琵琶湖周航の歌
Circumnavigation on the Lake Biwa

「琵琶湖周航の歌」誕生の経緯と背景


******  INDEX  ******

「琵琶湖周航の歌」の誕生
「琵琶湖周航の歌」の完成
三高生は、如何にして「ひつじぐさ」を知ったのか
大正時代の合唱事情
大正時代の軍楽隊


「琵琶湖周航の歌」の誕生


 「琵琶湖周航の歌」は大正6年(1917年)6月28日、琵琶湖の北西岸にある今津(現、高島市)で誕生した。

 作詞者の小口太郎氏は長野県の諏訪湖畔の出身、当時は二部乙(理工学部の工学系)の学生で二部の水上部(ないし漕艇部、要するにボート部)の選手だった。明治30年(1897年)8月生まれということなので19才である。(当時の)学期末にあたる6月末〜7月始めの時期にボートで琵琶湖を周航するのが二部クルーの慣例であった。周航二日目、今津に宿泊した際に「小口がこういう詩を作った」とクルーの一人中安治郎氏が皆に紹介した。歌詞には曲をというので、クルーの一人、谷口謙亮氏が、当時三高の中で歌われていた「ひつじぐさ」のメロディで歌って見たところ歌詞によく合い、これはピッタリだ、ということになった。歌の上手い谷口氏は、この組み合わせが気に入ったようで、事ある毎にこの歌を歌い、やがて三高生皆が愛唱するようになっていった。

より詳しい経緯については
森田穣二編「吉田千秋「琵琶湖周航の歌」の作曲者を尋ねて」
     増補改訂版, 2000.08.20., 新風社
小菅宏著 『「琵琶湖周航の歌」の謎 作曲者・吉田千秋の遺言』
     日本放送出版協会, 2004.09.25.
三校私説より三高歌集 琵琶湖周航の歌
  http://www2s.biglobe.ne.jp/~tbc00346/component/biwako.html
安田保雄編 小口太郎と「琵琶湖周航の歌」
     1977.02.27.非売品
飯田忠義,『琵琶湖周航の歌 小口太郎と吉田千秋の青春』
    (自費出版), 2007.11.20.

を是非、御一読いただきたい。

 書物はもちろんであるが、手軽に読めるWeb上では「三高私説」氏によるサイト三高歌集 琵琶湖周航の歌が、琵琶湖周航の歌と同時代を過ごした御自身の記憶・経験をベースに、多くの資料を ---- 御自身が収集されたものは勿論、他者の文献資料に見られる錯誤点、矛盾点は、丹念に集めた証拠により正した上で ---- 集大成した大著である。

 ちょっと「文字が多すぎる」という方は、まずはこちらの高島市(旧今津町を含む)によるサイトをどうぞ。


「琵琶湖周航の歌」の完成

 「琵琶湖周航の歌」の完成年については、大正6年説の他に、大正7年説と大正8年説がある。

 「琵琶湖周航の歌」が三高歌集に初掲載された際には「大正8年 小口太郎 作詞作曲」とされていた。これは、この歌が、(おそらくは歌集の編集権を握っていた文芸部員により)はじめて歌集に書き留められた年を示していると考えられている。

 大正6年周航時の今津宿でこの歌が歌われた際には全部の歌詞は未完成で、現在6番まである歌詞が一通りそろうまでにはもう暫くの時間を要したようである。4番ないし5番以後の歌詞は周航メンバーの合作的な作業の後、寮での歌詞検討委員会なるものの審議があり、さらに歌集掲載後も文芸部員による改定、ボート部員による再改定など多少のゴタゴタを経て現在の形に落ち着いた。その間、小口太郎氏自身が友人に「寧楽の都」的なメロディがいいな、と語ったエピソードや、6番の歌詞について、「西国三十一番長命寺」では歌に収まらないのでも「西国十番」にした、と語ったエピソードが残されている。6番まである形になったのが何時の時点であるかは解っていないが、おおよそ大正7年にはいってからだろうと考えられている。五十子巻三氏は、大正6年周航時にはまだ未完成だったので「歌稿」であり、完成したのは大正7年であったと主張しているのはかかる経緯からである。

 なお「琵琶湖周航の歌」のルーツ探しの途中経過として、周航時の今津宿でのエピソードが大正7年であったとされていた時期がある。「紳陵史−第三高等学校80年史」が編纂されたのはちょうどこの時期(1980年刊行)であったため、紳陵史には「大正7年」と記されている。これは証言者の勘違いや、周航時の記念写真の人物名の誤記があったためである。この誤りについては堀準一氏が個々に矛盾点を解析し、新たな証言や資料を加えて大正6年であったことを証明して正している。さらには小口太郎自身が今津から友人に当てた絵はがきが見つかり、これが大正6年説の決定的な証拠となった。


 小口太郎氏はオルガンやヴァイオリンも弾けるマルチプレイヤーであった。自身は理工系であり「琵琶湖周航の歌」の文語的な歌詞についても、文系の友人に「不適切な所はないか?」と校正を頼んでそうで、どちらかというと作詞より作曲の方に自信があったのではないか?と想像する。「琵琶湖周航の歌」についても「寧楽の都」的なメロディで、自分で作曲しようとしていたのは確かなようで、当時は作曲者も判然としなかった「ひつじぐさ」のメロディに乗せて、自分の詞が歌われ、広まって行く様を、少々戸惑いを感じながら受け止めていたようである。

 「ひつじぐさ」は、雑誌「音楽界」の大正4年(西暦1915年)8月号に掲載された吉田千秋による作品である。「ひつじぐさ」とは睡蓮の和名、元々は「 Water Lily(睡蓮) 」という英国の児童唱歌(原作詩者不明)の歌詞を吉田千秋が訳し、その訳詩に、吉田千秋が別のメロディと和声を付けた曲である。つまり、「英国の歌の歌詞の和訳に付けられた別のメロディ」なのだが、途中の情報が欠落し、琵琶湖周航の歌のルーツ探しが行われていた頃には「英国の歌」という情報だけが残っていたのである。以後「琵琶湖周航の歌」のルーツ探しに取り組んだ人達はこの「英国歌謡」ないし「英国民謡」という不確かな情報に惑わされる事になったのだが、それは別の項に書くことにしよう。





三高生は、如何にして「ひつじぐさ」を知ったのか

 「琵琶湖周航の歌」は、相当に有名な曲であるが、原曲の「ひつじぐさ」を知る人は希であろう。当時の三高生たちは、如何にして「ひつじぐさ」の歌を知ったのであろうか? 

 この点については、あまり他サイトでは触れられていないようなので(これまた、先の書物からの拾い出しであるが)少し紹介しておきたいと思う。

 原曲である「ひつじぐさ」は吉田千秋氏により大正3〜4年(1914〜1915年)頃に作曲され、音楽雑誌「音楽界」に投稿されて、大正4年8月号に掲載された。「琵琶湖周航の歌」誕生は大正6年6月であるから、時系列的には問題はない。しかし、レコードなどが今日のように流通していたわけではなく、ラジオ放送もまだ無かった時代である(ちなみに、日本でラジオ放送が始まったのは大正14年(1925年))。音楽は楽譜として流通し、再生するには、自分で演奏するか、ないしは誰かに頼んで演奏して貰うかしか無かった時代である。「ひつじぐさ」の歌は、どのようにして三高学生に歌われるようになったのであろうか?。当時の三高の学生達は、今日の私達がTVやCDやウェブ配信で音楽を聞き覚えて歌を歌うように、音楽専門誌に掲載された楽譜を自ら読んで歌を歌っていたのであろうか?。
 当時の三高生達はエリートではあったが、皆が皆、楽譜をスラスラ読み書きできた訳ではない。バンカラ気風を尊んだ彼等は、楽譜を読むなど女々しい行為だくらいに、むしろ小馬鹿にしていた輩の方が多かっただろう。楽譜を読み書き出来る人がもう少し多ければ、他の寮歌の類を含め、もう少し当時のまともな楽譜が残されているはずであるが、明治〜大正期に、しっかりした楽譜が残された寮歌、学生歌は極めて希である。多くのそうした歌は、昭和以後にようやく記譜されるようになったが、口伝による間に作曲当時とは随分と違う形に変化してしまったものも少なくないと云われている。
 三高生に「ひつじぐさ」を教えたのは、三高音楽サークル「桜楽会」の合唱指導者であった。飯田忠義氏の調査によれば、当時、桜楽会の合唱を指導していたのは、大阪の陸軍第四師団軍楽隊楽長補の宮崎利武という人物である(資料*21)p91)。宮崎楽長補はガリ版刷りの楽譜を自ら配り、熱心に指導したとのことである。「ひつじぐさ」も宮崎楽長補が配布したものであった。谷口謙亮氏が安田保雄氏からの質問に答えた返信によれば、当時は桜楽会メンバーだけでなく、一般の学生もコンパなどで一緒に歌うことがあったとのことである。宮崎利武楽長補がいなければ、「琵琶湖周航の歌」は別のメロディで歌われていたのかもしれないのだ。



大正時代の合唱事情

 ここまで来ると、もう一つ疑問が湧いてきた

 雑誌「音楽界」に掲載された「ひつじぐさ」は元々混声四部合唱で書かれている。宮崎楽長補によるガリ版刷りの楽譜は残されていないが、真鍋左武郎という人が、当時桜楽会の会員所有のガリ版印刷物から筆写したという「ひつじぐさ」の楽譜が残されている[森田資料 p127-129]。タイトルは「睡蓮」とされており(「ひつじぐさ」のルビは堀準一氏による加筆)、音符は非常に慣れた筆跡で、強弱記号、ブレス記号を含め、原典の音楽界とほぼ同じである。これより、残されていない「ガリ版印刷物」もまた、原典に忠実に写されていた物と考えて間違いない。

 宮崎楽長補は混声四部合唱の楽譜を、男ばかりだった旧制高等学校の音楽サークルに持ち込んだのである。女性パートはどうしたのであろうか? それとも旋律だけで斉唱していたのであろうか?

 # 三高の流れをくむ京都大学に混声合唱団が設立されたのは昭和に入ってからである。

 この疑問には合唱通の友人が明快に答えてくれた。当時は(今も)男声合唱で混声4部で書かれている曲を歌う際には、女性パート(ト音記号)を、そのままテナー記譜(男声の実音より1オクターブ上に記譜)と読み替えて強引に歌っていたということである。キリスト教系の学校では大正時代にすでにコーラス部があり(ただし男ばかり)賛美歌をそのような歌い方で取り上げていたらしい。


大正時代の軍楽隊 *22)

 第三高等学校桜楽会は、いわば旧制高等学校の学生によるクラブ活動に過ぎない。そのクラブ活動を、現役の軍人である軍楽隊の楽長補が指導しているという点について、違和感を持つ人がいるかもしれない。陸軍現役将校学校配属令が公布され、旧制高等学校でも現役軍人の指導による軍事教練が実施されることになったのは、もう少し先の大正14年(1925年)からである。

 陸軍第四師団の本部は大阪にあった。第四師団軍楽隊の前身は明治19年に創設された大阪鎮台軍楽隊であり、明治21年に大阪鎮台が陸軍第四師団に改変された際に第四師団軍楽隊となった。軍楽隊は、本来は軍隊の式典演奏や行進の先導を務めるための楽団であり、身分は軍人である。しかし、ラジオもレコードも無く、音楽ホール以前に常設の楽団すら珍しかった当時、軍楽隊は一般公開の演奏会を頻繁に開催し、(軍隊の枠を超えて)一般国民への音楽の普及に重要な役割を担っていた。第四師団軍楽隊もその例に漏れず、大阪の中之島で定期的に野外の公開演奏会を開き、欧米の行進曲や円舞曲はもちろん、邦楽曲を採譜・編曲して演奏したり、はたまた明清楽を管楽合奏に編曲して演奏したりして幅広いレパートリーを一般向けに披露していた。結果、軍楽隊は一般民衆から非常に親しまれる存在となっており、同時に軍楽隊自身も、軍隊と一般国民とを結びつける役割を担っていることを自覚していたのである。

 第四師団軍楽隊の楽長補の立場にあった宮崎利武氏が第三高等学校桜楽会の指導を引き受けたのも、軍楽隊が軍隊の枠を超えた役割を担っていたことを示すエピソードの一つであろう。宮崎氏は、楽長補を任じられていた位だから、単に管楽器の演奏ができただけでなく音楽全般にも深く素養があったものと思われる。邦楽曲や明清楽の編曲なども手がけていたのかもしれない。


 「琵琶湖周航の歌」誕生前後にあたる大正期は日本の軍楽隊にとっては波乱に満ちた期間であった。明治期に日清、日露戦争で勝利し、欧米各国からアジアの新興国として認められると同時に、警戒され始めていた日本は大正期に入ると国際的な軍備縮小の圧力を受け始めていた。陸軍軍楽隊は明治末期には朝鮮と中国の関東州にも専属の軍楽隊を擁するほどに成長していたが、その二隊が第一次世界大戦が勃発した翌年の大正4年に廃止されている。

 大正7(1918)年、ロシア革命に乗じてのシベリア出兵の際には、臨時編成の二隊の軍楽隊が陸軍から派遣された。第一臨時軍楽隊は大阪の第四師団の約半数のメンバーにより編成され、隊長兼楽長も第四師団軍楽隊の隊長が任命された。その中に宮崎利武氏の名前を見つけることはできなかったが、選抜されていても、されていなくても、これ以後はかなり多忙になったものと想像する。第二臨時編成軍楽隊は名古屋の第三師団軍楽隊メンバーを中心に編成された。シベリア出兵からの軍楽隊引き上げは大正11(1922)年12月であったが、それに先んじて3月末に名古屋の第三師団軍楽隊は廃止されていた。さらに翌大正12(1933)年3月末には第四師団軍楽隊も廃止されてしまった。


 軍楽隊の廃止は、第一次世界大戦後の財政逼迫が直接の理由ではあるが、これに対して激しい軍楽隊廃止反対運動が民間から起こった。音楽関係の諸団体やマスコミがこぞって廃止反対論を展開したのである。当時の軍楽隊が、如何に一般の音楽愛好家に人気があったかがわかる。第四師団軍楽隊は、反対運動の甲斐もなく結局は廃止されてしまうのであるが、その廃止された軍楽隊を、隊長、隊員、楽器、楽譜、その全てを大阪市が丸ごと受け継いだのが大阪市音楽隊、今日の大阪市音楽団である。調べて頂いたのだが、宮崎氏の名前は創設期のメンバーには無とのことで、その後の消息は分からない。

 「琵琶湖周航の歌」を軍楽隊が取り上げて演奏したという記録は、私が知る限りない。今日においても吹奏楽アレンジ譜は出版されていないので、恐らく演奏された事は無いだろう。そもそも、吹奏楽アレンジ譜が無いので、私自身がアレンジを行い、その解説文のつもりで書き出した曲の紹介文がダラダラと長くなり・・・・・・・結果、本サイトが誕生した次第である。


 
公開   2009.01.21.
改訂   2009.01.31.
微改訂   2009.03.12.
訂正   2010.05.04.
追記   2010.11.28.
改訂   2010.12.05.


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