器に長けていたという点であろう。

 父の東伍の実弟(異母弟)旗野十一郎(とりひこ)は、陸軍参謀本部の編纂官の後、明治25年東京音楽学校(現東京芸大)の教官となり、韻学と文学の講義を担当した。当時の学生に滝廉太郎がいる。「空も港も夜は晴れて、月に数ます舟の影」と歌う文部省唱歌「みなと」は彼の作詞である。他にも数々の唱歌や外国曲に詞をつけている。



彦根北部湖岸から長浜を望む
 吉田千秋の音楽はやがて作詞・作曲に向かう。彼は自分で作詞、ないし訳詩したものにしか曲を付けていない。健康であれば自分で歌いたかっただろう。すなわち(シンガー)ソングライターである。体調がそれを許さぬ事を知っていた彼は、自分の作品を、できるだけ他人が演奏できるようにしようと考えていた。雑誌への積極的な投稿は、その現れである。

 明治45年、大日本農会附属東京農学校(現・東京農業大学)に入学。大正2年頃から音楽雑誌、ローマ字雑誌に投稿を開始し、ローマ字雑誌では年長の学者にも論戦を挑んでいる。「音楽界」に「Water lilies」の訳詩を投稿し9月号に掲載。2年後の大正4年に、その訳詩を歌詞にして混声4部合唱曲「ひつじぐさ」を作曲、「音楽界」8月号に掲載される。結核の方は思わしくなく、病状悪化により東京農業大学を休学し、後に退学、茅ヶ崎南湖院への入院を経て、大正4年秋には療養のため大鹿に帰郷することになった。。大鹿ではキリスト教無教会派の集会に参加して讃美歌などの作編曲や唱歌の指導をしつつ(実はオルガンが弾けたかららしい)実家の庭ではチューリップ、菖蒲、ダリア、ボタンなどの栽培を試みている。今日、新潟県の花とされているチューリップの大量栽培に成功したのは小田喜平太であるが、栽培着手は吉田千秋の方が2年早かったのだ。



長浜港、豊公園の遠景 左手に停泊中の琵琶湖学習船「うみのこ」、船尾付近に長浜城天守閣が見える。

 結核の方はさらに進行し、大正8年(西暦1919年)2月24日、吉田千秋は24年の短い生涯を新潟県の実家にて閉じた。生前に琵琶湖を見たことはなく、作詞の小口太郎と直接出会ったこともなく、ましてや自分の作った曲に別の詞が付けられて「琵琶湖周航の歌」として歌われていたことを知ることも無かった。



琵琶湖北東湖岸から竹生島を望む。

 琵琶湖周航の歌が「ひつじぐさ」を原曲としていたことは長い間忘れ去られており、極々最近まで「作詞作曲 小口太郎」と記されていた。琵琶湖周航の歌の作曲者捜しを本格的に手がけたのは、昭和四年に三高を卒業された堀準一氏であった。堀氏が「琵琶湖周航の歌」が「ひつじぐさ」という別の歌のメロディを借りているようだ、という事を知ったのは昭和46年(1971年)、さらに楽譜を入手出来たのが昭和51年(1976年)別資料では昭和54年(1979年)である。堀氏は琵琶湖周航の歌が「ひつじぐさ」を原曲とすること、「ひつじぐさ」の作者の名前が「吉田ちあき」であり、新潟に縁があるらしいことまでは突き止めたが、残念なことに平成3年(1995年)に他界された。



「吉田千秋」コーナー  琵琶湖周航の歌資料館にて

 「吉田ちあき」が歴史・地理学者の吉田東伍の次男であり、元新潟大学文学部教授の吉田冬蔵氏の実兄である「吉田千秋」だと判明したのは平成5年(1997年)である。新潟県の地方紙に掲載された、滋賀県今津町教育委員会の落合良平氏が「琵琶湖周航の歌」で町興しを企画しており、作曲者「吉田ちあき」の消息を探している、という小さな記事が、偶然にも、新潟県安田町で、吉田東伍展の準備をしており、吉田家の系図を書いた旗野博氏の目にとまったのであった。

山村基毅「千秋経歴判明の経緯」 森田資料 p166 「潮」1993年12月号



琵琶湖周航の歌と原曲作者「吉田千秋」がつながった
瞬間を伝える雑誌記事 琵琶湖周航の歌資料館にて

 吉田冬蔵氏と千秋氏は11才違いである。その冬蔵氏が旧制新潟高等学校に通っていた時に「琵琶湖周航の歌」を良く歌った、と証言している(大正13年(1924年)前後か?)。自分が愛唱していた歌の作者が、若くして亡くなった自分の実兄であったことを知った冬蔵氏の驚きはいかほどであったろうか。ラジオ放送もなく、レコードも今日のように流通していなかった時代に「琵琶湖周航の歌」は誕生して数年の間に全国の若者の間で歌われる歌になっていたのである。

小菅宏, 『「琵琶湖周航の歌」の謎 作曲者・吉田千秋の遺言』, 日本放送出版協会, P25., 2004.09.25.



琵琶湖北東湖岸から竹生島を望む。

吉田千秋 略年表

1895年明治28年2月18日、新潟県中蒲原郡小鹿村大字大鹿(現・新潟市、旧新津市)に生まれる。父(吉田東伍)は従軍記者として軍艦「橋立」乗船中。
1897年明治30年10月、別居していた父の元に母と共に上京
1901年明治34年4月、牛込区赤城尋常小学校に入学。同年7月、新潟県小鹿尋常小学校に転校。
1906年明治39年新津高等小学校1学年終了後に上京。赤城高等小学校2学年に転校。
1907年明治40年東京府立第四中学校に入学。この頃より肺結核が悪化。父東伍が千秋のために蓄音機と米国製レコードを購入。
1909年明治42年語学に凝る。英国ペンパルクラブに入会して文通。他に仏語、独語、ラテン語、ギリシャ語、ロシア語、すべて独学。音楽も同様。
1910年明治43年肺結核治療のため茅ヶ崎南湖院に入院。高田耕安院長を通じキリスト教思想に触れる。
1912年明治45年大日本農会附属東京農学校(現・東京農業大学)に入学。
1913年大正2年音楽雑誌、ローマ字雑誌に投稿を開始。病状悪化により東京農業大学を休学。後に退学。
1914年大正3年雑誌「音楽界」の編集主体である「音楽教育会」に所属。
1915年大正4年「ひつじぐさ」を雑誌「音楽界」に投稿、8月号に掲載される。秋、療養のため大鹿に帰郷。キリスト教無教会派(内村鑑三提唱)の集いに参加するようになり、讃美歌の作・編曲と唱歌指導を行う。
1917年大正6年チューリップの実地栽培。他に菖蒲、ダリア、ボタンなどを栽培。失恋を経験か?
1918年大正7年1月、父吉田東伍が療養先の千葉県銚子市で死去。夏に治療のため上京するが、秋に帰郷。
1919年大正8年2月24日、大鹿の祖父母のもとで永眠。24歳。


原曲:ひつじぐさ

 琵琶湖周航の歌の原曲とされる「ひつじぐさ」の楽譜を示す。


高解像度pdfファイル


「ひつじぐさ」弦楽合奏  MIDIファイル        「ひつじぐさ」オルガン  MIDIファイル

原曲の強弱指示に従っていますので、再生音量にご注意ください(突然大きくなります)。


この楽譜は、
小菅宏著 『「琵琶湖周航の歌」の謎 作曲者・吉田千秋の遺言』
日本放送出版協会, 2004.09.25.
の扉頁に掲載されている写真(雑誌「音楽界」の掲載頁)を元に浄書したもので、音符の旗の向き、スラー、タイの位置も原典に従っている。ただし8小節目のソプラノ、アルトパートの二分音符であるべきところが付点二分音符になっていた所だけ訂正した。



「ひつじぐさ」の詞と創作過程

 「ひつじぐさ」は、雑誌「音楽界」の大正4年(西暦1915年)8月号に掲載された。「ひつじぐさ」とは睡蓮の和名である。歌詞には「 Water Lily (睡蓮)」という英国の児童唱歌(原作詩者不明)の訳詞が用いられており、この訳詞もまた吉田千秋自身によるものである。

おぼろ月夜の     月明かり
かすかに池の     面(おも)に落ち
波間に浮かぶ     数知らぬ
ひつじ草をぞ     照らすなる

雪かとまがふ     花びらは
黄金の蘂(しべ)   を取り巻きつ
波のまにまに     揺るげども
花の心は       波立たず

風吹かば吹け     空曇れ
雨降れ波立て     さりながら
徒波(あだなみ)の下 底深く
萌えいでたりぬ    ひつじ草

 この訳詩は「音楽界」に楽譜が掲載されるさらに2年前の大正2年(1913年)の雑誌「ローマ字」9月号に掲載されている。時に吉田千秋18才、別に原作がある訳詩とはいえ、内容を過不足無く翻訳した上に、独自の表現を織り込んで全体を七五調にまとめ上げており、実に見事である。創作の域に近いものと云ってよいであろう。小菅宏氏はこの訳詩に、吉田千秋の植物への繊細な気配りと心象風景の一端を見ることができる、と述べている

 この訳詩の発表から、混声合唱曲「ひつじぐさ」の発表まで2年間を要している。語学に堪能であった吉田千秋はドイツ語の書物で音楽を独学してこの曲を書き上げたのである。単にメロディを作っただけでなく、無伴奏の混声合唱曲という、音楽として演奏可能な必要最低限の形に完結させている。休符を挟まないメロディの書き方、6/4拍子、曲の途中にフェルマータがある等、賛美歌に多くみられる様式を複数備えている。キリスト教に興味を持っていた吉田千秋は、当時すでに外国語の聖書を読破していたとのことで、賛美歌なども十分に研究していたものと想像する。

 「ひつじぐさ」が「音楽界」に掲載された直後、吉田千秋は東京農科大学を退学し、療養のために父親の実家であった新潟に移った。「ひつじぐさ」は、病気の進行により自分の体力が削られていくのを感じながら過ごす日々に作曲されたのである。結核の特効薬:ストレプトマイシンが日本で普及するのは第二次世界大戦後であり、当時の結核は不治の病であった。



「ひつじぐさ」の音楽

「ひつじぐさ」の主旋律と、「琵琶湖周航の歌」のメロディは大筋同じだが細部はけっこう異なっている。この点についてはメロディの変遷の項で触れることとし、ここでは「ひつじぐさ」の音楽を少し詳しく見てみたい。

 「ひつじぐさ」には明確な表現指示が付けられている。

Tranquillo maestosa 落ち着いて堂々と
 また、強弱記号もまた細かく付けられており、最弱である「pp」から、最強である「ff」までの幅広いダイナミックスが要求されている。

 曲のほぼ中間点である10小節目に付けられているフェルマータも特徴的である。曲の途中にフェルマータを入れるのは、古い賛美歌にしばしば見られるスタイルである。この場所でのフェルマータ指示には少々無理があると感じるが(しかも強弱記号は「ff」で、ソプラノ声部は最高音の高いG音)、おそらくは、幅広い強弱指示と合わせて劇的な演奏効果を期待して、あえて、付したものと解釈出来る。

 吉田千秋が24年間の生涯で発表した音楽作品は「ひつじぐさ」を含めて7曲に過ぎない(習作含め20余曲が残されている。断片なども合わせると200曲近く作曲しているという研究例もある)。「ひつじぐさ」は発表順では音楽作品の第3番ということになる。他の6曲の内の1曲は二重唱曲であるが、他はいずれもメロディのみであり、彼が、いかに「ひつじぐさ」に思い入れを持っていたかが解る。波がたとうが、風が吹こうが、雨が吹こうが凛と咲き続ける「ひつじぐさ」の隠れた力強さに、才ありながらも不治の病を得てしまった運命に立ち向かおうという自分自身の心象を写し、言葉と音楽の両面で表現しようとしていたと感じるのである。


 「ひつじぐさ」の歌詞は3番まである。よって、楽譜にリピート記号は書かれていないが、3回繰り返されるのは自明である。しかし、3回ともフェルマータを入れ、ソプラノ声部を高いG音にして歌う必要はない。歌詞との整合を考えれば、最も音楽的な盛り上がりを付けるべきは3番であり、3回目のみ高いG音でフェルマータを採るべきである。雑誌投稿という、紙面の限られた中に出来る限りの表現を詰め込まなければならない場面では1〜2番と3番とを分けて書く事は許されなかったのである。
 近年(希とはいえ)「ひつじぐさ」を聞く機会にも遭遇するのであるが、3回とも高いG音でフェルマータを入れて歌われているのを耳にすると、楽譜は読めても、音楽が読めない人が少なくないことを嘆かずにはいられなくなる。


「ひつじぐさ」賛美歌起源説

 水空間研究家である相楽利満氏は、「ひつじぐさ」について「ひつじぐさが吉田千秋のオリジナルだったのかといえば,恐らく違うと思っております。」と述べている。

http://www.osaka-rc.org/html/speech/speech_20040618.htm
 「相楽利満」は「サラリーマン」の洒落字、氏の本名は佐藤茂雄氏である。京都大学法学部卒業、漕艇部のOBで、実は京阪電鉄の元社長さんである。
 三高OB、京都大学OBにとって、小口太郎は最も尊敬すべき先輩の一人と位置づけられている。その小口太郎の作詞作曲だと信じていた「琵琶湖周航の歌」が、実は替え歌だったということが判明した際には少なからず動揺があったようだ。しかも、当時はその元歌の作者「吉田千秋」が何者であるか?が皆目分かっていなかったのでなおさらである。
 「琵琶湖周航の歌の世界」に掲載された、相楽利満氏の小説「我は湖の子」は、その時の相楽氏自身の心境を、自分の詞が自分の意図していた「寧楽の都」のメロディとは全く異なる「ひつじぐさ」のメロディで広まってしまったことに困惑していた小口太郎に重ねた物語であろう。

 相楽氏の仮説には根拠がないわけではない。確かに吉田千秋の音楽作品の中では「ひつじぐさ」だけが突出して完成度が高いのである。他にも、森田編書に、加藤登紀子氏がイランのテヘランにて「琵琶湖周航の歌」のレコードを聴かせた際に、英国人の奥さんから「私の国の歌を歌ってくださって有り難う」と感謝された、というエピソードが伝聞の形で引用されている。しかしながら、その「私の国の歌」が何という歌であるかについては不詳とされている(もちろん「 Water Lilies 」の事ではない)。

 相楽氏の仮説を証明するには、「ひつじぐさ」に似た曲を探し当てれば良いだけだが、仮説を否定するには、世界中の曲(賛美歌に限定したとしてもその数は無数に近い)と付き合わせて、似た曲が存在しなかったということを示さなければならない。この課題は「吉田千秋探し」よりも難題になるだろう。
 賛美歌は無数にあるが、今日、日本で一般に歌われている賛美歌の中に「ひつじぐさ」に似た曲は無い。外国の賛美歌について、全てを調査することは不可能に近いが、少なくとも明治期に日本に導入された(日本語に訳された)賛美歌については、手代木俊一監修の明治期讃美歌・聖歌集成(大空社)に収録されている。当全集は、タイトルどおり、明治期に日本で出版された各宗派の賛美歌集を再版した全42巻からなる全集である。筆者は上京の機会に時間を作って都立図書館に通い、半年ほどかけて当該全集の全巻をチェックしたが、少なくとも「ひつじぐさ」と酷似した曲を見つけることはできなかった。

 *21)飯田資料によれば、手代木俊一氏自身が「『ひつじぐさ』にはワンクッション置いた讃美歌の影響があるが、自分が知っている讃美歌の中に『ひつじぐさ』似ている讃美歌は無い。」と述べているとのことである。この資料を先に読んでいれば、おそらく私自身、明治期讃美歌・聖歌集成の全巻をチェックしようなどとは考えなかったであろう。

 「ひつじぐさ」のメロディが「七里ヶ浜の哀歌(真白き富士の嶺)」の影響を受けているのではないか、との説があり、先の資料では手代木俊一氏もその説を支持しているようである。吉田千秋が一時、療養のために入院した茅ヶ崎南湖院は七里ヶ浜を見渡すことができ、さらに彼が残した遺稿の中の、お気に入りの曲を書き写した音楽帳にも「七里ヶ浜の哀歌(真白き富士の嶺)」のメロディが書き留められているとのことである。が、別項でも触れるが、この説は的はずれである。「七里ヶ浜の哀歌(真白き富士の嶺)」の原曲は讃美歌であるが、元々完全なヨナ抜き音階である。一方の「ひつじぐさ」は全音階で作られており、メロディの生い立ちが根本的に異なるのである。同じく別項で詳しく触れるが、「ひつじぐさ」が「琵琶湖周航の歌」になった以後に「七里ヶ浜の哀歌(真白き富士の嶺)」の間接的影響が及び、元々全音階であったメロディが、今日歌われる「部分的にヨナ抜き化された」琵琶湖周航の歌のメロディに変化していったのである。



公開   2009.01.21.
改訂   2009.03.08.
追記(讃美歌起源説)   2009.04.04.
飯田資料追記   2010.11.28.
改訂・追記   2011.01.01.
微改訂   2011.07.16.


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